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青と赤の点滅するライトの上は、藍色を刷毛で何層も重ねた夜の闇が広がっている。
飲み屋の外では良い潰れている三十過ぎの女がよろめいていた。
彼女は三森淑乃。
桜色のオフィスカジュアルな服から飛び出ている剥き出しの脚は、薄いベージュのタイツで覆われており、その細い足首の下は、衣服と同じ桜色の靴が履かれている。
ふらふらとした足取りの彼女が、後ろにくらり、と倒れそうになった刹那、確かな重力で彼女の体を支えるものがいた。
淑乃が首を傾げ、背後を支えているものを見上げる。
そこにいたのは、眉を顰めて彼女を見下ろしている背の高い青年だった。
刈り上げた黒髪と、短い前髪。少し焦げた肌の色は健康そうで、スポーツ着の方が似合っているのではないか、と思われたが、彼が着ている服は、きっちりと釦の留められた黒のスーツであった。
「岡田くん……」
普段オフィスで聴かせないような艶のある声で、彼の名前を呼ぶ。
岡田がそれを聞いて、わずかに唇を噛んだことに淑乃は気づかなかった。
周囲には会社の同僚たちが、微笑みながらふたりを取り囲むように歩いていた。その表情には、彼らをいじろうとしているような、そんな幼さが少し見える。
「三森先輩、危ないって」
「ははは、岡田。お前三森のことおんぶしてやれよ」
程よく酔って顔を赤くしている同僚たちの嫌味を含んだヤジに、岡田は歯を剥き出した。
「ああ、もう今日は俺の送迎会の飲みだってのに、何で俺がこんなはめにー!」
その声によってさらに力を抜いた淑乃が、
岡田に体重をかけてくる。
う〜、という女性らしからぬうめき声を上げ、さらに顔が赤くなったような淑乃を心配して、岡田は彼女の顔を覗き込む。
「三森先輩、大丈夫ですか」
「う~。うるせえ。来月からイギリス行くやつが日本の30処女の心配してんじゃねーよ!」
淑乃は岡田の手を払おうとする。
岡田は淑乃の言葉を聞いて青ざめた。
「処女って……」
同僚たちは、二人とは分かれ道になり、右方向へ行こうとする。
「じゃあな岡田。俺たち路線こっちだから。左方向まっすぐ歩いていけば、三森さんちだから、お前送ってけよ。ったく、あたしは今日酔いつぶれるつもりだから、あたしんちの近くで開いてくれって言う三森さんのわがまま聞いといてほんと正解だったぜ」
「三森んのことちゃんと家まで送ってくんだぞ! 英国紳士どの」
岡田は淑乃の肩に手を添えたまま、後ろを振り向いた。
同僚たちはにやけながら去っていく。
「日本からメールすっからな~!」
「え、おいちょっと!」
淑乃は岡田の手を払い除け、すっくと立ち、ふらふらと今にも倒れそうに歩いていくと、岡田と向かい合った。
「えっ、三森先輩?」
「彼氏いない歴と、処女歴更新中の三森淑乃30歳でございま~す!!」
淑乃は手を頭上に上げ、岡田に向かって丁寧なお辞儀をする。
夜のライトに照らされ、美しい所作であった。少し見惚れた後、岡田は我に返り、顔を真っ赤にした。
「先輩!!!」
怒鳴る岡田に、淑乃は俯いたまま皮肉な笑顔を浮かべた。
「笑っちゃうよね。30歳で処女なんてさ」
先ほどとは打って変わり、寂しげに俯いた淑乃に、岡田は瞳を揺らした。真顔で彼女を見つめる。
「先輩……」
「あ、ごめーん! 岡田くんの退職祝い渡しそびれちゃったあ。家に置いてあるから、ちょいそこで待っとれ」
ふざけた声色で、顔をあげ、満面の笑顔で淑乃は岡田を見つめた。
「あはっ、あたしの家、すぐそこだから行って参りやす」
敬礼のポーズをし、踵を返すと、大き
く手を振り上げてアパートへ向かう淑
乃。
真顔で淑乃の後ろ姿を見つめる岡田。
淑乃、アパートの階段を笑顔で上がろ
うとする。
体制を崩す淑乃。はっとした顔。
岡田、淑乃を後ろから抱きしめている。
淑乃「(後ろを見て)おからくん……?」
淑乃の耳元で囁く岡田。
岡田「退職祝いは、先輩がいいです」
淑乃「ふえっ……?」
岡田「先輩のはじめては、俺がいただきます」
岡田、淑乃の腹に回していた手を淑乃
の顎にかけ、振り向かせると後ろから
キスする。
酔いが覚めたように瞠目する淑乃。
○アパート・淑乃の部屋・中
淑乃のベッドで淑乃が下になり、岡田
が上になり、淑乃を跨いで半身を起こ
している。
淑乃、泣きそうな顔で両手で顔を覆っ
ている。
淑乃「岡田くん、やだ~」
真顔で淑乃を見下ろしている岡田。
岡田「何が嫌なんです。俺じゃダメなんです
か」
淑乃「……あたし、男の人の前で裸になった
ことないもん」
岡田「……赤ん坊の頃にお父さんの前でなら
あるでしょ」
淑乃「それとこれとは話が違う~! 笑っち
ゃうよね。30歳ではじめてなんてさ」
岡田「……俺が童貞卒業したの24の時っす
から俺も全然遅いっすよ。それにヤリマン
より、自分大切にしてる感じでいいじゃな
いっすか」
恥ずかしそうに両手の指を少し開け、
岡田を見上げる淑乃。
淑乃「笑わない?」
岡田「この状況で笑えって言ったって無理
でしょ」
岡田、淑乃の手を片手でどけ、キスを
する。
目をぎゅっと瞑る淑乃。
☓ ☓ ☓
裸で淑乃の上になり、汗をかいて動い
ている岡田。
裸で岡田の下になり、汗をかいて苦し
そうな顔の淑乃。
岡田「……痛いですか」
淑乃「だ、だいじょうぶ……」
岡田「……先輩……」
淑乃の耳元に顔を寄せる岡田。
岡田「淑乃さん、かわいい」
淑乃「お、かだ……くん」
達する淑乃。
☓ ☓ ☓
息を乱し、向かい合って目を閉じてい
る岡田と淑乃。
淑乃「……なんであたしにこんなことしたの」
岡田、目を開け淑乃の頬を撫でる。
岡田「……俺、大学時代美術史専攻だったん
です」
目を開ける淑乃。
岡田「美術館で見た聖母マリアの絵画を見た
時、釘付けになった。俺の求めている女は
こういう女だと思った」
淑乃「聖母マリアって、処女でイエス・キリ
ストを妊娠したって人?」
岡田「ええ。処女懐胎ですよ。そういう聖女
に憧れてました。一度も男を知らないまま、
子供を産むっていう」
淑乃「岡田君、やっぱり変態だね」
笑う淑乃。
岡田「俺が童貞卒業したのは、サークルのヤ
リマンの女に飲みに誘われて半ば襲われて
って感じででした」
淑乃「え……」
岡田「朝起きて、けだるい自分の体触ってみ
て思ったんです。何も感じなかったなって。
好きでもない女とヤっても、何も残らねえ
んだなって思いました」
淑乃「岡田くん……」
岡田「だから、オレそん時に次は絶対心から
惚れた女とセックスするんだって決めてま
した。俺の理想の女・聖母マリアみたいな
人と」
淑乃「それがあたし……?」
頬を染める淑乃。
淑乃の顎を手で持ち上げる岡田。
真剣な顔になっている。
岡田「先輩、もう一回してもいいですか?」
淑乃にキスする岡田。
☓ ☓ ☓
朝日が窓から差している。
布団を肩まで上げながら、両手を目の
上でクロスさせている淑乃。
岡田、淑乃に背を向け、出口付近でス
―ツの背広を着ようとしている。
淑乃「岡田ぁ」
淑乃の方に顔を向ける岡田。
淑乃「岡田の馬鹿野郎~」
岡田「……先輩」
淑乃「何でイギリスなんて行っちゃうんだよ。
あたしのはじめて奪っておいてヤリ逃げか
よ。許さんぞ岡田」
岡田「先輩……」
岡田、背広を完全に着て、淑乃の方を
見ながらドアノブに手をかける。
微笑みを浮かべる岡田。
岡田「先輩、俺で乗り越えられたじゃないっ
すか。この先何があっても大丈夫ですよ。
俺がいなくても」
両手をゆっくりと下し、岡田を見る淑
乃。
淑乃「岡田くん……。行かないで」
岡田「好きな人のはじめてが、日本での最後
の思い出だったの嬉しいです」
岡田、ドアを開ける。
岡田「イギリスから先輩宛てに、大英博物館のポストカード送ります」
淑乃「……ターナーの風景画」
岡田「え?」
淑乃「処女懐胎なんてキリストの辛気臭い宗教画送ったら、許さないから。あたしは美術はターナーの風景画の方が好きなの。
送るんだったらターナーにして」
岡田「(微笑み)わかりました」
岡田、出て行く。
淑乃、天井を見上げている。
徐々に目に涙を溢れさせ、瞳を閉じ、
両手の甲を瞼に当てる淑乃。
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