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木陰
千影は青年マルスの石膏像を描くために、線を引いた。
鉛筆は紙に滑らせると、味わい深い音を出す。放課後にデッサンをしていると、同じ階にいる吹奏楽部の演奏が響いてくる。指揮棒のかわりに鉛筆を動かす。Bの鉛筆を置いたとき、サックスの音が止んだ。同時にボン、と、遠くからボールを蹴りあげる音。校庭のサッカー部だ。かけ声が反響している……。高校生にもなると、男子は変声期を終えていて、低い大人の声になっている。
美術室に画材の匂いがこもってきたので、萩原千影は換気のために、二階の窓を開けた。中庭側の窓を全開にすると、テレピン油の匂いが外に出て、新緑の香りが入ってくる。
そして千影は、すすり泣く声を聞いた。
窓の下を覗くと、中庭の木陰で、ひとりしゃがんでいる男子がいた。千影のクラスメイトだった。刈りあげた頭と鍛えた体格、サッカーウェアでわかる。
――日下部くん?
千影は注意深く、木陰にいる人物を見た。本当にクラスメイトの日下部大智だろうかと、目を疑った。細い顎と手のグローブが見えた。
彼は明るいお調子者で、教室では笑ってばかり。耳を塞ぎたくなるような下品な冗談も言う。
「影が薄い」と囁かれる自分とは違う、賑やかな生徒だ。
千影は彼に伝えたかった。影で泣いているつもりだろうが、そこは美術室の真下だよと。
「部長」同級生の男子に呼ばれる。
「もうすこし、窓を閉めてよ」
そう注意されて、千影は窓を半分閉めた。日下部に気づかれなかったことに、ほっとした。
デッサンに戻る前に、同級生の中島に言った。
「テレピン油、開けっ放しにしないで。シンナー臭がこもるから」
「ん」
中島は熊のような体を折り曲げ、テレピン油が入った瓶のふたをしっかりと閉めた。
油彩画に使用する油は揮発性のもので、「取扱注意」のラベルが貼られている。しかし中島は絵に没頭していると、扱いがずさんになる。
端にいた一年生の女子ふたりが「助かりました」という顔で千影を見ている。中島は柔道部のような体格で、朴念仁だ。一年生女子とはまだ距離があるのだろう。
千影は中島の隣をとおり、デッサンへと戻った。
鉛筆を持ち、石膏マルス像と向かい合う。胸元までしかない青年像は、カーテン越しの光を受けて、淡い影を落としている。
……日下部くん、泣いていたな。
千影はデッサンをしている間、さきほどの光景が頭にちらついて、仕方がなかった。
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