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旧校舎の一階は陽も射さず、春も終わりだと言うのにわずかに冷気を孕んでいた。制服の上からカーディガンを羽織っているとはいえ、体の芯まで冷え込んでくる。
早く暖房の効いた教室に戻りたい……。
そう願っているのに、私の体は固まったように動かない。頭の中ではもう何度もシミュレーション済みなのに、なぜかスタートボタンが押せない。始まってしまえば一分もかからないミッションのはずなのに。
第二理科室の隣にある準備室の前で、私は既に二、三分は立ち尽くしていた。この姿を誰かに見られるのは相当まずい。
学校の人間なら大半の人が準備室にいる人物が誰なのか知っているのだから。
風見正臣。
四月に講師として赴任してきたばかりの風見先生は、職員室には居着かずこの準備室を拠点としているのだ。大学院を卒業し研究室で助手をしていたという風見先生は、人付き合いが苦手なのか、生徒のみならず教師陣からも距離を置いているようにみえる。
準備室は薬品の匂いが染み付いていて居心地が良いとは言えず、理科を担当する教師達ですら授業以外で近寄る事はない。だからお昼休みの今、この準備室にいるのは間違いなく風見先生一人のはずだった。
風見先生は担任も部活も受け持っていない。そんな先生を昼休みに訪ねる理由など、普通の生徒にはないはず。
けれども残念ながら私には課せられた指令があった。クリア出来なかったら、何を言われるのかわかったもんじゃない。そして、それは絶対に誰にも知られてはいけない――。
ひっそりとした廊下は誰かが来る気配はないけれど、それでもあの扉を開けるのは億劫だった。
このままじゃご飯を食べる前に、昼休みが終わってしまう。お昼を抜いて午後の授業をこなすなんて絶対に無理。お腹の音が教室中に響き渡るという最悪のシーンを想像し、自分を奮い立たせる。
私は意を決して、ドアをノックした。
「どうぞ」
一拍おいた後、緊張のせいなのか少し震えた先生の声がする。私は深く息を吸い込んで吐いた。
「失礼します」
極力小さく声をかけ、そっとドアを押した。隙間が大きくなるにつれ、薬品の匂いがどんどん強くなる。
普段立ち入ることのない部屋だから、中の勝手がよく分からず、私は躊躇いがちに足を踏み入れた。
部屋の真ん中に棚が設置されていて、この位置からは先生の姿を見つけることは出来ない。
進んでいくと、そこには白衣を着たままの先生と、なぜかクラスメイトの野中麻紘の姿があった。
「げっ」
思わず口から悲鳴が零れ落ちていた。
慌てて手で口を覆ったが、一度出てしまったものは戻せない。私の叫びは二人の耳にも届いてしまったようだった。
何事かという表情でこちらを見ている。先生にいたっては箸を持つ手が宙で固まっている。机の上には食べ途中のお弁当が置かれており、まさに昼食中のようだった。
「すみません。先生がお食事中とは思わなくて」
取りあえず言い訳してみたものの、野中さんは私を凝視したままだった。
「出直します」
視線から逃げるように背を向けると、野中さんの凛とした声が私を引きとめた。
「待って相沢さん。私も戻るから一緒に行く。先生、お弁当箱は放課後に取りに来ますね」
すぐさま私に追いつくと、がしっと肩を掴まれる。
「失礼しました」
野中さんの声に合わせて、私も反射的に頭をさげていた。先生は「あ、はい」と応えたようだった。
準備室の扉が完全に閉じられると、野中さんは鋭い眼差しをこちらに向けた。
「相沢さん、風見先生に何の用だったの?」
瞳には、警戒の二文字が浮かんでいる。
「授業で分からない事があったから、質問しに行っただけだよ」
カモフラージュ用に持っていた化学の教科書を、右手で水戸黄門の印籠のようにかざす。
けれども野中さんの視線は、手提げカバンが掛かっている私の左腕に向けられていた。
「それ、お弁当じゃないの? 風見先生に渡すつもりだったんじゃない?」
「これは私のお弁当。食堂で食べようと思って持ち歩いていただけ」
いざという時の為に考えていた言い訳を、野中さんは信じてくれたらしい。いつも通りの柔らかい笑みを浮かべて野中さんは言った。
「そうなんだ。てっきり風見先生にお弁当を作ってきたのかと思っちゃった」
私も、同じように聞くべきなのかな。
なんで野中さんが昼休みに先生と一緒にいたの?
先生が食べてたお弁当はなんなのか? どうして私のお弁当を気にするのか……。
慎重にいかないと、また質問の矛先がこっちに向かってしまう。
「野中さんは、先生にお弁当作ったの?」
「うん。風見先生いつもコンビニ弁当だから」
野中さんは、私から視線を外して言った。
これって、もしかしなくても、そう言う事なの?
私が言葉を失っていると、野中さんは顔を赤らめながら言った。
「ちょっと、付き合ってもらっていい?」
それから私は半ば引きずられるようにして、生徒会室に連れて行かれた。野中さんは生徒会のメンバーの一人で、昼はここで過ごす事が多いのだと言った。
生徒会室は日当たりがよく、先ほどまでの冷気がまるで嘘のようだった。最初から生徒会室として造られた訳じゃないから、前方には黒板が、後方には個人用ロッカーが並んでいる。会議できるようにと、中央に机と椅子が八つ置かれており、使わない机と椅子は窓際に寄せられていた。
初めて入る生徒会室に私がキョロキョロしていると、野中さんは手際よく窓際に置かれた机に、椅子を並べて座る。
「ちょうど良かった。今日は誰もいなかったね。食べながらでいいから私の話聞いて」
そう言いながら野中さんは、お弁当を取り出し机の上に広げた。ここまで来たら、逃げる訳にも行かず、私も持っていた手提げバックからお弁当箱を取り出した。
青いお弁当袋から、紺色のお弁当箱を取り出す。箸入れから箸を出すと、再び野中さんの瞳に、警戒の文字が点灯した。
「それ、野中さんのお弁当箱なの?」
ですよね。こんな長い箸、女子用の箸には見えませんよね……。
「これお兄ちゃんの。女子用のお弁当箱って小さくってさ。物足りないんだ」
半分本当で半分嘘である。こんなの女子が食べる量じゃない。
「意外。すごいね」
野中さんは、これまたあっさりと信じたようで、自分のお弁当箱を開けた。この嘘は信じてくれなくても良かったんだけど。
野中さんのお弁当箱は小さいながらも、おかずがぎっしりと敷き詰められていた。菜の花のお浸しに、白身魚の焼いた物、ポテトサラダにきんぴらごぼう。ご飯の上には鶏そぼろと炒り卵まで乗っている。
まさかこれ、全部お手製なの?
「えへへ、頑張っちゃった」
私の視線に気づいたのか、野中さんは照れ隠しのように舌を出してみせた。
「どれもすごく美味しそう」
「ありがとう。風見先生ってね、ピーマンが嫌いなんだって。子供みたいだよね」
顔を赤らめながら言う野中さんは、どこからみても恋する乙女で、私は曖昧な相槌を返す事しか出来なかった。
正直なところ、私は恋愛話が苦手なのである。
彼氏いないの? とか気になる人いないの? どんな人がタイプ……とか。
本当の事なんて言えやしないのに、根掘り葉掘り聞かれるのはしんどい。あまりにも追及されると、つい、心の内をさらけ出してしまいそうで。
いやいや、中学の頃の失敗は繰り返すまい。
理想の男性が兄だなんて、聞かされた方だって反応に困るだけなのだから。
話題がそちらに広がっていく前に、私は自分のお弁当に手をかける。野中さんのお手製のお弁当を見た後で、自分のお弁当を広げるのは非常に気まずい。
というか、このお弁当。開けて平気なの?
母が作った物だから私は中身を知らない。
まさか桜でんぶでハート型なんて描いてないよね?
あの人は時折そういうイタズラをして子供を困らすのだった。祈るような気持ちで蓋を開ける。そこにはいつも通り、冷凍食品を多用したおかずが広がっていた。
安堵と共に一気に羞恥心が広がっていく。
「あはは、高校生にもなって親に作ってもらってるだなんて恥ずかしい」
心の中で母に詫びつつ、手抜き弁当の責任を母に押し付ける。すると野中さんは掌をひらひらと横に振った。
「いやだ。私だって毎日は作らないよ? 今日は風見先生の誕生日だっていうから、好物を食べてもらおうと頑張っただけで」
驚いているのを悟られたくなくて、私は急いでコロッケを口に放り込んだ。安定の味が口の中に広がる。
「もうばれていると思うけど、私ね、風見先生の事好きなの。相沢さんはしっかりしてるし、口も堅そうだし相談に乗って欲しいな」
「えっ、ええ?」
今日の言動から、野中さんの先生への好意は察してはいたけれど、まさか自分が相談相手に指名されるとは思っていなかった。ここに連れ込まれたのだって、せいぜい口止めされるのかなと思っていたのに。
「なんで私なの? 野中さん、私なんかより親しい子いっぱいいるじゃない」
「うーん。美菜や瑛莉達に言っても、冷やかされるだけだと思うんだよね。教師と生徒の恋だなんて、真剣だと思ってもらえないだろうし」
それは確かに……。
あの子達なら、おもしろがって茶化されるか、協力すると言って暴走されるかのどちらかだろう。
野中さんは更に言った。
「それに風見先生って、相沢さんのこと意識してると思う。気づくと見てるの。授業中だって相沢さんを指名すること多いし」
野中さんの射るような眼差しが、私を突き刺す。
「な、何言っているの……」
「気づいてなかった?」
「それは、あれよ。私の出席番号が一番だからでしょ」
しどろもどろに私が弁明すると、野中さんは私を見つめて言った。
「相沢さんは風見先生のこと、どう思ってるの?」
「どうって言われても、先生としか見てないよ」
「本当?」
強く頷くと、野中さんはにっこりと微笑んだ。
「だったら、協力してくれるよね?」
これは非常事態だ。
私は箸を持ったまま固まるしかなかった。
「で、協力する事になったって?」
キッチンでフライパンを握りしめながら、お兄ちゃんは声を張り上げた。その声にわずかに怒りが含まれているようで、私は縋るように言った。
「だって断ったら、私が先生に気があると判断するとか言い出すんだよ? そんなの嫌だもん」
「でも協力って何するんだよ。そいつはお前と先生の関係知らないんだろ?」
お兄ちゃんは出来上がった麻婆豆腐をテーブルに置きながら言った。食欲をそそる匂いがダイニングに漂う。
「取りあえず、日曜のアリバイ工作頼まれちゃって」
「なに、どっか泊まりにでも行くつもりなの?」
心なしかお兄ちゃんの声が弾む。
「違うよ、デートのアリバイ。野中さんは校内でも有名なお嬢様だからね。休日に家から出るのも大変なんだって。万が一ご両親から聞かれた時に口裏を合わせるだけだから、それは別にたいしたことじゃないんだけど」
ご飯とお味噌汁をよそりにキッチンに戻るお兄ちゃんに、私は慌てて言った。
「私ご飯は要らない。お弁当があるの。お母さんから先生に渡すように言われたんだけど、渡しそびれちゃって。流れで先生の分は私が食べたんだけど、自分の分が残ってるんだ」
私は通学カバンから、赤色の弁当箱を取り出して見せた。蓋を開けると昼間に見たのと同じ内容のおかずが並んでいる。
特別美味しい訳でもないお弁当を、二食続けて食べるのは正直しんどいけれど、作ってもらった物を捨てるのも心苦しく、私は重い箸を持ち上げた。
「まったくお母さんにも困ったもんだよ。いきなりお兄ちゃんが忘れたお弁当、先生に届けろだなんて。ばれたらどうするんだろ」
ぐちぐちと文句を垂れ流してると、お兄ちゃんは私からお弁当を取り上げ、自分の席の前に置いた。そして温かいご飯とお味噌汁を私の前に置いてくれる。
「いいよ。そっちは俺が食べる」
手を合わせて「いただきます」と言うと、お兄ちゃんは「どうぞ」と言って促した。
お兄ちゃんの作る麻婆豆腐は、私の好物の一つ。辛さと甘さが絶妙なバランスで成り立っている。この味はお兄ちゃんにしか作れない。
「たくさん食べな。お前は痩せすぎなんだから」
「お母さんの分残しておく?」
「今日は正毅さんの家に泊まるって言ってたから、全部食べちゃっていいよ」
「また泊り? まったく未成年の子供ほっぽってなにしてんのやら」
顔をしかめてみたものの、内心は嬉しくてたまらない。お兄ちゃんを独占できるなんて幸せすぎる。夕食食べ終わったら、勉強でも見てもらおうかな。
お昼に男性用のお弁当を食べたというのに、私の食欲は止まらなかった。私が麻婆豆腐を堪能していると、お兄ちゃんは唐突に話を元に戻した。
「で? その野中さんとやらは本気なの?」
「本気も本気。あれはやばい目だった。野中さんの話によると、先生って一部の生徒達から結構人気なんだって。なんか信じられない。髪もぼさぼさで猫背だし、挙動不審でコミ障っぽいのに」
私が一気に言うと、お兄ちゃんはいつになく真面目な顔をして言った。
「女子高に若い男だろ? モテない訳がない。それにあの人きちんと整えたら結構カッコいいと思う。身長もあるし高学歴だしモテる要素は山ほどあるじゃん」
「ええーー?」
にわかには信じがたい。
カッコいいっていうのは、お兄ちゃんみたいな人のことを形容する言葉であって、絶対に先生に使うような言葉ではないはずだ。
「性格だって誠実で優しそうだし。恋人出来たら一途に大切にしそう」
「そうかなぁ?」
納得はいかないけど、お兄ちゃんの人を見る目は確かだ。今までだって何度、母が助けられた事か。
一度結婚に失敗したというのに、母は何度も再婚を試みては失敗を繰り返していた。
無駄に美人というのも、こういう面ではあまり良い方向に働かないものらしい。連れてくる相手はことごとくダメ男ばっかり。
それをいつも一目で見抜くのがお兄ちゃんだった。正毅さんの事だって、お兄ちゃんのお墨付きがあってこそ事実婚に踏み切ったのだった。
「それにしたって、あの人にその気あんの?」
「さぁ? 先生そういう事に疎そう」
「確か、中高男子校で理工学部って言ってたもんな。明らかに女慣れしてなさそうだし。十近く年下の女子高生に落とされるなんて、おもしろいな」
けらけらと笑うお兄ちゃんを、私は睨みつけた。
「もし先生と野中さんが付き合う、なんて事になって学校にばれたらどうするの!」
「生徒を妊娠でもさせたらクビどころじゃすまないな」
最悪のシナリオに、血の気が引いていく。
「そんな事になったら正毅さん悲しむ。そしたらお母さんだって!」
私が叫ぶように言うと、お兄ちゃんはニヤッと笑った。
「どうすんの?」
「お兄ちゃん、助けて」
母と正毅さんが付き合い始めたのは、もう五年も前の事だ。正毅さんは愉快な人で私もすぐに好きになった。女手一つで兄と私を養ってくれた母だ。幸せになってもらいたかった。籍を入れたいという話を聞いた時は、両手を挙げて賛成した。
けれども四月。正毅さんの息子として紹介された男が、全校集会の新任挨拶で体育館の壇上に立った時の衝撃ときたら、とても言葉では言い表せなかった。
母と正毅さんが出した結論は、私が高校を卒業するまでは籍を入れないというものだった。
私と先生が義理とはいえ、兄妹となったことが学校に知られたら、良い顔はされないというのが理由だった。
桜ヶ丘女学園は伝統ある名門校だ。保護者会の力も大きい。保護者が異を唱えれば、講師なんてすぐクビになってしまうだろう。
「まったく、なんであんな人のために、貴重な日曜日をつぶさなくちゃいけないの」
「あんな人じゃなくて、兄さんだろ? 家族じゃないか」
「兄だなんて思える訳ないじゃない! まだ一回しか会ったことないのに」
私は目の前のパフェを勢いよく口に放り込んだ。お兄ちゃんはスマホを弄りながら言う。
「毎日学校で顔を合わせるだろ?」
「先生としてでしょ。それに化学の授業は毎日ないから」
私とお兄ちゃんは、先生と野中さんのデートを阻止すべく、映画館の入り口が見えるカフェに対策本部を設置した。
デートの場所及び待ち合わせ時間は、口裏を合わせる必要があるからと、私が野中さんから聞き出した。
その一方でお兄ちゃんは、先生の近況も上手いこと先生から聞きだしてくれた。一度しか顔を合わせていないはずなのに、お兄ちゃんは先生と連絡先を交換していたらしい。
先生は明日の予定聞かれ、生徒からお願いされた用事があると素直に答えたらしい。もちろん先生にはこれがデートだという認識はない。しかし生徒とはいえ女性に誘われるのはまんざらでもなさそうな気配があったと、お兄ちゃんは言った。
呆れて物も言えない。
正毅さんの息子じゃなければ、絶対に放置しておくのに!
お兄ちゃんは、「野中ってやつが本気なら、反対すればするほど強固になるはずだから、正面から説得するのは不可能。かと言って兄さんが上手くあしらえるとは思えない。下手に恨まれても面倒だし、他の男を用意するしかないな」と言って戦略を考えてくれた。
「あ、来た」
映画館の入り口に、スーツ姿の先生が立っていた。きょろきょろと落ち着かなそうに辺りを見渡しているのは、野中さんを探しているからなのだろう。街中で見ると一層、ダサさが強調されている気がして、私は思わず机に突っ伏した。
野中さん可愛いのに、どうしてあんな奴を好きになっちゃうの?
そりゃ、見た目が全てじゃないけどさぁ。
お兄ちゃんのスマホが光ったのが目に入る。すぐさまスマホに目を通してお兄ちゃんは言った。
「上手くいった。彼女を誘えたって」
「本当?」
お兄ちゃんの言葉を疑うつもりはないけれど、上手くいきすぎて拍子抜けする。
「うちの学校にナンパのプロがいるんだよ」
お兄ちゃんは頭脳明晰な上に、コミュニケーション能力の高い。どんな人とだって仲良くなれるから、ナンパが得意な友人がいても不思議ではなかった。
「それはそうと、野中さんは傷つけないでよ。悪い子じゃないんだから」
「分かってるって」
お兄ちゃんは伝票を取り上げると、おもむろに立ち上がった。
「俺はこれから、アレを回収する。ちゃんと説教とフォローしとくから。お前は気をつけて帰れよ」
それだけ言い残すと、お兄ちゃんは颯爽と店を出て行った。お兄ちゃんが店内を移動するだけで、女子がざわざわするのがわかる。
もう慣れっこだけど、やっぱり一緒に街に出るのはちょっと憂鬱になる。血の繋がった兄妹だというのに、どうして私は兄に似なかったんだろう。
別に美形に生れたかった訳じゃないけど、せめて兄の隣にいて釣り合うぐらいの容姿で生れてきたかった。
私は溜息をつくと、パフェの最後の一すくいを口に入れた。
アレというのは待ち合わせ時間を過ぎているのに、未だ映画館入り口で立ち尽くしている先生の事だろう。この後、血の繋がらない弟から説教されるのかと思うと、あまりの情けなさにめまいがしてくる。あれが私の兄かぁ……。
いやいや、あんなの兄じゃない。
お兄ちゃんはいつだって私を助けてくれる。私のスーパーヒーローなのだ。
その日の夕方。
私は母からの電話によって、正毅さんの家へと呼び出された。
あれからお兄ちゃんは先生と意気投合したのか、正毅さんと先生の住む家に行ったようで、私以外の家族が勢揃いしたのだという。だったら私を呼んで皆で夕食を、という話になったらしかった。
先生の家に来るのは初めてだったけど、駅からの道順はお母さんに聞いていたから特に迷ったりはしなかった。「すごい豪邸だから」という母の言葉は決して大げさではなく、道路から見ただけで気後れする壮大さだった。
先生ってボンボンだったのか……。
「えっ、お兄ちゃん帰っちゃうの?」
私がチャイムを押すと、顔を出したのはお兄ちゃんだった。お兄ちゃんはそのまま靴を履いて家を出ていこうとしている。
「ごめん。ナンパお願いした奴から呼び出されちゃってさ」
「なんか問題でもあった?」
「どうも彼女の事を気に入っちゃったらしんだよね。諦めさせるから大丈夫だよ」
私の頭を軽く叩き、お兄ちゃんは行ってしまった。バタンとドアが閉まる音が、死刑宣告のように重く私にのしかかる。
お兄ちゃんが大丈夫と言うのだから、何も心配する事はない。
それなのに私の気が重いのは、これから一人で家族団欒に付き合わねばならないという事だった。
母と正毅さんの事は応援しているし、先生の事も嫌いではないけれど、家族ごっこに付き合わされるのは気乗りがしない。
お兄ちゃんがいるって聞いたから来たのに。
初めての家族揃っての夕食に、母は張り切ったのだろう。食卓の上には母の得意料理が並べられていた。記念日でもないのに机の上には、ワインまで置かれている。
夕食の準備が整うと、正毅さんが二階にあるという先生の部屋まで呼びに行った。
先生はパーカーにジーンズというラフな格好に変わっていた。確かにお兄ちゃんの言う通り、まともな恰好をすれば見られなくもない。
四人で食卓を囲むと、話題は自然と先生と私の学校生活になった。
「正臣は学校だとどんな感じなの?」
正毅さんがグラスを傾けながら言った。私の隣の席で、先生が体を固くしたのが分かる。
「先生の授業は分かりやすいって評判ですよ」
私の当たり障りのない回答に、正毅さんは嬉しそうに目を細めた。
「そうか。ちゃんと教師やってるんだなぁ」
「じゃあ私も聞いちゃお。うちの子、学校で上手くやれてる?」
「相沢さんはすごく、しっかりしています」
母の質問に先生が卒のない回答をすると、正毅さんが苦笑いして言った。
「おいおい。その『相沢さん』とか『先生』とかっていうのは学校だけにしてくれよ。いきなり家族になるのが難しいのは分かるけどさ、堅苦しいよ」
そんな事言われても、先生は先生だ。私が言葉に窮していると、こちらの様子を窺うように先生は言った。
「じゃ、じゃあプライベートでは皐月ちゃんって呼んでもいいかな?」
馴れ馴れしくして嫌、と思ったけどそれ以外の選択肢が思いつかず、私は無言で頷いた。
「皐月は何て呼ぶの?」
「……正臣さん」
兄と呼ぶのは抵抗があった。私が必死の思いで口にした言葉に、母が無邪気に笑う。
「なんだか新婚さんね。皐月、良かったじゃない。あんたお兄ちゃんと結婚するのが夢だったのよね。正臣さんなら夢が叶うわ」
「おっ。いいね。皐月ちゃんなら大歓迎だよ」
母に同調するように、正毅さんは言った。睨み付けると、二人は揃って肩をすくめた。酔っ払いはこれだから嫌いだ。
「お兄さんって呼びます」
「……うん」
なぜか顔を赤らめている先生を無視し、私は食事を続けた。もう話を振られても答える気力は残っていなかった。
「正臣君、ピーマンの肉詰め食べてくれた? これ自信作。今日はちゃんとピーマンが剥がれずに出来たのよ」
お腹も良い感じに膨れてきた頃、母がおもむろに先生に声をかけた。黙々とご飯に集中していた私だが思わず意識が向く。
「あ、いただきます」
先生はそう言って一個取ると口に入れ何回か咀嚼した後に、笑顔で「美味しいです」と答えた。母はそれで満足したようで、もう次の話題を正毅さんに振っている。でも私は先生が青い顔をして水を飲んだのを見逃さなかった。
母に気をつかっているんだと思うと、なんだかちょっぴり同情したい気持ちになる。
お兄ちゃんだったら、きっとこんな場面、決して苦手な物を口に入れることなく上手く回避するんだろうな。
食事が終わって片付けも済むと、もうこの家に滞在する理由はなかった。
「お母さん、私帰るね」
「そう? 気をつけて帰るのよ」
リビングで寛ぐ母に声をかけ、正毅さんに別れの挨拶をする。
「そっか。皐月ちゃん帰るのか。ごめん、酒飲んじゃったよ」
頭をかきながら、心底申し訳なさそうに言う。
「大丈夫ですよ、電車で帰りますから」
しかし正毅さんは父親スイッチが入ってしまったらしく、真剣な顔をして言った。
「駄目だ。何かあってからじゃ遅いんだ。正臣に送らせよう。あいつに兄らしい事をさせてやってくれ」
そして私の回答を待たず、二階の自室に戻っていた先生を引っ張ってきた。
「すみません」
一応、私が頭をさげると、先生は首を横に振った。そして無言で外へ出て行ってしまう。私は慌ててその後を追いかけた。
先生の車はあまり見かけない車種だった。車なんて興味ないから、メーカーもなにも分からないけど、お値段の張る車だっていうのは、シートの肌触りで分かった。高級車だからなのか、先生の運転技術が高いからなのか、乗り心地は悪くない。
「相沢さんの家って上緒駅の方でいいんだったよね?」
「はい」
ここからだと三十分はかかるかもしれない。
先生は慣れた手つきで、ギアチェンジを行いハンドルを回した。
車は密室なんだから男と二人っきりで乗るなと、お兄ちゃんに言われた事を今になって思い出す。
ばれたら怒られるかな?
でもこの人は男と言っても先生で、一応は兄なんだよね。
ちらっと横目で先生を見やる。先生は普段掛けていない眼鏡をしているせいか、いつもより知的に見えた。
「相沢さんと睦月君、すごく仲がいいんだね。相沢さんの趣味が将棋だって聞いたよ」
「はい」
頷いてから呼び方が「相沢さん」に戻っている事に気がついた。指摘すると先生は顔をこちらに向けてためらいがちに言った。
「名前で呼んでいいの? 相沢さん、嫌じゃない?」
嫌だと思っていたの、ばれていたのか。
それにしてもお兄ちゃんの事は名前で呼ぶのに、私が苗字なのはなんだか引っ掛かる。
先生は私の回答を待っているのか、口を開かない。沈黙が気まずくなり、私はふと思ったことを口にしていた。
「この間、誕生日だったんですか?」
「あ、うん。どうして知ってるの?」
「野中さんから聞きました」
誕生日だけじゃない。先生に関する事は、ほとんど野中さんとの会話で知った。
好きな食べ物。嫌いな食べ物。
ふと、先生が授業中に私をよく見ていると言っていた事も思い出してしまって、顔に熱が宿る。車の中が暗くて良かった……。
先生はその名前で、今日の出来事を思い出したらしい。恥ずかしそうに言った。
「睦月君から聞いたよ。心配させちゃったみたいでごめんね。今後は気をつけて迷惑かけないようにします」
「そうしてください」
赤い顔を覚られたくなくて、自分でもびっくりするほど冷たい声になってしまった。私は慌てて次の言葉を捜す。
「その格好、お兄ちゃんに選んでもらったの?」
センスの良さからして先生のチョイスでないのは一目瞭然だった。
お兄ちゃんは誰とでも仲良くなるけど、誰にでも優しい訳ではない。どちらかというと友達には塩対応で、甘やかしてくれるのは私だけの特権だった。
知り合ってまだ間もないのに服を選んであげるなんて、お兄ちゃんは先生の事、家族として認めたということなんだろうか。
野中さんを撒いてくれたのだって、私や母のためもあるんだろうけど、先生のためでもあったに違いないない。
「これ? そう。似合ってるかな? なんか恥ずかしくて」
「全然いい。かっこいい」
おもしろくなくて、ぶっきらぼうに言うと、先生はいつもよりツートーンぐらい明るい声音で言った。
「あ、ありがとう」
お兄ちゃんが選んで似合わない訳がない。
そういうつもりで言ったのに、先生は顔を綻ばせて喜んだ。今更訂正するのも面倒で、私は話を逸らすことにした。
「私もよくお兄ちゃんに選んでもらうんです。これ進級祝いにお兄ちゃんが買ってくれたやつ」
ワンピースの裾を摘んで言うと、ちょうど信号で止まったらしく、先生は首だけではなく、上半身をこちらに向けた。
「そ、それすごく可愛い」
お兄ちゃん以外から賞賛される事に慣れていない私は、両手で顔を隠して言った。
「そうやって軽々しく可愛いだなんて言っちゃダメです。そういうのは好きな人にだけに言わないと」
先生はアクセルを踏みながら言った。
「皐月ちゃんは妹だもん。睦月君だって皐月ちゃんに可愛いって言うでしょ?」
「そっか」
私は首を縦に振っていた。
「じゃあさ、僕も皐月ちゃんの誕生日に、洋服プレゼントしていい?」
「それはダメ」
私が即答すると、先生は悲しそうな顔をして肩を落とした。
その様子がなんだか可愛く見えて、私は少しだけ笑ってしまったのだった。
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