水溶液にとける夏

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 指、人差し指。  私は今日も、晴太の人差し指を見ている。  晴太は私の視線には気づいていないように、数学の参考書をぺらぺらとめくりながら、微分わっかんねぇー、とがしがし頭をかく。 「その問題はこの公式を使えば秒だよ」  私は、晴太の左手の指をつまみ、指の関節や細かく刻まれたしわを眺めながら言う。 「いいよな、桐は。数学の神童ともてはやされて」 「誰が言ってたの、それ」  私には、友達といえる存在は、ほぼいない。 「私が本当に好きなのは、生物なの」  外では雲一つない空の下で、今年もセミが鳴き始めている。本の黴臭さが熱気とともにこもる図書室で、私たちは小声で話している。といっても、午前にテストが終わり午後は自由になるテスト期間は、学校の近くにあるファストフード店や教室で勉強をする人が多い。薄暗く午後の光が差し込む図書室にいる人影は、まばらだ。 「今回も赤点とったら、まじで古谷に怒られる。勉強をおろそかにする言い訳に、サッカーを使うなって」  夏前の面談で絶対言われるって、と声をひそめた晴太の低音ウィスパーボイスは、聞くだけで目の前にいる者の脳内を混乱させる。晴太の危機的状況とは裏腹に、尊さを凝縮したような晴太という生命の神秘に、私は目がくらむような気持ちを覚える。 「最後のインターハイ、もうすぐだもんね」 「そうそう。六月は模試で七月は期末でしょ。八月は真夏の暑い中部活で、もう勘弁してほしいっすわ」  私たちの学校は、公立高校ながら全国大会に県内最多の十五回も出場した実績を持つ、サッカーの強豪校だ。フォワードを任されている晴太は、百八十センチ越えの高身長を活かしてヘディングなどの空中戦にも重宝されている。と、クラスの女子が盛り上がっているのを聞いた。 「夏が来たら海に行こうよ」  海と晴太と夏空を拝むという特別な者にだけ与えられた権利を、乱用しない手はない。 「もう夏だよ」  晴太はノートに数式を書き込みながら言う。 「夏の境目ってどこからなの」  私は縮毛矯正でストレートになった黒くて硬い前髪を、指でぱらぱらとつまみながら聞く。 「空気の湿度が上がったとき」 「なにそれ」  うーんと晴太は考え込み、 「よくわかんね。けど、夏のロッカールームは地獄だ」  にやりと目を細めながら笑った晴太の左頬に、小さなくぼみができる。私はこのくぼみを、晴太の沼と勝手に命名している。ふいに現れる希少性の高い神秘的なくぼみは、見る者を沼に引きずり込んでしまうからだ。  私はあの時、このくぼみに、私の高校生活をいとも簡単に塗り替えられてしまった。
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