水溶液にとける夏

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               *  晴太と出会ったのは、高校二年生の春。消毒液の匂いが染みついた生物室だった。私は部員一名の生物部に所属し、メダカの水槽についた藻を掃除していた。放課後の生物室は埃っぽく、あたたかな西日が差し込んでいて、薄暗い闇と黄金のやわらかな光が溶けあっていた。水槽のエアーポンプのコポコポという音しか聞こえない空間はどこか浮世離れしていて、パスパスー! と叫ぶ野球部の声がどこか遠い世界に思えた。  時間が止まった空間を動かすようにガラガラと扉を開けて入ってきた晴太は、柔らかな黒髪の短髪と、一つボタンを空けた襟から覗く浅黒い肌、繊細に扉を閉める手つきが印象的だった。 「あ、ども」  晴太は軽く会釈すると、実験用の細長く黒い机と水色のパイプ椅子の隙間を、身をかがめながら覗きだした。  大型犬みたいだな。  誰も来ない放課後の生物室に突如現れた来訪者を、私はひっそりと警戒しながら観察していた。 「あの、どこかにシャーペン落ちてませんでしたか。紺色の」  クラスでも誰かに話しかけられることなど皆無の私は、びくりと肩をふるわせながらそっと晴太の方を見た。紺色のシャーペンは一切見かけていなかったが、大型犬でありながら子犬のように無防備で不安げな顔を見たら、手伝わないわけにはいかない。  一緒に身をかがめながら生物室を探し回っていると、シャーペンは前方の黒板前の机の下に落ちていた。くっそ、岡田のやつここまで飛ばしやがって、とつぶやきながら、晴太はふっと気のゆるんだ顔になった。 「助かったわ。二年?」  突然の質問に面喰った。なるべく平静を装い、そうだけど、と答えた。 「生物室の守護神、ありがとな」  切れ長の目を細めながら笑う晴太の左頬には、小さいえくぼが浮かんでいた。えくぼは恋の落とし穴、というアイドルの自己紹介フレーズが脳裏をかすめる。私にとっては、もはや沼だった。    あ、やべ、部活始まるわ、と言いながら晴太は左頬の沼をひっこめると、あざっす、と柔らかな黒髪を下げた。小走りに生物室を出ていく晴太の後ろ姿を見つめながら、やはり大型犬みたいだと思った。  
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