水溶液にとける夏

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 図書室には、晴太が先に来ていた。本棚の向こうの学習スペースに見つけた、大きな背をかがめて数Ⅱの教科書に向かうその姿は、ひときわ目立っていた。どくん。心臓の鼓動が早まっていく。早く近づきたいのに、背中越しでも数学に苦戦していることがわかるその姿が愛くるしく、ずっと眺めていたかった。晴太の姿をホルマリンに漬けて、いつまでも眺めていたい。そして、時を止めた瓶の中で、晴太を一生保ち続けたい。  くうー、と長い手足を大きく伸ばしたタイミングで、あ、と晴太は私に気が付いた。てかさー、もう全然意味わからん。これは詰みだ、と顔をゆがめた晴太のノートを、どれどれと隣の机上に荷物を置きながらのぞき込む。これは円の中心と半径を求めたいから、と晴太の紺色のシャーペンを握り、サラサラと新たな式を書き込む。お、さすが桐、天才じゃん。にやりと笑う晴太のえくぼが見たいから、私は左側の席に座る。桐ってさ、数学の何が好きなの、こんな意味わからん数字の羅列。俺ぜってー無理。そういいながら晴太は頭をがしがしとかく。 「数学は好き、というより楽。問題を解いてるとき、余計なことを考えなくていいから」  人と意思疎通を交わすことが苦手な私にとって、数学のように公式や正解が示されている学問は安心する。高校時代って、華やかで、青春ど真ん中で、素晴らしいもののように言われるけれど、それは幻想だ。  私たちは日々手探りで、声色や顔色から相手に同調し、楽しくてテンションが合う「自分」を演じている。嘘偽りと本音がまじりあった、意外にもどろどろとした世界を生きている。生物にしか興味がない私にとって、どれだけ推しのアイドルが尊いかについて話されても、わかるーと激しく共感することはできない。そして、それらの会話のパスをテンポよく回していくことは、数学の問題を解くよりもずっと難しい。私は人と関わることで生まれる感情を持て余すばかりで、上手く扱うことができない。今、この瞬間も。  私は、晴太の左手に浮き上がる太い血管を、人差し指でなぞりたい衝動に駆られている。 「そういえば」  昨日やってた夕方のニュースで見たんだけど。西区の学校で、人間の脳のホルマリン漬けが発見されたらしいよね。偽物の模型だと思ってたら、実は本物の人間の脳だったんだって。 「なにそれ、気持ち悪」  晴太は大げさなくらいに眉をひそめると、再び数学の問題に取りかかった。
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