水溶液にとける夏

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「晴太はさ」  なるべく自然に、今ふと思いついたように切り出した。 「なんで私に興味を持ってくれたの」  私は自分に自信がない。容姿も、性格も。それなのに、シャーペンを一緒に探してあげた恩義があるとはいえ、他クラスであった晴太が私に興味を持ってくれた理由が、ずっと気になっていた。 「ん―、そうだな」  晴太はコップの溶けかけた氷をくるくると回して五秒くらい宙を見た後に、そのまま虚空を見つめて言った。 「桐のこと、知りたいって思ったから」  私は、晴太の眼の中に見たことのない宇宙を見たような気がした。星がきらめく宇宙ではなく、遠くに光がない、真っ暗な闇の中をさまよっているような宇宙だ。 「俺、誰かのぬくもりとか、よくわからんからさ」  晴太は、自身の家庭環境についてぽつり、ぽつりと雨がしたたり落ちるように話し始めた。晴太が五歳の頃、母親は不倫相手とともに出て行ってしまったこと。そこから父子家庭で育ったが、父親とは仕事が忙しくあまり遊んだ記憶がないこと。愛された思い出がないからか、誰かと一緒にいても、どこか冷めた目で客観的に自分を見てしまうこと。晴太はサッカー部でも活躍していて、かっこよくて、友達も多くて、もしカーストのようなものがあるのなら確実に最上位だった。むしろ、そんなランク付けなど意味をなさないくらいに、晴太はすべて持っている、と、思っていた。 「俺、クラスのやつらのことも、部活のやつらもすっごい好きなんよ」  晴太の眼の中の宇宙が、濃くなる。 「でも、いつかどっかにいっちゃうんじゃないかって思うと、なんか全部どうでもよくなる。本当にいいやつらだし、話合うし、一緒にいて面白い。それなのに、なんでか、不安なんだ」  晴太は少し困ったように、私の眼ではなく、少し目線を下げた鼻の頭あたりを見つめている。 「授業が終わった後の放課後って、みんな遊ぶじゃん。群れるじゃん。昨日のテレビの話とか好きなやつのこととか大声で話して、馬鹿笑いして。楽しそうに過ごすじゃん。部活してるやつらも、一つのことに打ち込んで、他のことなんか見えていない風に眼を輝かせて、彼女作って青春してぇー! って口では言いながら、今しかない時間を一生懸命に生きてるじゃん」  私は、目線の合わない晴太の眼を、まっすぐに見つめている。 「俺、部活も好きだし、サッカーも得意な方だし、友達との会話も相手の投げたパスに対してどんな返しをすれば話が盛り上がるとかって、なんとなくわかるんよ。空気で。でも」  晴太は、私の鼻の頭にあった目線を、ゆっくりと下に落とす。 「空気をつかむような会話ってなんか空しくなるとき、あるじゃん」  腰かけたスチールの椅子の脚のがたつきを気にしながら、晴太は雨で汚れたコンバースのスニーカーを見ている。気にするふりをしながら、見ている。 「桐と会ったとき、桐は一人で放課後の生物室にいてさ。ほこりっぽくて、西日が差してるのに、なんだか少し暗くて。そこで、自分の好きなものだけを見てる、そんな気がした。誰かと慣れ合うんじゃなくて、自分の好きなものをシンプルに好きで。すべてがそぎ落とされてる感じがして。俺にはないものを、自分の中に持ってるって思った」  足元からゆっくりと顔をあげて、今度こそ晴太は私の眼をしっかりと捉える。不安げに。 「俺は桐のことを、もっと知りたい。でも、それ以上に、桐のことを好きになりすぎて、自分が傷つくのが、怖い」  晴太は、笑いながら泣きそうな顔をしている。左頬にできた沼には、窓の外と同じ、雨が降っている。  私はテーブルの上に組まれた、晴太の両手を包みこんだ。左手の人差し指も、包み込んだ。左手の人差し指は、願いの象徴だと聞いたことがある。「私を見つめてほしい」という意味を持つ、とも。  私たちは全然違うのに、同じだ。 「絶対、どこにも行かない。晴太がどこに行こうと、私は晴太を探し出すよ」  私は、晴太を愛している。それは、もう病的なほどに。私は晴太が思うような、清らかで、まっすぐな女の子ではない。私があの日、メダカの水槽の藻を掃除する前に何をしていたのか。あの時、晴太が見ていないものが、ある。 「私はずっとそばにいる。晴太がもし、私のことを心の底から信じられなくても、私のことをいつか嫌いになってしまっても。私は晴太を」  私があの日、生物室にいたのは。  私が生物室にいた理由は、飼っていたハムスターをホルマリンに漬けるためだった。  
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