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:第二十五 生きて
海を見た帰り、俺達は冬見の警察署へと赴いた。
事情聴取はそれぞれ別室に分けて行われ、俺は楓達を発見してからの経緯について詳しく聴かれた。
無論、事件が発覚してすぐ通報しなかったことを咎められたのは、言うまでもない。
「───本人がそう説明したんですか?」
「ええ。どうしてもと自分がお願いしたから、貴方は断れなかったんだと……」
「あいつ……」
俺は全面的に非を認めた。
通報しなかったのは俺の独断で、自首が遅れたのも俺が連れ回したせい。
たとえ厳しい処断が下ろうとも、楓の情状酌量を後押しできるなら構わなかった。
だが、楓の方も俺を庇おうとしたらしい。
自分が頼んで連れ出してもらった、彼は運悪く巻き込まれた被害者である。
俺に矛先が向かないよう率先して罪を被っていたと、後に担当者が教えてくれた。
残念ながら、道理と判断されたのは楓の意見だった。
俺はこれといった罰則もなしに、当日中の解放を許された。
楓に免じて帰り着いた家は、終ぞなく閑散としていて、息苦しかった。どちらが檻に閉じ込められたか分からないほどに。
「───ネグレクトに虐待、と……。なるほど。そして当日の────」
「繰り返さなくていいです。今言ったことが全てですから」
「……分かりました。ご協力感謝します。
裁判の日取りが決まりましたら、直ちにご連絡させていただきます」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
以降も俺は警察署へと通い詰めた。
楓の"これまで"と"これから"を、担当者に相談するために。
楓父がやってきたことは度し難い卑劣であり、楓も端から殺意を以って事に及んだのではない。
俺の言い分は一貫して変わらなかった。楓が不当に裁かれるのだけは、何としてでも防ぎたかった。
「───あの!」
「はい?」
「叶崎さん、ですか」
「ええ、そうですが。貴女は……?」
途中からは、楓の親族達も加わった。
血縁の濃い薄い、居住地の近い遠いに拘わらず、集まれる面子で楓を味方した。
俺は内の誰とも面識がなかったが、一方的に覚えのある人物が一人いた。
予定より早くに帰省したという、楓の実の母だ。
「私がいけなかったんです、ぜんぶ。
残されたあの子がどうなるか、分かった上で置いていった」
「………。」
「ごめんなさい、先生。私達のせいで、あなたにまでとんだ、ご迷惑を……」
宝生恵里。38歳。
中学生の息子がいるとは思えないスレンダーな体型に、腰まで伸びた茶髪のロングヘアー。
まるで楓が女装をしているように瓜二つな彼女は、涙ながらに俺と楓への謝罪を繰り返していた。
「わ、たし……。私、今更どんな顔で、あの子に会えばいいのか……っ」
その姿を見て俺は、非情な母なれど母には違いなかったのだと、呆れると同時に安堵した。
「───カナエちゃん、あの話本当なの!?嘘だよね!?楓くんがそんなことするわけないよね!?」
「───これがマジなら、どうなんだろうね?優等生。
カナエちゃんアイツと仲良かったけど、なんか聞いてないの?」
「───今思えば普通じゃなかったというか……。俺達とは違う世界に生きてるみたいな感じはありましたよね。
さすがに、こういう結果になるとは思いませんでしたけど」
「───カナエちゃん。オレ、まだ信じらんないよ。
だってあいつ、お祭りの時だってあんな、楽しそうだったのに……。
オレ、なんにも気付いてやれなかった」
冬休みが空け、三学期。
再開された学校は、楓の噂で燃えていた。
バットでメッタ打ちにしたとか、包丁でメッタ刺しにしたとか。
虐待が原因の怨恨だったとか、突発的にキレた末の不幸だったとか。
内容はガセだったり真だったりと様々だったが、"父親を殺した"という一点に於いては殆どの人間が聞き及んでいた。
箝口令が敷かれたはずなのに、一体どこから情報が漏れたのか。
同級生の父兄か、教師か。はたまた、俺か楓の近隣住民に過ぎない他人か。
いずれにせよ、自分達の境遇をエンタメ扱いされるのは、こういうことなんだな。
流れ作業であしらうたびに、空虚な心と不遜な社会とが隔っていく気がした。
「───なにも、言わなくていいです。言わなくても、分かるから」
「そっか。そうだよな」
「今更後悔したって、遅いんですよね。分かってます。分かってます、けど……」
「うん」
「オレにももっと、できることがあったはずって、ずっと、頭がいっぱいで」
「うん」
「……とにかく今は、オレのやるべきことをやります。それで、いつ楓が戻ってきてもいいように、待ちます。
なにがあっても、オレはいつまでも、あいつの友達だから」
「───わたしが泣いたって、しょうがないですよね。一番辛いのは、相良くんなんだし。
でも……、気付いたら涙が出るんです。どうして相良くんばっかりが、こんな……っ」
「………。」
「せんせい」
「うん?」
「わたし、相良くんに手紙、書こうと思います」
「手紙?」
「返事が来なくても、読んでもらえなくても、これから毎週、書きます」
「……君も辛いよ?」
「いいんです。なにがあっても、わたしは一生、相良くんを好きになったこと、後悔しませんから」
事情を知る葵くんと冴島さんは、この件を重く受け止めていた。
中でも葵くんは、楓と仲が良かったこともあり、クラスメイト達から執拗な質問攻めに遭っていた。
だが葵くん自身は、決して楓の秘密を明かさなかった。事態の混乱を避けるため、楓の名誉を守るために、敢えて知らぬ存ぜぬを通していた。
本当は主張したいこと、反論してやりたいことがたくさんあったろうに。ぐっと自分の感情を抑えて楓を守ろうとする姿勢は、とても立派だった。
「───叶くん。今夜、一緒に飲みに行きませんか?」
「……お気遣いは嬉しいですが、俺に羽を伸ばす権利は────」
「そんなこと言わないで。叶くんはもう十分、よくやったよ。叶くんばっかり、頑張りすぎなくらい」
「いえ……」
「……本当は、こうなる前に、もう少し、できることがあったのかもしれないけど。
でもそれは、叶くんのせいじゃないし、叶くんは悪くない。私はともかくとして、叶くんがそんな、自分のせいみたいに思うのは違うよ」
「ありがとうございます」
「どっちにしても、あとは裁判の結果を待つしかない。だから今のうちに英気を養っておくっていうか、───本当に、私が言えたことじゃないんだけど」
「………。」
「どうしても気が進まないなら、今夜はやめておく。ただ、これだけは覚えておいて。
あなたの存在は、きっと、相良くんの救いになっていたはずよ」
「───酷い顔色ですよ、先生。また眠れなかったんですか?」
「ああ、まあ……。情けない限りで」
「……気持ちは分かりますがね。あんまり自分を責めちゃ駄目ですよ。
というか、責任あるのは貴方より、俺の方でしょう。あいつとの付き合いは、俺のが早いし長いんですから」
「それとこれとは別ですよ。孝太郎さんには、楓も俺も、たくさん助けて頂きました。側にいない間のことを悔やんだって、いろいろ制約やら、限界があったわけだし……。
───すいません。うまいこと何も、言葉、出てこなくて」
「ですね。今更こんなこと言い合ったって、あいつのためにはならない」
「そう思います。
ご主人や奥様はどうされてますか?お店の方も、風評被害があったりとか……」
「多少はね。でも心配いりません。しばらくはこんな調子でしょうけど、営業は変わらず続けてるんで」
「そうですか」
「先生も、余裕できたら、いつでもいらしてくださいね。叶うなら、いつかはまた、楓とも」
同じく事情を知る葛西先生と孝太郎さんは、楓のことを悲しむと同時に、俺を心配してくれた。
もしかすると、責任を感じて早まった真似をするんじゃないか、と思われたのかもしれない。
そんな彼らの支えを有り難くお借りしながら、俺はじっと忍び続けた。
警察への協力も、楓の親族との交流も、今できることはやり尽くした。あとは下される天命を、身なり正して待つのみと。
僅かでも楓の過ちが容赦されるよう、願いながら。
『───あ、もしもし。川田です』
『どうも。何かあったんですか?』
『えっとですね……。もうお聞きになってるかもしれませんが、明日の午後から────』
『裁判』
『そうです。恐らく今回で決着がつくかと思われます』
『はい、大体は伺ってます。用件って、そのことですか?』
『ええ。ただ、ですね。こちらの予定とはちょっと変更というか、状況が変わりまして』
『というと?』
『その……。楓さんご本人がですね、最後の裁判には、叶崎さんを出席させないでほしいと仰ってまして……』
『え』
怒濤を経た二ヶ月後。
通算三度目となる、楓の処遇を決する裁判が行われた。
一度目では証人台に立ち、二度目では傍聴席に招かれたので、てっきり今度も何かしらで参加させてもらえると思いきや。
最後に限って、何故か俺だけ拒まれた。傍聴席どころか、裁判所に来ることさえ許されなかった。
理由は、楓たっての希望、らしかった。
もし判決が悪いものであった場合、俺に無様を晒したくなかったのか。これ以上、俺の時間を使わせたくなかったのか。
真意は不明だが、本人が嫌がっているとあれば無視するわけにもいかず。
代表して見届けに行った恵里さんからの連絡を頼りに、俺は気もそぞろのまま出勤したのだった。
「───本当に、あなたには感謝の言葉もありません。このご恩は、一生忘れません」
「そんな、俺はただ楓くんの───、……いえ。
ところで、本人は今どうしてるんですか?まだ釈放にはならないんでしょうか?」
下された判決は、執行猶予二年。
平たく言うと、しばらく肩身の狭い思いはするが実質お咎めなし、とのことだった。
楓がまだ未成年であることを含め、立場を考慮した上での情状酌量が大きく影響した結果だそうだ。
「どうしても今は会えないからと、これを……」
「………。」
「あの子が何を考えているかは、私にも分かりませんが……。良ければ、読んでやってください」
俺はさっそく葵くん達へ報告に回り、みんなと喜びを分かち合った。
ところが、後に合流した恵里さんは、釈放済みであるはずの楓を連れていなかった。
直接会えない代わりにと、恵里さんを介して届けられたのは、留置場で認めたという本人直筆の手紙だった。
"────これを受け取ったということは、そんなに悪い結果じゃなかった、ということになるんでしょう"。
"なのにどうしてお前はここにいないのかと、きっと怒っているよね。
色々頑張ってくれたのに、直接お礼を言えなくてごめんなさい"。
"結果はどうあれ、最初から決めていたことなんだ。
先生には会わない。今日だけじゃなく、しばらくの間ずっと"。
"嫌いになったとかじゃないよ。俺が先生に会いたくないんじゃなくて、先生に俺は会っちゃいけないって意味"。
"こっちは大丈夫、ぜんぜん大したことないって前に言ってたの、あれ嘘だよね?
本当は学校でも近所でも、あれこれ攻撃されてるって、冴島さんが教えてくれた"。
"だから、せめてほとぼりが冷めるまでは、会わない方がいいと思う。
これ以上、俺のせいで先生が傷付いたり迷惑したりするのは、絶対嫌だから"。
"あ、勘違いしないでよ?これきり永遠のお別れってわけじゃない。あの時の言葉も、ちゃんと本心"。
"俺は俺で、今できることを精一杯やってみるつもり。
犯した罪は消えないけど、それでも待っててほしいって、約束したから"。
"必ず立て直して、いつか会いに行く。
分かったら、しっかりご飯食べて、ぐっすり寝て、普通に待ってて"。
楓と個人的な付き合いをしていたこと。
楓の家庭環境を把握しながら、これといった対策をとらずにいたこと。
そして事件当日、然るべき責務を果たさずに、当事者である楓を連れて逃げたこと。
外野ならではの憶測が多かったとはいえ、それなりに的を射た噂話は当初から存在した。
俺は否定も肯定もせず、信じる者がいれば信じない者もいた。
ただ、根拠の有無に拘わらず、噂とは発露した時点でイメージを左右するもの。
"近所の奥さんが言っていたことなんだけど"。"友達の友達が見聞きしたんだけど"。
じわじわと枝葉を伸ばした"らしい話"は、いつしか当事者とは関わりのない場所で、真相のごとく語られるようになる。
とどのつまり、楓に絡めて俺が悪い風に囁かれるようになったのを、楓も知っていたのだ。どうやら、冴島さんが手紙で伝えてしまったらしい。
"少しだけ、さよなら。
今までありがとう、先生────"。
故に楓は、自分から離れていくことを選んだ。
俺に迷惑をかけないため、俺を守るため。
なにより、いつかまた、俺と会うために。
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