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「突然ですけど、不倫をやめてもらえませんか」
会社ビル横に設置された箱のような喫煙所で一人煙草を燻らしていると、見たことのない男が入ってきた。
喫煙所ではたいてい顔見知りだらけなのだが、彼の顔は初めて見る。煙草を持っている様子もないし、煙草を吸うようなタイプには見えない。清潔感のあるパリッとしたスーツが、煙草の煙も私の陰鬱さも全てを弾き飛ばしてくれそうな男だった。
背も高いのでこんな箱の中では窮屈そうに見え、天井から若干猫背ぎみに私を見下ろしてくる。実際には頭が天井に届くことはないのだけれど、何となく天井に遠慮してしまう、そういう人は今まで何人も見たことがあった。
「課長と不倫なさっていますよね」
私は男を一瞥した後、そっと視線を外すとゆったりと煙草を吸い続けた。
不倫は事実だった。私とはほぼ関係のない部署である営業部の課長と不倫している。出会いもこの喫煙所。だが、もうすぐ過去形に変わる。
彼は結婚して子どももいたが私は独身だった。彼の家庭を壊す気はさらさらない。最近彼の言動に煩わしさを感じており、潮時だと思っていた矢先の出来事だった。
「家庭を壊す気ですか」
男は、私が何の返事もしないことにいささか苛立っているように見えた。眉毛がほんの少し上がる。
煙草の火を消しながら、ふーっとため息をついた。
「家庭を壊す気は全くありません。別れようと思っていたところですから」
「壊す気がないなら最初から付き合わないで下さい」
私はおや、と眉をひそめる。
「……壊す気があれば付き合ってもいいということですか?」
「それくらいの覚悟があれば何も言いません」
そっちの方が怖くないか?と思いながら私はやや下を向き、また黙り込む。
「課長、奥様と別れる気でいますよ。相談されましたから」
最近私にもそんなことを仄めかしてくるようになったので、本当に嫌気がさしていたところだった。奥さんと別れて私と一日中、一週間でも、一ヶ月でも一緒にいたいのだと言う。結婚を求めているわけではないらしいが、とにかく私と離れたくないとそればかりで本当に気持ちが悪い。
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