純白のごめんなさい

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わたしは土下座をしていた。 純白のドレスに身を包みながら。 ベッドの中で、隣で眠る男性を起こさないように寝返りをうつ。 携帯を取り出し、スマホを立ち上げる。暗闇の中で、ぽうっと明かりが灯る。 結婚式の前夜。わたしは幸福と後悔を両方感じていた。 幸福はもちろん、この隣にいる夫となる男性と出会い、結婚することができることだ。 不満が全くないといったらウソになるけど、彼ならその不満も許容できてしまう。 わたしは彼の前髪に触れる。結婚式を明日に控えている人物とは思えない程、熟睡している。口から出たよだれが枕を濡らしている。 最も、彼は緊張していない、というわけではない。結婚のリハーサルを十回。誓いの言葉も二十回ものリハーサルを重ねる程緊張している。 今、熟睡しているのは、そのせいで疲れ果ててしまったせいだ。 反対にわたしは、目が冴えていた。眠れる気が全くしない。 でも、それは緊張が原因でないことを、わたしは痛感している。 ここひと月、わたしはほとんど眠れていない。眠れたとしても、二時間眠れたらいい方だ。 それは悪夢を見てしまうから。それが現実に起きて欲しくなくて、悪夢から逃げるために、必ず目を覚ましてしまう。 しかし、起きて実感する。それは悪夢ではあるけれども、現実にあったことが再上映されているだけなのだと。 わたしはスマホを操作し、一枚の写真を表示させる。スマホで撮ったものではあるけれど、スマホで撮ったものではないその写真。 現像してあった写真をスマホで撮った写真。 それがわたしに残された家族との唯一の写真だった。 「お父さん、お母さん……」 わたしはこの言葉を口にするだけで、胸が割かれ、血しぶきが噴出するような痛みを感じる。 痛くて痛くて痛くて痛くて。 気が付けば、わたしはベッドの中で胸を押さえて小さくうずくまっていた。呼吸が熱い。火を噴いているみたいだ。 わたしは愚かだった。 彼と出会う前、わたしは一人の男性と付き合っていた。今にして思えば、どうしてその人を好きになったのか、わからない。 でも、当時は好きだった。当時大学生になったばかりのわたしは、その人以外と一緒にいることは、全く考えられなかった。 恋は盲目と言うが、まさにその通りだった。 わたしの友達は、皆、忠告してくれていた。 あの人だけはやめた方がいい。あの人だけは付き合うべきではない。 だが、わたしはその声に耳をふさいだ。その人の甘言だけを全てだと信じ込んだ。 そんなある日のことだった。 わたしはお父さんとお母さんと大喧嘩をした。理由は、その人との付き合いについて、苦言を呈されたからだ。どうやら、お父さんとお母さんもその人の良くない噂を聞いたらしい。 お父さんもお母さんも、なんなら妹もわたしの交際に大反対した。 だが、わたしはそれに反発した。その人のことが好きだったから。その人がわたしの全てだったから。 その大喧嘩は一日では収まらなかった。数週間に及ぶ大喧嘩だった。 両親との喧嘩は何度もある。でも、その翌日にはいつも仲直りをしていた。 だから、その大喧嘩は人生で初めての出来事だった。そして、その大喧嘩はわたしと家族との距離を離し、結果としてわたしはその人にさらに依存するようになった。 それを見かねた両親が、わたしにその人と別れるように強く進言してきた。 いや、強いなんてものじゃなかった。 「別れないのなら、お前はもう家族じゃない」 それは事実上の最後通牒だった。 でも、わたしはそれに対して、とんでもない言葉を吐いてしまった。 「じゃあ、家族じゃなくていい。わたしの家族は一人だけでいい!」 「じゃあ、出ていけ。全てを置いて、出ていけ。お前の持っているものは、何一つとして自分で稼いだもので買ったものじゃない。だから、全てを置いて、出ていけ」 わたしはその時に見た憤怒と哀愁に満ちた父の顔を忘れたことはない。今だって、すぐそこに現れる。 わたしは家族の元を離れた。着の身着のままで。一銭も持つことを許されず。 その後、わたしはその人の元に身を寄せた。でも、そこにいた期間は三か月程度だった。 その人の本性をわたしが知り、そこから逃げ出したからだ。 逃げ出したわたしには何も残されていなかった。 お金は、アルバイトをしていたものの、その人に全て吸い上げられていて、一文無し。 友達は忠告を聞かなかったわたしを見放しており、友達を頼ることができなかった。 家には、啖呵を切った以上、戻るという選択を取ることはできなかった。 結果、わたしは路上生活を始めた。公園のベンチがわたしのベッドだった。 だが、ある時、危ない目に遭遇してしまった。その時は偶然にも警察が通りかかり事なきを得たものの、それを機に、わたしは路上生活が怖くなってしまった。 もう、プライドとかそういう話をしている場合ではなかった。一刻も早く、安全な場所に身を寄せたかった。 気が付けば、わたしは家に向かっていた。 家族だから、きっと許してくれるだろう。 そんな淡い期待を胸に抱きながら。 だが、その期待は粉々に砕け散った。 わたしの家があった場所は、わたしの家族が住んでいた場所は、更地になっていた。 ただ、売地という看板が立っているだけの場所になっていた。 愕然とした。わたしにとって家族は当然にそこにいる存在だった。楽しいときも、苦しいときも、互いが憎いと感じるときも。 でも、そこには何も残されていなかった。わたしとわたしの家族がいた証も、思い出も、始めからそこになかったかのようだった。 わたしは、わたしの家族ではなくなったのだと、そこで初めて知らしめられた。 そこからのわたしはがむしゃらに生きた。 本当にがむしゃらだった。初めは日銭を稼ぎ、それを少しずつ貯めて、家を借り、家を借りたらアルバイトをはじめた。 アルバイトで稼いだお金をためてスーツを買って、就職活動をした。そして就職を何とかもぎ取った。 けれどそこはブラック企業で、朝から晩まで働かされた。給料も安く、残業代なんて持ってのほかだった。 正直、アルバイトをしていた時の方が稼ぎが数倍良かった。 気が付いた時には心は壊れていた。今までは自分の力でどうにかできていたが、会社では自分の力以外力が強く、徐々にそれに潰され、最後はぺっちゃんこになっていた。 わたしは会社を辞めた。ただ、お金は多少あった。貯金だけは欠かさなかったからだ。お金がないことの重大さは身をもって痛感していたから。 わたしはお金がかかるので心の治療はせず、次の就職先を探した。用心深く注意深く、求人の言葉を読み解き、就職先を選別した。 そんなことをしている場合でなかったことはもちろん承知している。でも、働けなくなったら本末転倒だ。入口を間違えたら同じことの繰り返しだ。 そうして今の会社に就職した。ここは業務こそ多忙だったが、人には恵まれていた。 そして、隣で寝息を立てている男性と出会い、今に至る。 ちなみに彼にはわたしの全てを話してある。その上で、彼はわたしを受け入れてくれた。そして、彼の家族もまた、わたしを受け入れてくれた。 「……眠れない?」 ふと、体が優しく包まれた。あたたかい。心が安らぐ。 「ちょっとね」 わたしはスマホの電源ボタンを押し、明かりを消す。スマホはわたしが起こすまでもう起きることはない。 「明日は結婚式だから、早く眠れるといいね」 「……そうだね」 わたしは目を閉じた。先ほどまで眠れなかったのが嘘のように、わたしはあっさりと眠りに落ちた。 もう、悪夢は見なかった。 「ベールダウンをさせていただきます」 純白のドレスに身を包んだわたしは、従業員の方にベールダウンをしてもらった。 ここは多くの人が母親に頼んでいるそうだ。でも、わたしはお母さんがどこにいるか知らない。 「それじゃあ、行こうか」 「……うん」 わたしは相手の腕の内側に手を預ける。 ここも、多くの人が父親に頼む部分だろう。 バージンロードを父親と歩き、その先で待つ夫となる相手に託す。 それが多くの人が想像する結婚式ではないだろうか。 でも、わたしはお父さんがどこにいるか知らない。 一人で歩こうかとも思った。わたしはずっと一人で、どんなにボロボロになっても戦い続けけてきたから。 だけど、一人で歩くのはやめた。わたしはもう一人じゃないから。この人が一緒にいてくれるから。 だから、二人で歩くことを望んだ。そして、それを受け入れてもらった。 わたしたちはバージンロードへと進むための荘厳な扉の前に立つ。そして、それは大きく開け放たれた。 眼前に現れたバージンロード。オルガンの音色が、聖歌隊の歌声が、チャペル全体を柔らかく包み込んでいる。 その左右にはわたしたちの結婚を祝福するために集まった、たくさんの正装をした人たち。そこを抜けた先は数段の階段があり、そこで神父さんが柔和な笑みを浮かべて、わたしたちを待ってくれていた。 わたしたちは呼吸を合わせて歩を進める。一歩、一歩。バージンロードの感触を確かめるようにして、ゆっくり進む。 左右からの拍手に目を配る。左側には大切な人の友人や親族がいた。 右側にはわたしの職場の人だけがいた。最も、この職場の人は同じところで働いているわたしたちなので、相手の職場の人でもある。 つまり、わたしだけが知っている人は誰もいなかった。 こんな時でも、自分の愚かさを痛感せずにはいられなかった。自分が招いたことだが、それでも、天罰が下ったような気分になる。 こんな素敵なチャペルの中でさえ。 だから、わたしは途中から神父さんだけを見据えた。 そうしなければ、心の痛みのせいで泣き出しそうだったから。 一歩、また一歩。ゆっくりとした歩み。でも、それでも進んでいることには変わりない。 ついに最後の段差の前に来た。 そこでふと、右側を見た。左側には夫となる相手の親族がいるが、右側にいるはずのわたしの親族は誰もいない。 そのはずだった。 刹那、わたしは一気に崩れ落ちた。足から一気に力が抜けた。その勢いでベールがめくれあがってしまった。おかげで、よく見えてしまう。 涙が堰を切ったように溢れ出した。止まらない。止まらない。涙が、止まらない! 「……久しぶりだね、お姉ちゃん」 崩れ落ちたわたしの傍に妹が近づいて膝を折った。 五歳離れた妹は、わたしが家を出た時はまだ中学三年生だった。その妹が、大人になっていた。 どうしてここにいるの? そう聞きたくても、喉で言葉が詰まってしまい、言葉にならなかった。 「……大人になったね。綺麗よ」 お母さん。お母さん。お母さん。お母さん。お母さん! わたしは声にならない叫びの代わりに、お母さんに抱き着いていた。 お母さんは、わたしを抱きしめてくれた。 「素敵な人と出会えたのね」 ああ、お母さんの声だ。お母さんの匂いだ。生まれたときから知っている。お母さんがここにいる。 涙がさらにあふれてくる。体のどこからあふれてくるのかわからない程、壊れた蛇口みたいに涙が流れてくる。 わたしの事情を知らない同僚たちは、困惑しているのは肌で感じていた。 でも、そんなことはどうでも良かった。妹に、お母さんに会えたことが、何よりもうれしかった。 こんなことを言ったら怒られてしまうかもしれないが、結婚式なんてどうでもよくなっていた。 そこではたと気が付いた。お父さんは? わたしはお母さんの胸から顔を上げ、お父さんを探した。でも、どこにもお父さんはいなかった。 あったのは、遺影だった。 涙が止まった。 「お母さん……お父さんは?」 お母さんは、立ち上がり、その遺影を持った。 「ここにいるよ」 心臓に包丁が突き立てられた。 そう錯覚する程、激痛が全身を奔った。そして、わたしの慟哭がチャペルの中に響き渡った。 わたしは土下座をしていた。 純白のドレスに身を包みながら。 わたしはいつかお父さんとお母さんとう妹と再会することを夢見ていた。再会し、心からの謝罪をして、今のわたしのことを伝えて、また一緒に家族になることを夢見ていた。 でも、その夢は潰えた。 お父さんはこの世界から消えてしまった。いなくなってしまった! お父さん、お父さん、お父さん、お父さん! わたしは額をチャペルの冷たい床にこすりつける。 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい! わたしは心の底から謝罪した。わたしがお父さんにしてしまった全ての行動に対して、謝罪をした。 もう、本人は届かないけれど。 自分の愚かさが憎い。自分が憎い。憎い! 誰のせいにもできない怒りで、自分自身が燃え上がっているようだった。いや、いっそ燃え上がってくれている方が良かった。 そうしたら、天にいるお父さんに会えるから! そうしたら、お父さんに直接謝ることができるから! ……だけど、気が付いた。わたしはそうすべきではないと。 「立てる?」 こんなわたしに手を差し伸べてくれる、優しい人がいるのだから。 わたしはその手を取り、立ち上がった。 「……お母さん、一つお願いしてもいい?」 「……なに?」 「ベールダウン、お願い」 お母さんは何も言わず、お父さんを妹に預け、ベールに触れた。 それをそっと下ろした。 「……ありがと」 「お父さんもきっとここにいるわ。だって、娘が最も輝く瞬間だもの」 わたしは神父さんに向き直る。 目をぎゅっとつむり、涙を砕く。 ここで流す涙が悲嘆にくれるものでいいわけがない。うれしくて、うれしくて、うれしくて仕方がない歓喜の涙であるべきだ。 だから、泣くのをやめ……たかった。 「お父さん、あなたの結婚の話を聞いて、うれしそうに笑っていたわよ。その前まで、病気のせいで何も反応ができなかった人が」 涙腺が崩壊した。 涙が止まらない。体の水分の全てが涙に変わっているんじゃないかと思う程、大粒の涙が次から次へとこぼれていく。 純白のドレスは、小さな子供が水遊びした後のように濡れていた。 「さあ、幸せになりなさい」 お母さんがわたしの背中をそっと押してくれた。 わたしは大切な人の手を強く握った。 お父さん、わたし、こんな素敵な人に出会えたんだよ。 お父さん、わたし、こんな素敵なドレスを着ることができたんだよ。 お父さん……ごめんなさい。 わたしが愚かだった。わたしが間違ってた。その結果がこれだ。お父さんにわたしの晴れ姿を見せてあげることができなかった。 本当にごめんなさい。親不孝者なわたしでごめんなさい。 だけど、これからは見ていて。天から見ていて。 わたしは絶対に幸せになる。天からでもわかるぐらい、幸せに満ち溢れた日々を紡いでいく。 お父さん、見ていて。 過ちを犯したわたしだったけど、その過ちを乗り越えて、むしろそれを武器として進んでいく様を! わたしと大切な人が最後の段差を二人で支え合って上り切る。その先にいた神父さんが大切な人とわたしと視線を向けた後、わたしたちだけに聞こえる声で囁いた。 「素敵な家族ですね」 わたしたちは互いに目を合わせた。 そして、二人同時に微笑んだ。 「「これから、もっと素敵な家族になります」」 だからお父さん、わたしを見ていてね。 ~FIN~
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