10人が本棚に入れています
本棚に追加
激しい雨風が古い小屋の窓や扉を容赦なく叩きつけ、薄暗い裸電球が振り子のようにゆらゆらと揺れている。僕たちはキスをした後、お互いの肩だけ触れ合ったまま黙って座っていた。しばらくしてから僕は彼女の目を見つめ、今の気持ちを伝えた。
「希ちゃん、このまま一緒に東京へ行かない?」
「え? 東京に?」
「うん。 お互いこの街にいても仕方がないだろ?」
「そうだね・・・」
彼女は曖昧な返事をしながら、最後のコーヒーを飲み干した。すると外の嵐がさらに強くなり、古い小屋が震えながらミシミシと音を立ててきた。
「透くん、この小屋は大丈夫なのかな?」
「希ちゃん、この小屋は危なそうだから僕の車で逃げよう」
僕も段々と不安になってきて小屋を出ようとしたその時、遠くの方から唸るような重低音が聞こえてきた。それはやがて体を激しく震わす地響きへと変わっていった。
「え? じ、地震?」
「なに? 透くん、怖い!」
「希ちゃん! 危ない! 伏せて!」
「キャー!」
あれからどれくらい時間が経ったのだろうか。重い瞼をゆっくりと開けると、目の前が薄暗くてとても見えにくい。そして周りをゆっくり見渡すと、何かに足を挟まれている彼女が少し離れた所で倒れていた。
「希ちゃん、大丈夫?」
かすれた声でそう叫ぶと、気を失っていた彼女はゆっくりと目を覚ました。
そして僕の方へ震えながら手を伸ばし、
「と、透くん。 足が痛いよ」
「希ちゃん待って。 今、僕が助けるから」
もう少しで彼女の手を掴もうとしたその時、誰かが僕の足を掴んで体を後ろに引きずって行った。次第に遠ざかっていく彼女の姿を見て、僕は泣きながら思いっきり叫んだ。
「希ちゃぁん!」
また気を失いもう一度目を覚ますと、そこは濃い霧に包まれているような空間にいた。生まれてから今日に至るまでの僕の記憶が、次々と濃い霧の中へと消えてゆく。そして霞んだ視界の中から多くの人が見えてくると、向こう側から誰かの声が聞こえきた。
「小島さぁん、大丈夫ですかぁ? 今、お父さんとお母さんを呼びますからねぇ!」
霞んだ視界はやがて現実となり、気がつくと僕はいつの間にか病院のベッドに寝ていた。まだこの状況がどういうことなのか全く理解できず、頭の奥が割れるように痛い。それから知らない女性が病室に入って来ると、泣きながら僕に抱きついてきた。
「進、進!」
「すすむ?」
「あなたは父さんとケンカした後に嵐の中へ飛び出して、ひどい土砂崩れに巻き込まれたのよ。 あの時、母さんが進を止めてさえいれば」
「父さんとケンカ? 土砂崩れ?」
「そうよ、わかる?」
「ところでいったいあなたは・・・誰?」
病院の待合室のテレビから緊急速報のニュースが流れて出ていた。
『土砂崩れで生き埋めになり救助された高校2年生の小島進さんと林由紀さんは、先ほど意識が戻ったという情報が入りました。今回の土砂崩れは昭和最大の規模の事故となり、今でも多くの犠牲者が・・・』
あれから1ヶ月後。
僕は土砂崩れに巻き込まれたショックで記憶喪失になっている事が分かり、しばらく退院できないまま連日検査が続いていた。父さんと母さんからいろいろ話を聞き、僕自身が『小島進』であることを少しずつ理解しようとしていた。
今日は天気もいいので気分転換に病院の中庭を散歩しいると、花壇の花を見ている車椅子の女性を見かけた。
「確か、あの人は?」
僕と同じ土砂崩れの事故で、もう1人助かったと聞いているあの女性だった。彼女も僕と同じく記憶喪失になっていて、どうやら足をひどくケガしているらしい。そして勇気を出して車椅子の女性に声をかけてみた。
「あの、林由紀さんですよね?」
いきなり話しかけた僕のことを、彼女は穏やかな優しい目で見つめ返した。僕は息を呑み、彼女の目を見つめながら言った。
「僕と少し話しませんか?」
彼女は不思議そうに僕の顔を見ながら呟いた。
「あなたは・・・誰?」
その瞬間、僕の胸の中に大きく風が吹き抜ける感じがした。この場面どこかで見た記憶がある。
「僕は小島進といいます。 あの土砂崩れの事故で一緒の・・・」
「ああ、あなたが小島さんですか。 初めまして」
「君と、君と少し話しをしてもいいかな?」
「はい、いいですよ」
僕は慌ててポケットにある小銭を確かめて、
「今から温かいコーヒーを買ってくるから、少し待っててね」
と彼女に言って走って行った。病院の売店から急いで戻ると、まだ花を見ている彼女に温かいコーヒーをそっと渡した。
彼女にコーヒーを手渡す時、一瞬だけ彼女の手が触れた気がした。
「ありがとう、コーヒー美味しい」
美味しいそうにコーヒーを飲む彼女の姿を、僕は微笑みながらいつまでも見つめていた。
記憶を失った僕たちは退院した後で付き合うようになり、しばらくしてから結婚をした。
やがて2人の間に男の子が授かると、その子には『透』という名前を付けた。
おわり
最初のコメントを投稿しよう!