濃霧

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今から6年前の平成28年。その頃の僕はどこの大学に行くのか、将来何になりたいのかも考えていない普通の高校2年生だった。 朝の登校の途中で、僕は必ず決まった場所で缶コーヒーを飲んでいた。別にその缶コーヒーが好きなわけじゃない。朝霧が街からすっと消えていく風景を、高い丘の上から見るのが好きだった。いつもならここで気持ちをすっきりさせているところだけど、その日の僕は少しばかり機嫌が悪かった。父さんとケンカをしてイライラしながら家を出てきたという最低の朝だった。 「ったく、あのクソオヤジ」 飲み終わった缶コーヒーを高く振り上げ、錆びついた鉄網のゴミ箱におもいっきり叩きつけた。 父さんは小島進といい、祖父の代から受け継いだ建築会社を経営している。怒鳴ることが多く比較的古い性格をしているから、僕は子供の頃から父さんが苦手だった。だけどお互い性格が似ているのも分かっていたから、そんな自分も嫌いだった。 今日はあまり授業に出たくない気分だったので、学校の裏山にある古い小屋へと向かった。この小屋は僕だけが知っている秘密の隠れ家だった。ここで時間をつぶしていると、なんだか次第に気持ちが穏やかになっていた。 古い小屋にたどり着き扉を開けると、その中には女の子が1人ポツンと座っていた。彼女は不思議そうに僕の顔を見ながら呟いた。 「あなたは・・・誰?」 その瞬間、僕の胸の中に大きく風が吹き抜ける感じがした。これが僕と彼女との出会いだった。 「お、俺は小島。 お前こそ誰だよ?」 彼女はすくっと立ち上がり、制服のプリーツスカートの汚れを軽く叩きながら、 「じゃあ、小島くん。 さよなら」 と僕の質問には応えず、足早く学校の方へ行ってしまった。 「何だよ、あいつ」 気が抜けた僕は横になり、古ぼけた小屋の天井を見上げながら呟いた。 「あいつは確か、野中だっけ?」 彼女は同じ高校の同級生だが、別のクラスの女子生徒だった。 ある日の昼休み。 クラスの男子と些細なことでケンカをしてしまった。足を踏んだとか踏まないとかという、いわゆるつまらないケンカ。恥ずかしながら、ここでもまた自分の嫌な性格が出てしまった。そして相手と揉み合いになった時に、僕は机の角に頭をぶつけて気を失ってしまった。その後どうなったかなんて全く記憶が無い。 気がついて目を覚ますと、隣のベッドで横になっていた女子が僕の顔をジッと見つめていた。 「野中、さん?」 「やっと気がついた? こんなところでまた小島くんと会うなんてなんか不思議だね」 「ここは?」 「保健室だよ。 小島くん、ケンカして頭をぶつけて気を失ってここに運ばれたんだよ」 「ケンカ? ああ、そうか」 彼女はベッドからスッと起き上がり、 「コーヒーでも飲む? 『ご自由にどうぞ』だって」 と爽やかな声で言った。僕はまだ夢の中にいるような気分だった。 紙コップにコーヒーを注ぐ彼女の姿は、保健室の窓から差し込む陽光の中でキラキラと輝いているように見えた。そしてなんとも言えない香ばしいコーヒーの香りが、薄暗い保健室の中を優しく包み込んでいった。 「はい、コーヒー」 「あ、ありがとう」 僕にコーヒーを手渡す時、一瞬だけ彼女の手が触れた気がした。 何故保健室にいるか聞いてみると、どうやら彼女もケガをしているらしい。しばらく彼女と世間話をしたりLINEを交換したりしていると、保健の先生が部屋に戻って来た。 「小島くん、起きてたのね。 もう教室に戻っても大丈夫だから」 「はい、ありがとうございました」 それから保健の先生は彼女の方を見て、 「野中さんは・・・これから職員室に行きましょうか」 「はい。 じゃあ小島くん、またね」 先生と彼女が出て行きドアがピシャリと閉まると、一瞬保健室の中の時が止まったような感じがした。 「何で職員室に行ったんだろ?」 僕はそんな疑問より、さっきのコーヒーのことや彼女と話したことで頭の中がいっぱいになっていた。 保健室から出て行く最後の「またね」という彼女の声が、子供の頃に聞いた優しい母さんの声と重なって聞こえた。 「へへへ。 またね、だって」 この時から僕のコーヒー好きが始まり、彼女のことも少し気になる存在となったのは言うまでもない。しかし職員室から戻ってきた彼女は学校を欠席することも多くなり、僕との距離も少しおいている感じもした。 結局彼女とは何の展開もないまま高校生活は終わりを告げ、卒業後は別々の道を歩んでいった。 大学を卒業して東京から地元に戻ってきた僕は、友達から彼女の仕事先を聞いてこのカフェに通うようになった。こうして彼女とまた再会して一緒に話をしながら美味しいコーヒーを飲むということが、僕にとって至福のひとときとなっていた。
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