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朝霧の張り詰めた冷たい空気が、閑散としたこの街を幻想の世界へと導いていく。
一寸先も見えない濃い霧の中を、車のヘッドライトを照らしながらゆっくりと走っていた。霧の中から突然現れる対向車の明かりが、少しだけ体を強張らせる。そして国道のバイパスから細い路地へと入り、小さなカフェの駐車場で車を止めた。
令和3年の春に東京の大学を卒業した。その後この地元に戻り、父の経営する建築会社に就職した。本当の事をいうと東京で大手飲料メーカーへの就職を希望していたが、就職活動は難航して内定はもらえず、おめおめと地元に戻ってきたという訳だ。
建設会社に入社して営業を任されたが、社長である父さんとうまくいく筈がない。元々父さんとは性格が合わないのは分かっていたが、毎日会社で働くたびにその関係は悪化していった。しかし1番可哀想なのは、僕と父さんの間に挟まれている母さんだ。昔から足の悪い母さんには、あまり心配かけたくはなかった。
父さんと母さんはある大きな事故で救出され、そのショックで2人共に記憶を失くしたという過去がある。母さんの足が悪いのはその事故のせいだった。お互い記憶喪失でありながらも事故をきっかけに付き合い始め、そしてしばらくしてから2人は結婚した。
街外れにある小さなカフェで一杯のコーヒーを飲むことが、僕の朝の日課だった。
『Cafe Green』
いつもここに来るのは、単にコーヒーを飲みたいという理由だけではない。正直に言うとそのカフェで働いている女性に会う為だった。
カフェのドアを開けると、心地よいドアベルの音と彼女の爽やかな声が僕の頭を突き抜ける。
「透くん、おはよう」
「希ちゃん、おはよう。 いつものコーヒーね」
彼女は野中希といい、僕とは同じ地元の高校の同級生だった。性格は大人しく、高校時代はあまり印象のない女の子だった。
彼女は慣れた手つきでペーパーにコーヒーの粉を入れ、ドリップポットを回しながらゆっくりとお湯を注いでいく。そして白いカップに温かいコーヒーを注ぐと、なんとも言えない香ばしいコーヒーの香りがお店の中を包み込んでいった。
その香りを楽しんでからコーヒーを一口飲むと、彼女は僕を見ながら笑った。
「フフフ。 透くんって、本当にコーヒー好きだよね」
「ま、まあねぇ」
僕にとって彼女が入れるコーヒーは、いつも衝動に駆られていた高校時代を思い出す追憶の香りがした。
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