第10話 魔物の肉

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第10話 魔物の肉

 町に繋がる扉を開けると、騒々しさに包まれる。町の喧騒は怖い。多くの人々の声と笑い声が引きこもっていた僕を笑っているのではないかと不安になる。誰も僕を見ていないと自分の心に言い聞かせながら歩くしかない。  肩に乗る小さなセラフィの体温が僕の心を安定させる。セラフィの為に神殿へ魔物の肉を取りに行くのが目的だと思えば足も動く。  セラフィが魔物の肉にかじりつこうとした時、驚きつつも可愛くて仕方なかった。ちゃんと聖別された肉なら安心して食べてもらえる。あの姿をもう一度見るのが楽しみだ。  神殿へ近づくにつれ、嫌な感じの空気が濃くなる。魔力と神力は相性が悪いとわかっていても、それとは別の空気感がある。  扉の前で迷っていると、扉が開いて神官フィデルが姿を見せた。紺色の髪に碧の瞳。白い神官服に違和感を覚えるのは僕の気のせいだろうか。 「お待ちしていました。聖別できておりますよ。どうぞお入りください」  物腰は丁寧で柔らかだが、僕は苦手だ。神殿の中へと勧める言葉を断り、扉の前で重い布袋を一袋だけ受け取った。  魔物の肉は腐敗を防ぐ葉でしっかりと包まれている。受け取ったらすぐに帰ろうと思っていたが、買い物をしても大丈夫だろう。 「一袋だけで良いのですか?」 「沢山は食べませんから。ありがとうございました」 「いえいえ。黒色輪熊は貴重です。本来ならもっとお渡しするべきです」  毛皮は炎に耐え、爪や牙は強力な魔法薬や護符の材料になる。高価なものだと知ってはいるが、お金は別に必要ない。  お礼を言って町へ向かって歩き出すと、何故かフィデルがついてくる。 「何か?」 「買い物を思い出しました。途中までご一緒します」  柔らかく微笑まれると強くは断れない。僕は左肩に乗せたセラフィを庇いながら、フィデルの左を歩く。  商店が立ち並ぶ場所で、僕は香草や果物を買う。どちらもセラフィの為だ。僕の手から果物を口にする姿は、たまらなく可愛い。  フィデルもあちこちで何かを購入している。フィデルが会計している間に店を出ても、しばらくするとフィデルが横に現れる。尾行されているようで不快だ。付いてくるなと言いたいが、買い物をしているだけで僕の後を尾行している訳ではないかもしれないと思うと迷う。 「あ、少し動かないで下さい。……フードにホコリがついていました」  僕のフードに手を伸ばしたフィデルの指先には小さなホコリが付いていた。 「ありがとうございます」  家の掃除はまだ途中だ。どこかでつけたまま出てきてしまったのだろう。 「昼食は済まされましたか?」  フィデルに聞かれて、まだだと答える。 「近くに美味しい店があります。よろしければご馳走しますよ」  誘いに乗ってはダメだと僕の勘が告げている。人の良い微笑みに、どうやって断ればいいのか迷う。断る言葉を僕はあまり持っていない。  迷う僕の視界の隅には、酒場の看板が揺れていた。 「すいません。……これから、あの酒場に行く約束なので」 「ああ、そうですか。それは残念です。また次の機会に」  神官は酒場に入ることはできない。酒場に入ることよりも、フィデルと一緒にいることの方が嫌だ。 「セラフィ、中に入ってくれるかな」  フードの襟元へセラフィがするりと入る。神殿に行く前にこうして隠しておけばよかった。 「ありがとうございました。それでは、失礼します」  微笑む神官に別れを告げて、僕は酒場の方へと踏み出した。       ◆  酒場の扉を開いた僕は心の動揺を隠して微笑む。人に会う時は最初の印象がすべてになるから、多少無理してでも笑顔で接しろというのは、師匠の教えだ。  店の中には十人ほどが座れる長いカウンターが一つ。数名が座れるテーブルが十二。昼食の時間を過ぎた今、常連と思しき中高年の男性達が五名程カウンターに座って酒を交わしている。 「いらっしゃーい。おや、お客さん、初見だねー」  店主は気持ちの良い声の中年男性だった。水色の髪に青い瞳が印象的だ。 「えーっと。そう、酒場に入るのも初めてなんだ」  正直に言葉を重ねると、店主もカウンターに座っていた常連たちも僕を優しく受け入れてくれた。初心者向けとだいう麦酒をおごられ、おすすめだという料理がいくつも出てくる。  はっきり言って居心地は良いけれど、悪い。父親以外の大人の男と触れ合うことのなかった僕は、どう接していいのか模索しながらだ。  名前を聞かれて答えると、店主がイネスの弟子かと聞いてきた。 「イネス宛の手紙と荷物をいくつか預かったままなんだよ」  返送先がわかるものは返したけれど、戻ってきた物があるらしい。 「倉庫の奥にあるから、探さないと」  謝罪する主人を止めて、気が向いたらでいいからとお願いする。むしろ長い間預かっていてくれたことに感謝しかない。お礼を言いながら、師匠の話を聞く。 「いやー、恐ろしいくらい飲む女だったよなー。下手におごるっていうとそれこそ財布の中身が空になるまで飲むしな」  古い常連たちも師匠の姿を見たことがあると口々に言う。常連は師匠の飲みっぷりを知っているので絶対におごるとは言わないが、酒場の物珍しさに入ってきた貴族や旅人が師匠の姿を見て、下心を持って声を掛けることがあったらしい。貴族の財布を空にした時は、店の酒を全部飲まれてしまうのではないかと思ったと店主が笑う。 「美人でよく笑う女だった」 「俺が子供の頃から姿が変わらなかったよなー」  師匠は呪いを受ける前までは、歳を感じさせない美人だった。魔法を使っていたわけではなく、日々の節制と自作の化粧品で若さを保っていた。    僕が知らなかった師匠の姿が語られる。いつも陽気に笑っていた祖母は、魔女でありながら皆に受け入れられていたらしい。一方の僕は……。  師匠の数々の武勇伝を聞いていると、僕も作り笑顔でない笑いが出てくるようになった。楽しい話を誰かと共有することが心を温める。  夜の営業に備えて、一旦閉店するという時間を迎えた。常連たちが重い腰を上げる。  僕はそのうちの一人、この店から一番遠い家の男性の背中をそっと叩いた。 「ホコリがついてましたよ」  もちろん嘘だ。気の良い笑顔でお礼を言われるのは気が引けるけれど、仕方ない。  僕は神官フィデルに付けられた見えない糸をその男性に付け替えた。これは魔力による探索糸。狙った人間がどこへ向かうのか探るものだ。フィデルが触れたフードではなく、僕の腰ベルトに付けられていた。  探索糸自体は売っている魔術師もいるので、魔力がなくても誰でも扱うことができる。でもこれは高度な術で紡がれている為なのか、警戒していなければ僕でも気が付くことはなかっただろう。  神力しか持たない筈の神官が、魔力の塊のような糸を扱ったことにも驚くが、僕の行き先を探ろうとしていることに疑問を覚える。  糸を付けた男性には、謝罪替わりに小さな幸運の魔法も掛けておいた。挨拶を交わして、僕は酒場を後にする。セラフィはローブの中で眠っていた。起こさないよう、静かに残りの買い物を終えた僕は温かい家へと帰った。       ◆  私は本当に役に立っていない。クラウの肩に掴まっているか、膝の上で座っているかのどちらか。  猫の手は不便過ぎる。親指が無いということが、これ程不便な物だと思わなかった。せめて掃除の手伝いでもと、椅子に乗って立ち上がり、テーブルにあった布巾に手を乗せて拭いてみる。 「お待たせー。セラフィ―、ありがとー」  テーブルに皿を置き、私を抱き上げたクラウが頬をすり寄せる。最初は抵抗があったけれど慣れてしまった。ただし、慣れないこともある。 「一生懸命で可愛いねー」  ちゅっと音を立てて頬に口づけの感触。ひげがちくちくするとクラウが笑う。  これだけは恥ずかしくて慣れない。恥ずかしくて……心がくすぐったくて……。  私は、猫の爪を行使した。 『だからお前は顔だけが取り柄なんだから大事にしろと』  テーブルに頬杖をついたテイライドが片手を伸ばしてクラウの顔についた傷を癒す。   「いやー。止められないんだよねー」  ふわふわと笑うクラウは、膝の上に乗せた私の背を撫でる。優しい刺激は心地いい。いつまでも撫でられたいと思う。  目の前の皿には、焼かれた魔物の肉の塊が湯気を立てている。美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。 「そろそろいいかなー」  大きなナイフで、肉が分厚く切られる。外はこんがりと焼けているのに、中身はまだ焼けてはいない。 「ん。ちょっと待って」  小さな皿に置かれた肉の断面が、空気に触れて赤く変化して、赤い肉汁が滲む。 「にゃ!」  美味しそう! 言葉が猫の鳴き声になる。思っていたより大きな声になってしまって恥ずかしい。 「はい。どうぞ」 「にゃあ」  ありがとうと頭を下げて、両手を合わせて女神に食事への感謝の祈りを捧げる。猫の手は指を組めない。  最近、忘れがちだったことを神殿へ行って強く思い出した。神力を持つ私は、女神への感謝を決して忘れてはいけない。猫ではなく、人でありたいと強く願う。 『おい、何か祈ってんぞ』 「食事の祈りだよ。可愛いよねー」  私を膝の上に乗せたクラウが覗き込んで笑っている。恥ずかしいと思いつつも、私の意識は肉の塊へと向かう。  目の前にある肉は、表面にはたっぷりと香草が掛けられている。焼く前に、私が食べられるか大丈夫かとどうかといろいろ試されて選ばれた香草。香草の中でも、猫の体では受け付けない物もあった。良い匂いが鼻に入ると刺激に替わったり、匂いを嗅ぐだけで気分が悪くなったりとさまざま。  肉に噛みつく。がぶり。そんな音がしたような気がする。音を立ててしまったことにうろたえていると、クラウが大丈夫だと言って切った肉を指でつまんで口にする。 「おいしいね」  同意したいものの、肉を噛んだままでは首を振ることができない。じわりと口の中に肉の風味と肉汁が広がる。美味しい。今まで食べたことがない美味しさに頬がほころぶ。  ぶちりと音を立てて引き千切って、咀嚼する。肉の脂が舌の上でとろける。肉が口の中で解けていく。 『……すげぇ美味そうに食うな……』 「そうだねー」    聖別された魔物の肉は珍味と言う話は聞いていた。子供の頃、食卓に上った際には成人していないという理由で食べることができなかった。 「にゃー」  美味しい。本当に美味しい。 「全部食べていいよ」  クラウが笑うけれど、私の体より大きな肉の塊だ。全部は食べられない。ぺちぺちと腕を叩き、肉を指さす。 「ん? 僕も食べろって? じゃあ、頂こうかな」  クラウは肉を薄く削いで、丸めて口にしている。あの食べ方も美味しそう。 『お前もすげぇ美味そうに食うな』  テイライドが笑っていると、私も嬉しくなってきた。 「はい。お裾分け」  笑顔のクラウの手のひらに、魔力の光が宿る。ふわふわと浮かぶ水色の光の球をテイライドが受け取った。 『ふぅん。何かいつもより美味い気がするな』  三人で笑いながら囲む食卓は、いつもよりも楽しい気がした。       ◆  廊下に積み上げられていた木箱は綺麗さっぱり無くなっていた。イネスの魔法が掛かっていても十五年以上経った物は使えない物も多くて、庭の端や森に穴を掘って埋めた。 「もっと早く箱を開けてたら使えたかもねー」  残念だとクラウが呟く。箱に入っていた大量の雑巾はどんどん消費されていく。黒い砂や泥のような汚れは綺麗に拭きとられ、暗かった家が徐々に明るくなっていく。  箱で隠されていた扉を、魔法灯(ランプ)を持ったクラウが開いた。さび付いているのか、酷い音が家に響く。 「……ここは師匠の部屋なんだ」  全く開けていないからホコリだらけだろうと、クラウは自分と私の口元に布を巻いた。  暗い部屋に明るい光が入り、一歩踏み込んだ所でクラウが少し情けない叫び声を上げ、後ずさる。 「うわっわわわわ!」 『おい! 何があった!』  テイライドが焦った顔で魔法陣から姿を見せた。 「……め、目が光った!……」  胸を押さえながら、クラウの顔色が悪い。 『目?』  テイライドが扉を大きく開いて、ぱちりと指を鳴らすと部屋の魔法灯が点いた。 『ああ。こいつか』  入ってすぐ、テイライドの目の高さに巨大な黒い蜘蛛が巣を作っている。赤い瞳がきらりと輝く。 「なんだ……蜘蛛か……びっくりしたー」  苦笑しながら、クラウが蜘蛛を掴む。クラウの手のひらよりも大きい。蜘蛛が苦手な私は思考が停止したまま、肩にしがみ付くしかない。 『魔法薬の材料にでもするのか?』 「うーん。今は予定がないから、お引き取り願うだけかな」  窓を開け、蜘蛛を離すと風に乗って近くの木の枝に乗った。 『驚きすぎだろ』 「いきなり目の前にいたら驚くよ」  魔法灯と日光が入ると、部屋の全貌が露わになった。部屋の隅に木箱が三個積まれているだけで、あとは普通の部屋。  可愛らしいベッドと鏡台、クローゼット。書き物机と本棚。壁には大きな鏡が掛かっている。 「……変わってないな」  先程まで誰かが眠っていたようなベッドの掛け布をクラウが持ちあげた途端、白い煙のようなホコリが部屋中に充満した。
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