番外・黒猫と王子

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番外・黒猫と王子

「セブリオ様は芋虫がお嫌いなのですか?」  あれは私が二歳の頃。遠く幼い記憶の中、初めて会った彼女は銀の髪に紫の瞳の美しい少女だった。  何が理由だったのかは忘れてしまったが、部屋を抜け出し王城庭園で隠れていた時、私の服に毒々しい緑色の芋虫が付いていた。大きな芋虫に食べられてしまうのではないかと私が泣いていると、駆け寄って来た彼女が芋虫をつまんで近くの木の枝へと放した。 「もう大丈夫」  二つ年上の少女は、私の涙を手巾で拭いながら微笑んだ。その笑顔の輝きは、現在になるまで鮮烈に記憶に刻まれている。その件以来、私は彼女を気にするようになった。  辺境に住む彼女は、子供が参加する公式行事がなければ滅多に王城へは姿を見せない。たとえ王子でも個人的に呼び出せる相手でもない。公式行事の際には王子としての職務があり、遠くから姿を見るだけの日々を送っていた。  次に直接話すことができたのは八歳の時。王城庭園で大発生した害鳥退治に彼女は弓を携えて参加していた。十歳の少女であるにも関わらず、銀色の髪を後ろで束ねて矢筒を背負う姿は凛々しく美しい。  悔しい。そんな思いが心に満ちた。八歳になっていた私は王子であるという理由からまだ剣を持つことは許されていない。模擬剣での手ぬるい稽古しか受けられないのに、彼女は武器を手にしている。たった二年の年の差だけではない、確かな技量の差を見せつけられている。 「その細腕で弓が引けるのか?」 「非力な女でも引けるように調節しております」  参加者への激励の言葉を贈るべきだった私の口から飛び出した嫌味のような言葉にも、彼女は動じなかった。ただ静かに言葉を返しただけ。剣も弓もろくに使えない私は直接の参加は許されず、近くで見守ることしかできない。  合図の笛の音が鳴り響くと、寝床にしている大木や鐘楼から害鳥が飛び出して、青い空を黒く染めていく。辺境伯の兵や従者には、弓の名手が多い。十二名の兵、三名の女と彼女が弓を引く。  鋭い爪とくちばしをもつ猛禽は王城庭園に生息していた小鳥たちを全滅させ、猫や犬を襲い始めていた。このまま増えれば人間の害が発生すると皆が恐れていた。  彼女の弓から一本の矢が放たれ、さらにもう一本が続く。最初の矢を避けようとした翼に、二本目の矢が刺さって落下する。 「何と!」  私の護衛たちが感嘆の声を上げた。十歳の美しい少女が次々と鳥を射ち落としていく姿は、女神のように神々しい。  数百の矢が瞬く間に放たれ、王城庭園は鳥の羽と死骸で埋もれた。兵たちが死骸を拾い集め、女たちが羽根を箒でかき集めている。  その光景を静かに見つめている彼女へと近づいて声を掛けた。 「あの死骸を集めてどうするのだ?」 「毒はありませんので、持ち帰って皆で食べます」 「食べるのか? あれを?」  黒く禍々しい色の鳥は、食べようとは思えない。 「はい。王城では害鳥になりますが、辺境では益鳥であり獲物でもあります。女神に与えられた命を無駄にすることはできません」    紫水晶のような瞳が放つ力強さは息を飲む迫力があり、私の心が射抜かれたような気がした。――私が明確に恋に落ちたのは、あの瞬間だった。   時が流れ、彼女への求婚者が次々と脱落し、このままでは彼女が行き遅れてしまうという話が出た際、私は初めて彼女と結婚してもいいと父王に申し出た。この国の王族や貴族は、よほどの事情がなければ従妹と結婚することを認めない。それでも王家と並ぶ富と軍事力を持つ辺境伯との縁を切ることはできないと王命が出され、私は彼女と結婚することが私の運命だと確信した。  婚約した彼女と頻繁に顔を合わせることになると何を話せばいいのかわからない。これまでに学んできた社交術も会話術も美しい彼女を前にすると忘れ去ってしまう。会うたびに心にもない言葉を口にしてしまい、後悔する日々を過ごしていた。  そんな時に出会ったのがレンドン男爵家の娘、タミラだ。物静かで清楚な女。彼女とは全く違う相手なら、本当の気持ちを吐露することもできた。皆から逢瀬と疑われたが、それは違う。単に便利な女と会っていただけにすぎない。  彼女に情事の現場を目撃され、どうすればいいのか考えている間に、父王から婚約の解消が告げられた。彼女が婚約破棄を望んだと聞いても信じることはできない。  私が本当に愛しているのは彼女一人。運命の相手と引き裂かれるくらいならばと、私は王家に古くから伝わる書物を紐解いて、彼女に呪いを掛けた。  白猫になった彼女を手に入れようとしたのに、私は謹慎を父王に命じられて王城の外に出る事さえ許されない。それでも彼女と共に死ねるという、一年の期限を期待して待っていた。  ところがその期限を前に、彼女に掛けた〝白猫の呪い〟は魔術師に解かれてしまい、その魔術師が彼女と結婚すると聞いて驚愕した。きっと彼女は騙されているに違いない。  謹慎中の身であったが、父王に意見をしても聞き入れてもらえなかった。兄王子や宰相に相談しても、誰も私の言葉に耳を傾けてはくれない。  どうすればいいのかと焦る中、異国の大使として赴任するように父王から命じられた。何故、今なのかという私の問いに『国家の安泰の為だ』と返されれば拒否もできない。何年経っても、彼女はきっと取り戻せると信じて、私は異国へと旅立った。  私は今、遠い異国の王都の屋敷に大使として滞在している。大使として職務を行う日々は充実している。毎日、通訳を交えて王族や貴族、別の大使たちと会談し、時には視察を行い、豪商と話して貿易の道筋をつくる。  我が国にはない技術や新しい農業や産業、報告すべきことは多く、毎日深夜まで報告書を記しても追いつかない。 「この報告書を確認して国へ送ってくれ」  出来上がった分厚い書類の束を側近へと預けて、今日の仕事は終わった。  寝支度をして酒を飲もうと手を伸ばすと、いつの間にかテーブルの上に座っている黒猫に阻止された。従僕は何をしているのかと壁際を見ても、控えているはずの使用人の姿はない。この黒猫がいる時には必ず使用人の姿が消える。不思議なことだとは思っても興味は黒猫へと移ってしまう。 「僕に酒を飲ませないつもりかい?」  問い掛けると黒猫が頭を縦に振る。言葉が理解できるのだろうか。 「……そうだな。今日は飲まずに眠るとしようか」   翌日に支障のない酒量を心がけてはいるが、最近飲む量が増えていた。黒猫は酒瓶に巻き付くようにして、こちらを見ている。どうやら本当に飲ませてくれないらしい。  椅子から立ち上がり、窓辺で夜空を見上げて彼女の姿を思い浮かべる。女と過ごしていた寝室へと入ってきた時の彼女は、氷で出来た剣のような鋭い美しさを感じさせた。  思い出す度に、全身が震える程の興奮が駆け巡る。あれが滅多に感情を出さない彼女の怒りの表情であったとしても、何度でも見たい。  彼女を怒らせたい訳ではない。静かに微笑む笑顔も美しいとは思う。それでもあの表情を見た時の衝撃は心に深く刻まれている。彼女を私の物にしたいという願いは今も強く抱いたままだ。  大使の任を終え国に戻ったら、彼女に謝罪に行く。  今度こそ正直にこれまでの想いを告白し、許しを乞いたい。彼女は私の運命の相手だ。話せばきっと彼女は理解してくれると信じている。  その前に、悪い魔術師に捕まってしまった彼女を救う方法を探さなければ。 『にゃあ』  足元にすり寄って来た黒猫を抱き上げる。本当は白猫になった彼女をこうして抱くはずだった。彼女と一緒に死んでもいいと思っていたのに。 「お前は温かいな」  艶やかな黒い体を撫でると、首を伸ばして来た黒猫が唇を舐める。 「僕への悪戯は許されないぞ。王族に対する不敬罪……と猫に言っても仕方ないな」  動物に何度注意しても理解されることはない。 「今夜も僕と一緒に寝るのか?」 『にゃ』  当然だという顔で返されると苦笑しか浮かばない。この国に来てから、頻繁にこの青い瞳をした黒猫がベッドにもぐりこんでくる。猫が入ってこないように護衛達に頼むこともできるが、猫の体温が寂しさを緩めてくれるから頼めない。 「仕方ないな」  夜空には赤と緑の月が輝いている。彼女もこの空を見ているだろうか。  必ず彼女を魔術師の手から救い出すと月に誓って、私は寝室の扉を開けた。       ◆ 「くしゅん」  夕食を終えてクラウと二人でカウチに座って本を読んでいた私は、こらえきれずにくしゃみをしてしまった。慌てた顔をしたクラウが、私の肩を抱き寄せる。 「セラフィ、大丈夫? 具合が悪いのかな?」 「いいえ。何故か突然、鼻がむずむずとしてしまいました」  恥ずかしくて頬に羞恥が集まっていく。 「それならよかった」  頬に優しい口づけをされると、頬の熱さはますます温度を上げていく。悪戯をしようと胸へと伸びたクラウの手をそっと指で阻止してみる。たまには甘い誘惑に打ち勝ってみたい。 「……クラウは何の本を読んでいるのですか?」 「遠い異国の魔女が書いた変身術の研究書だよ。セラフィが神力で白猫に変身できるんだから、僕も魔力で猫に変身できないかなって。僕の魔法は殆ど解呪専門だから、とても勉強になるよ」 「クラウも猫になるのですか?」 「裏庭で日光浴しながら、セラフィの膝の上で丸くなってみたいなって思うんだ」  猫になったクラウを膝の上に乗せる。全く考えたことも無かった提案に驚くことしかできない。 「な、何色の猫になるのでしょう?」 「そうだね……うーん。何色がいいかな?」 「白金色が綺麗だと思います」  クラウはとても美しい猫になれるだろう。その毛並みを想像するだけで、胸が静かにときめく。 「僕が猫になったら……一緒に眠ってもいいよね」  耳元で囁く声は意地悪で甘い。 「……眠るだけなのですか?」 「さぁ? どうしようかな? 猫の姿で交わってみる?」  クラウの手が私の脚を優しく撫でると、柔らかな快感と期待が混じり合いながら全身に広がっていく。   「クラウ、意地悪はしないでください」  笑いながら囁くクラウの唇に、私は唇を寄せた。
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