第6話 美味しいスープ

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第6話 美味しいスープ

 目を開くとクラウの驚いた顔が見えた。  ぼんやりとした思考の中で、魔物の大きな姿を思い出す。どうやら私は助かったらしい。 「あ、あ、あのっ。これはっ」  クラウの声がいつもと違う。何があったのだろうと考えていると、クラウが裸であることに気が付いた。  ここは浴室。クラウは私を洗ってくれていたらしい。今の私は猫だとわかっていても、男性と裸で抱き合っているという事実に、私の顔が一気に熱くなる。 「いてっ!」  恥ずかしさのあまりに、私はクラウの顔を爪でひっかいた。 「ううっ。セラフィ、ごめん。僕が悪かった」  眉尻を下げたクラウが必死で謝っていても、私は顔を背けたままでいる。あまりにも恥ずかしくてクラウの顔を傷つけてしまった。おそらくは魔物から助けてもらったのに、自分でも酷いと後悔している。  ちらりと視線を投げると頬に爪跡が残っていて、血がうっすらと滲んでいる。もしも傷跡が残ってしまったら、どう謝罪したらいいのかわからない。 「あ、うん。大丈夫。後でテイライドに治癒魔法掛けてもらうから」  私の視線に気が付いたクラウが、ふにゃりと笑う。私は、さらに謝ろうとするクラウの口を猫の手で押さえた。 「むぐぅうむ」  何を言っているのかわからないけれど、謝っているらしい。眉を下げるクラウが可笑しくて、私は傷のない方の頬に、頬をすり寄せた。  体を乾燥させて、クラウに抱えられたまま浴室から出る。白い窓の外に見える空の光はまだ夕方にもなっていない。 「……あー、えーっと。ご飯にしようか?」  クラウが首を傾げる。そういえば、お腹が空いているかもしれない。  厨房は初日よりも少し綺麗になっている。洗っても臭いが取れなかった古いタオルを使ってクラウが拭いていた。猫の手は物を掴むことができなくて、手伝いたいと思うのに、私は何もできない。 「セラフィは僕の肩に乗ってて」  邪魔ではないかと思うのだけれど、クラウは常に私を肩に乗せたがる。 「久しぶりだけどスープでも作るかな」  クラウはジャガイモの皮をむく。町で買ってきた大きなソーセージをぶつ切りにして水が入った鍋に入れる。裏庭で取れたトマトと香草も切って鍋に加えて焜炉(こんろ)の火を点けた。  クラウの手つきは慣れている。じっと見ていると「師匠が教えてくれたんだ」と答えてくれた。  しばらくすると美味しそうな匂いが厨房に漂ってきた。クラウが用意してくれる食事は簡素でも、素材の味が感じられて美味しい。香草は、ほんの少し風味を感じる程度。  貴族の食卓というものは、見た目は豪華に飾り付けられていて華やかでも、手を加え過ぎているのだと気が付いた。色とりどりの不自然な色は、何か加えられていたのだろう。素材の味よりも香草の味が勝っていた。  貴族専用に育てられて収穫される上質な食材を、多くの人が手間と時間を掛けて調理する。それが料理なのだと思っていたのに、クラウはたった一人で美味しい料理を作ってくれる。  パンとチーズをナイフで薄く切り、皿に並べる。スープを柄杓ですくって、器に注ぐ。切ったトマトが入ったスープは初めて見る。  テーブルのクラウの椅子の横には、箱を乗せた椅子が置かれていて、私が座るとちょうどいい高さになっている。  クラウの食事の祈りに合わせて、私も女神に祈りと感謝を捧げる。にゃあという声にしかならないけれど、やはり食事の祈りは欠かせない。 「スープは冷めるまで、ちょっと待って」  クラウの言葉に、私は不満を覚えた。目の前で美味しそうな湯気を立てているのに、食べられないなんて悲しい。 「早く食べたい?」  くすりと笑うクラウが、パンをちぎってスープに浸した。パンが赤いスープを吸っていく。 「はい。どうぞ」  吹き冷ましてくれたパンを口に入れて驚いた。じゅっと口の中にスープが広がる。美味しい。トマトを煮ると、こんなに美味しいスープになるとは知らなかった。 「このスープはね、ソーセージを少し多めに入れるのが大事なんだ」  ソーセージから味が出てくるとクラウが説明してくれる。万能な魔術師はいないと聞いていたのに、クラウは万能なのかもしれない。  美味しくて、今日もたくさん食べてしまった。本当にお腹がいっぱいなんて、ここに来るまでは経験したことはなかった。いつも窮屈なドレスを着ていたから、たくさんは食べられない。 『おい、裏庭の柵の外に運んでやったぞ。これでしばらくは魔物が結界によりつかないな』 「ありがとう。お疲れさま」  水の精霊テイライドがいきなり姿を見せた。この家にあるテーブルはすべて椅子が二つ。もしかしたら、私が座っている椅子はテイライドの席なのかもしれない。そう考えた私は、床に降りようとした所をクラウの腕にすくいあげられる。 「セラフィはここにおいで」  クラウは私を膝の上に乗せた。 『ほー。貴族のお嬢ちゃんにしては、気が効くな。けどな、俺たち精霊は人間の食べ物は食えねぇんだよ』  そう言いながらも、テイライドは椅子の上の箱を除けて座った。  精霊は何を食べるのだろう? そんな疑問が頭に浮かぶ。物語でも、精霊が何かを食べている場面を読んだ覚えはない。  クラウの手のひらの上に、水色の光球が現れた。ふわりと浮き上がって、テイライドの前に飛んでいく。  テイライドが手で受け止めると、光は手の中で戯れるように跳ねる。光は少しずつ小さくなっていって、消えてしまった。 『俺たち精霊は、魔力か神力を喰う。いろんな喰い方があるが、俺は今の方法が気に入ってる』  私がじっと見ていたからか、テイライドが笑いながら説明してくれた。やはり親切な良い人だと思う。今では、まったく怖いと思わない。 『こいつの魔力は極上だ。すげー美味いぞ』 「僕はよくわかんないんだけどね」  にやりとテイライドが笑い、クラウが苦笑する。 『おい、怪我してるじゃねーか。ん? そんな傷、さっきあったか?』  テイライドが言っているのは、私がひっかいた傷だ。硬直する私をクラウが優しく撫でる。 「血塗れだったからねー」 『そうか。今日は数が多かったしな。何であんなに多かったんだ? 群れるにしても三十匹が限度だろ? 獲物は五十八匹と一頭だ。最中に逃げたのもいるから、それ以上だぞ』  テイライドが手を伸ばして、クラウの傷に触れると傷が消えていく。 「たまたま二つの群れがいた……っていう訳でもなさそうだよね」  冷めてしまったスープを口にしながら、クラウが考え込む。  二人の話を聞いていると、この家の周囲には魔物が入らないように防護結界が張られていると知った。ここには、微量だけれど尽きない魔力が湧き出る場所があって、その魔力を利用しているらしい。  魔物が住む黒い森には、誰も住む筈はないと言われていたのに、常時結界を張ることができるから、住んでいられるということか。 「明日は、朝から忙しくなるなぁ」 『そういや、あの魔物をどうするんだ? 前はそのまま売っただろ?』 「うーん。口で説明するの難しいから、明日、実演するよ」  クラウは、笑ってスープを飲み干した。  翌朝、裏庭の畑の横で、石けんを作る作業が始まった。 「まずは皮を剥ぐ!」  シャツの袖をまくり上げ、顔半分を布で覆ったクラウが、気合を入れる。  魔物の死体は裏庭の柵の外に山になっていて、そこから一匹を持ってきて、ナイフで皮を剥いでいく。久しぶりと言っていたのにクラウの手つきは慣れたものだ、するすると皮が剥かれていく。 『ほー』  珍し気にクラウの手元を覗き込んでいた精霊も『よし。理解した』と言って、皮を剥ぎ始めた。  私は台の上で見ていることしかできなくて残念。邪魔になるよりはいいだろうと、手足を折り畳んでうずくまりクラウの作業を見つめる。  二十匹の皮が剥かれた所で、台所から持ち出された大人一人が入ることができそうな大鍋に水が入れられる。大鍋の下、レンガで囲まれた中で火が焚かれると、あっと言う間に水が湯になった。 「ぶつ切りにして、肉を茹でるよ」  手足と胴、頭が切られて、次々に鍋の中に放り込まれる。周囲には、とても美味しそうな匂いが漂ってきた。よく見れば、皮を剥がれた魔物の肉は、とても美味しそうな色をしている。  魔物の肉は神殿の神官が聖別しなければ食べられないと言われている。私は食べたことはないから、どんな味なのかはわからない。ごくりと喉が鳴る。はしたない。そうは思っても、食べてみたいという衝動が心の奥底から沸き上がってくる。  地面に降りて、鍋の近くへと近寄っていく。横に積まれた肉は山のようだ。少しくらい食べてもいいだろう。  魔物の腿にかじりつこうとした瞬間、クラウに抱き上げられた。 「ダメだよ、セラフィ。聖別していない魔物の肉は、人間には毒なんだ」  クラウの言葉に私は震えあがった。魔物の肉が毒だなんて知らなかった。 『おい、血は大丈夫なのか?』  テイライドが顔色を変えた。昨日、クラウは全身に魔物の返り血を浴びている。 「うん。血は薬にすることもできるし、大丈夫なんだ。魔物の肉を食べて自分の血肉にしてしまうと、毒になって体の作りを変えてしまうんだって」  苦笑したクラウは、私を肩の上に乗せた。落ちないようにと言われたので、シャツに爪を立てて、肩の上にしっかりと掴まる。 「茹った肉は取り出すよ。……危険な毒というのはね、美味しそうに見えるものらしいよ」  取り出された肉の塊は、湯気を立てていて美味しそうな匂いを放っていて、その言葉に震える。茹で上がった魔物の頭は、何ともいえない不気味さ。むき出しの牙と白くなった目が怖い。 『これはどーすんだ?』 「爪と牙を抜いて、他は捨てる。一度茹でてるから、爪も牙も抜きやすいよ」  クラウの実演を見ていたテイライドは、魔物の爪と牙を抜く作業が楽しくなったらしい。次々と抜いている。  魔物の皮を剥いで、肉を茹でて取り出す。爪と牙を抜く作業は、クラウとテイライドの楽し気なやりとりの中、着実に進んでいく。私も参加したいと思っても、猫の手では何も手伝えない。 『おい、汁が分離してるぞ?』  鍋の中を覗き込んだテイライドが驚きの声を上げた。 「上に浮いてるのが、魔物の脂だよ。魔物の脂は肉の中にあるから、茹でて取り出すんだ」  クラウが鍋を覗き込むと、私にも鍋の中が見えた。  鍋の湯には骨や肉の欠片が浮いていても、確かに二層に分かれている。クラウは小さな網が付けられた棒で欠片をすくう。  魔物五十八匹の処理が終わった。相当な重労働の筈なのに、クラウとテイライドは普通に話している。昨日は狩り、今日はこの作業。恐らくクラウの体力は王家の騎士にも劣らない。  剣が使える魔術師。父がこのことを知ったら、辺境伯の騎士になって欲しいと毎日勧誘にくるだろう。……クラウが騎士になってくれたら、辺境の城で毎日一緒に過ごすことができる。 「鍋は冷えるまで置いておくよ。セラフィ、お昼ご飯にしようか」  騎士になったクラウに猫の姿のまま撫でられる幻想を見ていた私は、クラウの声で現実に引き戻された。 
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