第七章 正真正銘の貴公子

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「スイカズラ」  私の顔を、ちらりと見てくる卯波先生の顔が、沈みかける夕日を浴びて茜色に染まり、眩しそうに目を細める。 「連れて行ってください。嬉しい、また二人で見たいです!」  胸がどきどき動悸を打つ。  嬉しいなんて、私の感情からなくなったかと思った。 「十一時に迎えに行く」  夢みたいな展開が、まだ信じられない。 「明日、起きたら夢だったなんて」 「ことは、ない、支度して待っていろ」 「嬉しいです。こうして、卯波先生といるのさえ幸せなのに」 「また震えている」  体が震えるほど、喜びが込み上げるの。  あまりにも嬉しくて、襟もとからぞくぞくする。 「身震いまでして。身を震わすほど嬉しいのか」  今日のできごとは、本当に夢じゃないの? 「上の空で、心ここにあらず」 「あっ、すみません。今日一日のできごとを、朝から順番に辿ってました」 「頭の中の引き出し。建付け(たてつけ)はスムーズだったか?」  卯波先生が、自分のこめかみに人差し指で軽く触れ、口角に笑みを浮かべて質問してくる。 「五分前のできごとのように、はっきりと思い出せますよ」  唇を尖らせる勢いで抗議して、歩きながら背伸びをした。 「その唇はキスをしたくなる」  卯波先生の冗談とも本気ともつかない顔と声。  思わず地面に(かかと)をつけて俯いたら、手をつないでいる手首が“歩け”と合図をしてくる。 「しないよ」  控えめな笑い声を漏らして、私の瞳を二秒だけ見たかと思えば、また視線を前方に戻して、なに食わぬ顔で歩きつづける。 「ここでは(・・・・)」  遠くに視線を馳せるようにして、ちらりと私の様子を伺ったみたい。    ここではって、じゃあどこでなら。  あああ、恥ずかしい。私ったらなにを考えているの、馬鹿。 「桃がお望みの場所なら、どこでだって」 「恥ずかしいですから、心を読まないでくださいったら」 「コントロールを、オフにしていてもわかる。もの言わない動物相手の仕事をしているんだ」  それもそうだね。 「桃の顔、言葉、しぐさでわかる」 「今はオフですか?」 「ああ、今は」  この帰り道だけでも、オンとオフのコントロールをしているんだ。 「離れてたときの、私の心も読んでましたよね。どうしてオンなんかに」 「いつか言っただろう、離れているからこそオンにするって」 「だからって、体調を崩してまで」 「まさか、体調を壊すとは思わなかった。生まれて初めての経験だった」 「まるで、ひとごとみたい。無謀です」 「桃を気にかけずに放っておくほうが、俺にとっては無謀だ、とてもじゃないが無理だ」  そう言われて、心から嬉しいと喜べない。なんとも形容し難い複雑な気持ち。 「桃に出逢うまでは、こんな自分がいるなんて知らなかった」  子どものころから感じていたエンパスという違和感。  そこへもってきて、初めて体調を崩したなんて、どんなに苦しくて不安だったことでしょう。  以前、真冬に再会したとき。  あのときは感情を捨てたような、意思も感情も持たない目だった。  そう、命が宿っていないって言ったらいいのかな。  どんよりとした瞳は、焦点を失い正気を失っていたのに。  どうにか力になりたくて、卯波先生の顔を仰ぎ見た。  今、目の前にいる卯波先生は、なにかを決心したような、生きいきとした強い眼差し。  本来の姿に戻ったんだ。 「そうだよ、もう過去のことだ。俺たちには未来が保証されている」  たまにはエンパスもいいね。
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