第一章 とっつきにくい、あの人

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第一章 とっつきにくい、あの人

 今日から、新年度がスタートする。  方向音痴の私が、面接で一度しか来ていない、ラゴム動物病院に無事に辿り着けるのか。  面接日は閉院後で、辺りはすっかり暗かったから、見える景色が今と違う。  朝の雰囲気は日暮れと違って、まるで別の街並み。  歩きながら、くるりとゆっくり首と視線を動かして周りを見てみる。  えい! 一か八か、一本二本と細い道にも入ってみた。  いよいよ大変なことになった、人通りの少ない路地に迷い込んじゃった。  こんな道、通ったっけ。  どうしよう。今来た道も、ぐにゃぐにゃ入れ組んでいたから、大きな道にも戻り方がわからない。  心細くなってきちゃった、お願い、誰か通って。  辺りをきょろきょろ見回したら、いた。思わず、声を上げそうになる。  ただ、その人は風を切り、すたすた歩いて行っちゃうから追いつくのが大変。 「ちょ、ちょっと待ってください、すみません」  心が、この機を逃したら、もう二度と誰にも会えないような悲痛な叫び声を上げた。  お願い、あなたしかいないの! 「待ってください! 足長のモデルみたいなスタイルの、そこのあなた!」  その声にぴくりともせずに、広い背中が肩を大きく回して振り向いた。  自覚しているのか、新手のナンパみたいな声かけにも振り向いてくれた。 「恐れ入りますが、ラゴム動物病院は、どちらでしょうか」  持て余す長い手足に、バランスのとれたすらりとした長身を、すがるような目つきで仰ぎ見る。  上から私を見下ろす、その人の細める目つきは鋭く、視線は目がくらむ光線を浴びたように眩しそう。 「ここです」  軽く顎で合図をされた先に目をやれば、ラゴムは目の前。 「すみません、ありがとうございます」  顔は歪み、腰はこれ以上できないほど低くして謝り、猛ダッシュ。  恥ずかしかったな、やっちゃった。  よく真上を見よう。主張の激しい犬猫の看板が際立っているじゃないの。  白やベージュのビル群の中で、私の名前とおなじ桃色のビルが、ここだよって呼んでいるじゃないの。  初めて見た日も驚いたけれど、ラゴム動物病院は、実に間口が広い。  横丁にある通用口から入ると、ベテラン動物看護師の(さか)さんが、最初に迎えてくれた。   「おはようございます、緒花 桃(おばな もも)です。面接のときは、いろいろとお世話になりました。今日からよろしくお願いします」 「おはよう、こちらこそよろしくね。改めてまして、坂 真由美(さか まゆみ)です」  セミロングの黒髪をアップにし、トレードマークみたいな黒縁めがねの奥は、切れ長の目もとが涼しげ。  雰囲気は、いてくれるだけで安心できる頼れるお姉さん。 「面接のときに、院内の説明をしたけど、詰め込みすぎちゃったかしら、大丈夫?」 「はい、メモしてます」 「わからないことがあったら、なんでも聞いて。それのほうが私たちも助かる」 「はい」 「そうそう、緒花さんはラッキーよ」 「私がですか」 「ええ。うちの院長は、勤務医時代から高く評価されてたのよ」  このあいだは面接だけだったから、こういう話題は出なかった。院長って優秀なんだ。
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