J.A.

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J.A.

 いい歳した息子が、反抗期を迎えてしまった。  困った。  どうしてこんなことに?  わたしは息子にいつも愛情を注いでいたし、英才教育を惜しまず、常に出世の後押しをしてあげていた。感謝されこそすれ、逆らわれるいわれはないはずだ。  たとえば、あの子には優秀な家庭教師をつけてやった。音楽に興じてばかりでちっとも勉強しないあの子を、無理やりにでも机に向かわせて、有用な知識を身につけさせた。将来のためを思って教育をするのは母親の当然のつとめだ。  それから、立派な地位を用意してあげた。  あの子の父親が死んでしまってからは、わたしは皇帝に近づいて、みごとその妻になってみせたのだ。あの子は皇帝の息子になった。  もちろん、皇帝の実子がいては、あの子の出世の邪魔になる。だから、裏で色々と工作して孤立させてやった。邪魔者が嫌われ者になったのを確認したのち、満を辞して夫を暗殺した。  こうしてあの子は無事に、皇帝の座を手に入れた。  その後もわたしは何くれとなく世話を焼いてあげた。身につけた教養を駆使して、手取り足取り政治のことを教えてあげたのだ。実際、わたしのおかげでこの国はかつての栄光を取り戻した。豊かで気品あふれる時代が訪れていた。市民はみんなありがたがり、わたしとわたしの息子を崇めた。  すべては計画通りに進んでいた。先行きはまばゆいほどに輝いていると、わたしは信じて疑わなかった。  うまくいかなくなったのは、あの子がわたしを疎んじはじめてから。  あの子がわたしの助言を無視するようになって、勝手に政治をやりだしてから、この国はおかしくなり、わたしの人生もおかしくなった。  どうして。どうして反抗なんてするの。  あなたはわたしにいくら謝意を表しても足りないくらいなのよ。  あなたがそうやって権力の頂点に立っているのも、好きなだけ贅沢ができているのも、みんなみんなわたしのおかげなのに。そもそも、お腹を痛めてあなたを産んだのは他でもないわたしなのに。あなたが存在しているのも、立派に成長できたのも、わたしの力があってこそなのに。  わたしがどれほどよき母親だったか! 今までだってそうだし、これからだってそうだ。  こんなに息子に尽くしてきたわたしが、どうしてその息子に逆らわれなくちゃいけないの。  あなたはわたしのいうことを聞いていればいいのよ。有能なこのお母さんにすべて任せていれば、何もかもうまくいくのよ。  とはいえ……わたしたちはあくまで親子だ。母親と息子という上下関係は覆らない。あの子は徹底的にわたしに逆らうことなどできないだろう。  あの子は決して恩知らずではないし、そのように育てた覚えもない。  だから今もなんとか、関係は破綻せずに済んでいる。それが今の唯一の救い。  やはり根は優しい子なのだ。わたしの子どもなのだからそれも当然。今はただ、ちょっとふてくされているだけ。じきに母親の偉大さを理解して、またわたしに協力してくれるようになるに違いない。あと少しの辛抱だ。  わたしが与えたものを、あの子はきっと返してくれる。  今もその手応えを感じている。  今日はあの子の提案で、豪華な造りの船で海に出ていた。  遊覧に誘ってくれるなんて、やっぱりあの子は親孝行者なのよ。  南の海の風は心地が良く、この船の乗り心地も最高で、休暇にはもってこい。  わたしは鼻歌を口ずさみながら、どこまでも青い海をうっとりと見ていた。  ここから見える景色は全部、あの子の領土。つまり、あの子のもの。ひいてはわたしのもの。素晴らしい……この世界はなんて美しいの。  その景色が、ぐらりと(かし)いだ。 「? 何かしら」  ギギギ、と耳障りな音がする。  おかしい、と思っているうちに、轟音がして、あっという間に船の舳先が海中に沈んだ。  甲板にいたわたしは吹っ飛ばされて宙を舞った。 「キャー!?」  ドブンと海中に落っこちる。塩辛い水が喉に入ってきた。わたしら必死にもがいた。やっとこさ海面に顔を出し、懸命に息を吸う。髪をかきあげ、目にかかる水を振り払った。  崩れゆく船を呆然と眺める。 「誰か」  わたしは声を上げた。 「わたしを助けなさい!」  だが、誰もこちらに来てはくれない。  それどころか、わたしと同じく海に落ちた人間すら、一人もいない。 「ああ……そういうことね」  みんな、わたしを見捨てて、あらかじめ逃げていたのだわ。  さっき、やっと気がついた。あの船は、わざと壊れるように設計されていたのだ。  つまりこれは、わたしを海に落として、暗殺するという計画。  一体誰がこんなことを?  決まっている。あの子だ。わたしの息子。  ……ただの反抗期だと思っていたけれど、思ったより問題の根は深かったらしいわね。  まさか、殺したいほどだったとは。  ひどいことをしてくれるじゃない。 「ふふ……ふふふふ」  ああ、おかしい。  あの子もまだまだね。詰めが甘いわ。  だってあの子は、わたしが泳ぎが得意だっていう可能性を、計算に入れ忘れているもの! 「あははは!」  わたしは高笑いをした。  わたしは今自分がどこにいるかをちゃんと分かっている。船がどう進んで、陸地がどれほど遠くにあるか、きちんと把握している。  さすがに、今日の天気や潮の流れまでは、知らないけれど……。 「大丈夫。これなら充分、生き残れるわ」  わたしは、力強く泳ぎ出した。  そう。あの子がわたしに勝てるはずがない。  わたしに本心から逆らうことなんてできない。  わたしはあの子のことをちゃんと把握している。あの子に何ができて、何ができないか。  この計画が杜撰なのだってそう。あの子は表面上ではわたしを憎んでいたとしても、心の奥底では慕ってくれている。  だから無意識に、計画に穴を開けて、わたしが生き残る道を残してくれた。  優しい、甘ったれの、可愛い息子。  わたしがいなければ何もできない子。  わたしは、陸に泳ぎ着いた。  そこから歩いて、今日行く予定だったわたしの別荘に、予定通りに到着した。 「皇太后さま!」  家来たちは、わたしのぬれそぼった姿を見て、動揺していた。いや、もしかしたらみんな計画を知っていて、わたしが生きてここへ辿り着いたことに、驚いているのかも。  どちらでも構わない。今は彼らはわたしをもてなすしか道がないのだ。  わたしは、お風呂と替えの衣服を用意させた。  椅子に腰掛けて、白湯を飲んだ。  一息ついてから、家臣に命じる。 「息子に使者を送りなさい。わたしは大変な目に遭ったけれど、何とか生きています。あなたはこれを機に心を入れ替えて、しっかりお仕事に励みなさい、と」  それから寝室に移動した。信頼のおける家臣だけを集めて、周囲を見張るよう命令してから、ふかふかの布団に身を委ねた。 「うふふ」  ああ、くたびれた。でも、気分がいい。  安心しなさい。あなたはお母さんには敵わない。  わたしはぐっすりと眠って、疲れを取った。  翌日からは、快適で広々としたこの別荘にて、好きなだけ自由な空気を満喫した。  そのまま何日か経過した。  そろそろ、息子へと遣わした使者が、ここへ戻って来る頃だ。  あの子は何て言うかしら。わたしを殺し損ねたことを知って、さぞかしびっくりしたでしょうね。でも、心のどこかで安心しているはず。母親を裏切れない自分に気がついて、少しはおとなしくなってくれるかもしれないわ。  気持ちのいい昼下がり。  別荘に使者の先触れがやってくる。 「皇帝からの使者がいらっしゃいました」  わたしは微笑んだ。 「通してちょうだい」  扉の向こうから、軍靴の音が聞こえてきた。  やがて、武装した兵たちが、謁見の間に入ってくる。 「……何のつもりかしら」  わたしは平静を装って言った。 「皇太后さま。あなたを皇帝への反逆罪によって処刑いたします」 「……処刑」  ああ、とわたしは嘆息した。  そういえばそういう手があったわね。  何もわたしのことを暗殺などしなくてもいいのだ。  言いがかりをつけて、正々堂々とわたしを裁く権力が、あの子にはあるのだわ。  あの子は皇帝だから。  わたし自身があの子を皇帝にしたから。  ……計算を間違えたわ。  まさかあの子が、わたしの授けた力で、わたしを殺しに来るなんて。  本当に、わたしを裏切るなんて。  わたしは、あんなにあの子のために尽くしてきたのに!  そのわたしを待っていたのが、こんなひどい結末だなんて、そんなこと、あっていいはずがない。 「なんて、恩知らずな子なの! 許さない! 一体、誰のおかげでここまで──」  熱く震える喉を、槍が無慈悲に貫いた。  ☆☆☆  ユリア・アグリッピナ(西暦15〜59)  古代ローマ帝国の皇族。第五代皇帝ネロの母親。
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