序幕

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序幕

 たとえどんなに深くココアの中に沈んでも、それを飲んではならぬ。    ドイツの児童文学作家、エーリヒ・ケストナーがテーブル席に広げたノートにはそんな文面が走り書きで記されていた。  一九四四年のこの時点で、もう十一年にものぼるあいだ、茶褐(ココア)色の制服を着てドイツにのさばっている連中がいる。  その名はナチス。  一九三三年にヒトラーが首相に任命されたことで与党となった彼らは優れた民族、ドイツ人による国家を作り上げるという名目――選民思想の名のもとに、異民族の人々を、ひいては身体や精神が不自由な人々をも虐殺し、己に都合の悪い思想家や作家を次々に逮捕していた。  自分もそんなふうに目をつけられ、執筆を禁じられた者の一人だった。 「先日の空襲を免れただけでも幸運と思うしかないか」  ベルリン、ミッテ地区に位置するその場所の名は、『小さな芸術家レストラン』。  カウンター席のとなりで、映画監督のエバーハルト・シュミットが濁った茶色の液体を傾けながら言った。  脚本にも着手しているケストナーとは、ナチの思想統制の目をうまく潜り抜け、ともに映画を作ってきた仲である。
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