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 口腔に血の味が広がり始めた時、獣人たちのどよめく声が聞こえてきた。 「見ろ、あれはまさか……」 「間違いない、あれはロゼウス王だ!おい、跪け!」  ロゼウス王……?  まさかと思いつつ、ゆっくりと目を開くと、大勢いた獣人たちは皆全て、地面に額を擦りつけて平伏していた。  そして、その中央付近には、陽光を浴びて尚一層輝く見事な金獅子が威風堂々と立っている。  あれが、ロゼウス王?え、でも……。  俺も周りに倣って頭を下げながら、内心で首を捻る。  獣人は皆、頭部は獣、首から下は人型を取っているのが基本で、その形態を取るのを誇りに思っている節がある。なんでも、全身を獣の形態にすることも可能だが、それはかつて人が獣人を奴隷として扱っていた時にさせていた姿らしく、獣人にとっては屈辱的なものなのだ。  それなのに、目の裏に焼き付いたロゼウス王の姿は、明らかに四足歩行で立つ獅子そのものだった。セルディーノも噂ではロゼウス王のことを耳にしたことがあるが、二足歩行で立つ姿しか想像したことはない。  一体、どういうことなんだろう……?  束の間、状況を忘れて考え込んだ時、凛とした声が響き渡った。 「皆の者、聞け!今檻に閉じ込めている人間は全て、私が買い取ることにする。何か反論のある者はいるか」  ロゼウス王の言葉に、さらなるどよめきが生じる中、嗄れた声の獣人が恐る恐る声を上げた。 「し、しかし、ロゼウス様。なぜそのような……この人間たちを宮廷に召し使えるということですか?宮廷には獣人しか仕えてはならないという決まりが……」  そうだそうだ、という声が続く中、ロゼウスの堂々たる声が響く。 「その決まりを設けたのは私ではない。私の父だ。皆も知っているだろう?私の父がどんなことをやらかしたのか」  ロゼウスの父が何をしでかしたのか、俺には検討もつかない。だが、その場にいる獣人たちは理解しているのか、ざわめきを残しながらもさらに反論を述べる者はいないようだった。 「私は父のようにはならないために王になった。よって、この人間たちをどう扱おうが、お前たちに口を出させない。これ以上同義の反論を述べる者がいれば、王都への反逆とみなす。他の反論がある者はいないか」  皆の間に一層の動揺が走ったのを俺も感じたが、ざわめきは嘘のように静まり返っていった。それ以上反論をする勇気のある者はこの場にはいないようだ。  王が直々に人身売買の場に現れたことはもちろん、売りものの人間を買うなど、前代未聞のことだ。俺が知っている中ではだが、周囲の獣人たちの反応を見るに、前例がないのは間違いがなさそうだった。  その上、本当に召し上げるというのだろうか……?  一瞬、宮廷で働かされる自分の姿を想像したが、すぐに打ち消した。  いや、そんな幸運はあり得ない。きっとそれはかたちばかりで、実際は地下牢にでも閉じ込められ、一生をそこで過ごすことになるのだろう。  そこから逃げ出せたと言っても、さらなる苦痛を強いられる生活は一生続くのだ。そう確信したのは、ロゼウス王が冷酷な王だという噂は俺も聞いたことがあったからだ。  ーー金獅子の王が現れた時には、決して逆らうことなかれ。逆らったが最後、その首が飛ぶぞ。と。  ロゼウス王が売人と話をしながら鍵を受け取り、獣の姿のまま器用に端の檻から順に開けていこうとしているのを見て、俺は覚悟を決めた。 「ロゼウス王!」  自分の口から思わぬほど力強い声が出る。  ロゼウス王の動きがぴたりと止まり、俺の方を睨むように強い眼光で見た。その視線は王者の風格そのもので、目だけで刺殺されそうな圧力を感じ、怯みそうになる。  いや、実際に内心では怯んでいたし、冷や汗は噴き出し、体はがたがたと恐怖で震えていた。それでも、これだけは言っておかなければいけないと口を開きかけた時、売人の馬の獣人が飛んできて、俺に怒鳴りつける。 「奴隷風情が、王様に口を利くな!次に口を開いてみろ、俺が王様に変わってその首をはねて……」  馬の獣人は最後まで言うことはできなかった。背後に立ったロゼウス王が、鋭い前足の爪をその首にかけたからだ。 「ひっ……!」 「誰の許しを得て、私の代弁をし、さらには私の所有物を傷つけようとしたんだ?」  震えている売人の首に、ロゼウス王の爪が一本の線を描くように動く。すっと入った赤い線に、俺の額からも、つ、と汗が滴った。 「この少年より先に、お前の首が飛ぶかもしれんな?」  ロゼウス王が売人を突き飛ばすと、売人は足をもつれさせながら慌てて引き下がった。  その売人を目で追うこともなく、ロゼウス王の目が、再び俺を貫く。続きを促すように黙り込んだままじっと見られたが、情けないことに、たった今の出来事で頭の中が真っ白になってしまった。 「えっ……と、あ、あの……」  もたもたと口籠りながら、必死に言葉を探せば探すほど、何も言えなくなっていく。  そんな俺を、ロゼウス王は急かすでもなくじっと見続けていたが、次第に視線が顔から逸れ、体の方へ滑った。  屋敷から出てそのまま捕らえられたため、セルディーノは衣類を一切身につけていない。他の奴隷がどんな格好をしているかは分からないが、少なくとも自分よりマシに違いなかった。  王の視線に晒されて今更ながら羞恥が込み上げてきて、ますます言葉を失った時、ロゼウス王の顔が険しくなった。  怒られる、と首を竦ませたが、そうではなかった。 「貴様、服は」 「……あ、あり、ません……っ」 「前の主人からもらったものはないのか」 「ら、ラントル様のところでは、それが許されていませんでした。外に出させてもらえることも、ほとんどなく……」  つっかえながら答えると、ロゼウス王の顔が一層険しさを増し、低く唸りながら言った。 「まずは貴様の衣類を調達する。名前を名乗れ」 「せ、セルディーノ、です」 「セルディーノ、ついて来い。他の者は車で屋敷に送らせる」  ロゼウス王が言った瞬間、影のように気配を殺していた配下たちが、鍵を手に檻から出す者と車を手配する者とに別れて動き始めた。  俺は王自らの手によって外に出されると、バスローブのようなものを渡され、着せられる。  ロゼウス王が人垣を掻き分けて進むのを見て、しばらくぼんやりと立ち尽くしてしまった。  今度は絶望ではなく、本当に自分の未来の行く末がどうなるのか分からなくなったからだ。
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