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8 菓子折りはなんの味🍘
会社も休みで遅く起きた土曜日の朝、のんびり鏡の前で髭を剃っていたらチャイムが鳴った。僕の家のチャイムを鳴らす相手は、宅配やセールスでなければなんとなく察しがつく。すっかり日常の一部と化してしまったが、冷静に考えるとちょっとおかしい日常。お隣に住む女子高生との交流だ。
付き合っているわけでもないのに、たまに僕にちょっかいをかけてくるツンデレのみやび。先日メイドカフェで可愛らしいメイド姿のみやびを目に焼き付けて以来、それ以前の自分の感情が、何か別のものに変化してきているように思えてならない。
けれどそれを深く考えることは、あえてしないでいた。
「はいはいー」
相手も確認せずドアを開けると、どこかで見た覚えがあるような女性が一人で立っていたので軽くびっくりした。
……ええと?
目の前に立つ女性は僕より少し年上に見える。誰だったろうか? と頭を巡らせてふと思い当たる。一昨年の春くらいにこのアパートに引っ越ししてきた際に、その一度だけ挨拶をした覚えがある。今日もまた何かの挨拶であるかのように、菓子折りのような物を手に携えていた。
「おはようございます。隣の小川です。お休みのところ突然すみません」
「は、い。おはようございます」
小川さんは普段は仕事が忙しいのか、ほとんど見かけたりしない。しかしわりとすぐに思い出せたのは、みやびと面差しが似通っているからだろうか。そう……小川さんはみやびの母親だ。
母子家庭だったはずだ。留守がちの母親、一人で過ごすことの多い自宅は、みやびにとって寂しいものだったろうか。だから隣にいる僕にちょっかいをかけてくるのかもしれない。理由を聞いたことはなかったが、なんとなくそんなふうに捉えていた。
「こちらから転居することになりまして。引っ越しの業者さんが出入りするので、もしかしたらご迷惑をおかけするかもしれません」
小川さんは何故か少し照れ臭そうに微笑んで、菓子折りらしき箱を僕に手渡してきた。丁寧な女性だな、と感心したのも束の間、今相手がなんと言ったかを反芻する。
転居。つまりは引っ越しだ。この賃貸アパートは二年更新だが、更新を待たずに別の場所へ行くらしい。
「……あ、そうなんですね。ご丁寧にありがとうございます」
母親である小川さんが引っ越すということは、まだ高校生であるみやびも勿論ついていくに違いない。
みやびがいなくなる。
僕の隣から。
みやびが、消える。
それは仕方のないことだ。単なる隣人、歳の離れたモブ会社員の僕にとって、みやびは過ぎた存在だったのだ。楽しい時間をくれてありがとう、と言う他ない。願わくば悪い男に引っかからないで欲しい。元気で笑っていてくれたら良い。小川さんが他にも何か言っていたが、僕の頭にはなかなか言葉が入ってこなかった。
気づけばいただいた菓子折りはテーブルに置かれ、たまたま昨日買っておいた餃子の皮に餡をひたすら詰める作業をしている僕がいた。皿に並べきれないほどの餃子が出来上がった頃、僕はようやっと我に返ったのだった。
「小川さん……いつ引っ越すって言ってたっけ……」
誰も答えてくれない一人暮らしのしんとした部屋で、僕はぼんやり壁に掛けたカレンダーを見つめた。
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