ネコだましグラス

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 結婚したら片目をつぶれなんていうけれど、両目をかっと見開いて相手を見ていたのでは、自分がいたたまれない気持ちになるということか?  そんなことをしないと結婚生活がうまく続けられないというなら、結婚する前には両目を見開いて、よくよく確かめる必要があるのだろうけれど、私は彼の全く違う一面を見ていたのかもしれない。違う方向を見ていたのでは、どれほど両目を見開いても違うものしか見えない。私も、彼に、今の私と違う私を見せて今に至ったのかもしれない。それは自覚にある。  友人の女友達が、結婚する前には相手の男としばらく一緒に暮らしてみないとだめよ、と言っていたが、それが効果的なことなのかはわからない。その女友達は、そう言いながら、どの男とも暮らしてみるだけの年月が幾年も重なって、結婚に進んで、同棲の効果が現れて結婚生活がうまくいったと言うことを実証できているわけではないからだ。  痛みを感じたとき、優しくいたわってくれた。危機を察知したら前に立ってくれた。そういうものは、この結婚生活が始まって3ヶ月もしたころにはすでに薄れ始めていて、私自身も、相手へのお返しにそうなっていくことを感じていて、空虚な心持ちや明文化されていない罪を犯しているような罪悪感に襲われた。  そのようなことについて友達に相談しようかと思ったが、それがただの愚痴だと言うことを悟ると、相談することは自分の負けに相当することのように思え、まだ新しい、二人で買ったマンションの一室のソファで、部屋を暗くしたまま窓の外に広がる、明滅する夜の光を眺めて、「かわいそうなわたし」を装って楽しいような気もした。  このマンションではペットは飼えない決まりだった。まあ、密かに飼っている人もいることは知っている。でも私は、ルールを破ってまで飼おうとは思わなかった。猫でもいれば、気持ちが癒やされるだろうという気持ちは持っていた。実家で飼っていたネコが懐かしく思えた。  会社の帰り。久しぶりに早く退社できたので、一人で街を歩いた。  20代後半の独身は楽しかった、という気がした。一転、結婚した20代後半は幸せなはずだったが、今自分の視界にある街の様子は、かつての光を失っているようにさえ感じる。どの店のどの光も。  街をまっすぐに通る道を歩いて行くと、ビルの壁沿いに1メートルほどめり込んだような作りの店があった。 「まえ、こんな店はなかったなぁ」そんな気がして、足を止めて見た。  店員は背の高い20代半ばくらいのひょろっとした男性で、色の濃い黒のサングラスを掛けて白っぽい薄手のコートを着ている。  その店で何を売っているのかと見ると、アイディアグッズとか、ちょっと変わった趣向の置物とか、そういうものらしい。商品は全て背が高く奥行きが浅いショーケースに収められている。  私がショーケースに近寄って覗いてみると、一時か数日か、それぐらいは楽しめそうな変わったものが並んでいた。気を紛らすというぶんにはいいだろう。けれど、その時間に見合う金額のようには、それらの値段は思えなかった。結婚前なら買っていたかもしれないというものもあった。  こういうものを見ても、素直に楽しめなくなった自分の、おなかに溜まった何かが、ふぅ~っと鼻から抜けていった。 「あなた」  ショーケースの中を膝に手をして前屈みに見ている私に、店のオーナーなのか店番なのかわからない、サングラスにコート姿の青年が声を掛けてきた。「あなた」か。少し意外なことばだった。 「はい?」  私は少し、頓狂な調子で返事をした。 「あなた、少し疲れていますね?始まって間もない結婚生活が負担になっているような」  サングラスの青年は、微笑むわけでもなく、感情はあまりない調子の声と顔つきでそう言ってきた。  私は膝に置いていた手をさっと引いてまっすぐに立ち直した。私の左手の指輪を見て、この青年店員が私の結婚生活に言及してきたように思えたからだ。 「僕には、見えるんです。あなたの顔に、浮き上がっている。こんなはずじゃなかったって言う結婚への落胆の思い。……全て見えるわけじゃないんですけど」  サングラスの青年にこう言われて、私は、反抗心が起きて、 「余計なお世話じゃない?あなた、この店で店員をしながら占い師もしているの?」  憤然とした調子で彼に言い放ってしまった。 「ああ、いえ。気に障ったのなら謝ります。ごめんなさい。……でも、僕が言ったことは、大体当たっていたでしょう?僕は、お客さんがどんな生活を送っているのか見て取って、その人にピッタリ合いそうな、うちの店の品物を考えておすすめしているんです」 「へぇ。そうなの……?じゃあ、私におすすめの商品はどれなの?」 「そうですねぇ……」サングラスの店員はショーケースの中を少し見て、「これかなぁ」と言うと、ケースの前扉の鍵を開け、下段の棚にあった、メガネを取り出した。  メガネは黒の少し安っぽい樹脂製のフレームで、度の入っていないダミーのレンズがはめてあった。よく見ると、フレームの目元の辺りに何か丸い部品が付いている。  店員の青年は、メガネを自分の定位置にある、上に緑のフェルトが張られた台の上にそっと置いた。 「このメガネは、『ネコだましグラス』といいます。ですが、このグラスでネコをだますという意味ではなくて、このグラスを掛けると人がネコに見えてしまうんです。つまり見ている人間の脳がだまされる、という商品です」 「なにそれ。意味がわからないわ」 「まあ、試しにこのグラスを掛けてみてください」  青年店員はグラスを私のほうへ向けて掛けてみるように促した。私はそれを受け取って掛けた。 「あ、あれ?あれ?」 「どうです?おもしろいでしょう?」 「え、ええ……すごい」 「まずフレームのこの右側のダイヤルで、ネコ、イヌ、ネズミのどれかを選んで。それからこのスイッチを入れると、今、あなたが体験したとおり、レンズを通して見た人間が全て、ダイヤルで選んだ動物の姿に見えるようになります」 「でも、名前が『ネコだまし』なのに、イヌとネズミも選べるのね。それに、声は人間のままだし」 「名前は、まあ、少しキャッチーなものにしたということだと思いますよ。それと声ですが、このフレーム左側のダイヤルで選べます。ダイヤルのこの黒い点が付いている方をフレームの点と合わせると無変換。つまり人間のままの声です。で、ダイヤルを回して赤い点が付いているところをフレームの点に合わせると、変換。こちらにすると、相手の声が、右のダイヤルで選んでいる動物の声に変換されて聞こえます……やってみます?」  これまた、店員に促されるまま、私は、ネコだましグラスを掛けてみた。 「ひゃ、ひゃひゃー!」  青年店員は、私に何か言っているようだが、私にはネコの鳴き声にしか聞こえなかった。「にゃ?にゅ?にゃぁぁ~」店員の声は、こんな調子だ。  青年店員ネコは、私の顔に手を伸ばしてグラスを取り去った。 「どうです?おもしろいでしょう?」 「おもしろいけど。これで結婚生活が改善できるってことなの?」 「はい。私の提案は、旦那さんとの会話がギクシャクしたり、顔を合わせるのがつらいとか、旦那さんが疎ましく感じられたとき、このグラスを掛けて過ごすと言うことです。旦那さんの姿はネコになり、話す言葉は鳴き声になる。部屋にいるのはあなたと一匹のネコ。そういうことです」  私は家への道を急いでいた。 「買っちゃったぁ。12000円」  私は、ブツブツ言いながら足を速めた。  マンションの部屋に付くと、私は雑事を手早く済ませ、お楽しみの『ネコだましグラス』を箱から取り出した。箱の中には、紙が一枚、グラスの図入りで説明書きが入っていた。  私はすぐさま、グラスを使ってみた。設定はネコ、音声変換はオンにした。  けれど、グラスの効果は発揮されない。ここには私以外に人がいないのだから当然だった。早く夫が帰ってこないだろうかと思った。夫の帰りをウキウキと待つ心など、なんと久しぶりだろうか。  22時を回ったころ、夫が帰宅した。彼はアルコールが入っていた。帰宅の途中、電車の駅近くのコンビニで缶ビールを手にいれて、それを飲みながら歩いてきたのだろう。「それほどすぐにアルコールが欲しかったの?」「家に帰り着いて、私の顔を見てから。そして、一緒に飲むと言うことを考えずに?」。それほどまでに、もう私たちの心は距離ができているのか。  私は、今日手に入れた『ネコだましグラス』を手にした。  夫は帰宅の言葉も早々に、会社の仕事について、上司について愚痴を言い始めた。最近は、これが多い。愚痴を除いたら会話が無くなるという話もあるけれど、これはお互い様とは言いがたい。私は家で仕事の愚痴は極力言わない。そのせいで聞きたくもないという気持ちもある。まして、二人の間を繋いでいるものが仕事の愚痴だけだなどとは。  私はグラスのフレームのスイッチを予定通り『ネコ』『音声変換』に合わせて装着した。 「おぉ」っと声が出た。目の前に、頭から背中、尻尾に掛けて明るい茶の毛。脇から腹に白い毛。 「ウゥゥゥ。ニャアぁぁ」っと、ネコは声を震わせて怒っているよう。牙を剥き出している。 「こわっ」  私は、ネコを抱き寄せようとしたが、ネコは背をかがめて威嚇してくる。  これがいつもの夫の愚痴の吐露プラス、アルコールが入ってさらに度が増した姿。 「でも……。怒ったネコなら、カワイイ」  私がつぶやきながら、ネコの顔の辺りへ指先を差し伸べると、ネコはさらに、 「しぃーぃぃ」  なんて、呻る。  私は、鼻を鳴らして笑ってしまう。  私は、ネコに伸ばした手を引っ掻かれそうになり、咬まれそうになる。 「ネコならユルセる」  また私は笑う。笑うと、ネコは余計に怒る。だが、怒っているネコは、人が怒って毒づいてくるのとは違い、見ていて楽しい。怒って何かを訴えてきていても許せる。 「おもしろっ」  夫ネコは、見た目も言動も、私好みだ。騒いで飛び回ったり鳴いて回れば、煩いけれど、それはネコ。ペットと思えば、苦にはならない。何を言っているかわからないというのは、とてもいいことだ。あれほど私を苦しめていた夫の振るまいが今は私を癒やしている。  何を言っているかわからないネコは、ずっと何事か訴えて鳴き続けている。私はそれを理解できないから、 「何を怒っているの?何が言いたいの?何をして欲しいの?」  私はそんな風にネコに問いかけて、ニコニコヘラヘラと笑ってあしらうだけだ。  ネコはそのうちに諦めたのか、歯をむき出して私に怒る様子は無くなった。それで私は、ネコにようやく手を差し伸べて頭を撫で、顎を撫で、身体を撫でた。ネコは私がそうして彼の身体をなで回すと、まさに猫なで声をだして、うっとりした様子。思い直せば、これが本当はネコではなく、人間である夫だと思うと、少しゾッとする気持ちもある。  私は、以来、『ネコだましグラス』を折に触れて使っている。常に使い続ければ、私の中で夫はただのネコ。ペットに成り果ててしまう。それは少し気が引ける。生身の人間としての夫も、私はまだ愛している。むしろ、人間としての夫を完全に愛せればそれでいいのだろうが、それが理想に過ぎないことも道理だろうと思う。だから、必要と感じたときに彼に「ネコ」になってもらうことにしたのだ。  夫は、私が彼をネコとして扱うとき、全く話がかみ合わず、それでいながら私が意味不明なまま一方的に好意的に彼に接していることを不可解に思っているようだが、私が好意的であり優しいと言うことに不満はなく、互いの話がすれ違っていることを度外視して、いつの間にか夫自身も私に甘えて膝に乗ってきて身体を横たえたり、私の顔をその舌で嘗め回したりしてくるのだった。  程なくして、私は妊娠した。  こんなことは夫に言えないが、この妊娠について、夫との交渉の記憶がない。ネコとじゃれ合った記憶しか。  子猫はかわいい。人の活動時間に合わせてくれはしない子供というもの。だがそれが、ネコという存在なら、それほど苦にならない。つらいと思いながらも、それを上回る愛を感じる。  この時点で、私は、人としての家族の形態を維持するのか、ネコとの暮らしという形を選ぶのかを考えた。そしてもう一つは、自分もネコの仲間入りできないものかという考えも浮かんでいた。  私は、『ネコだましグラス』を手に入れたあの店に、また足を運んでいた。  店にはあの、サングラスに白っぽいコートの青年店員がいた。髪は以前に比べて伸ばしていた。自然な感じで肩に近いところまで髪が垂れていた。顔つきは前と変わらない気がする。  私が店に近づくと、青年店員にはすぐにわかったようで、私に微笑んだりはしないがわずかに会釈してきた。 「いらっしゃいませ。久しぶりですね」 「あなた。私の顔を見れば、今の私の気持ちがどんな感じかわかるのよね?」 「ええ、大体の感じはつかめます。……今、あなたは、生活に大きな不満はないけれど、もう一つ望みがある」 「そうなの。やっぱり何でもわかるのね……、『ネコだましグラス』のことなんだけど」 「なるほど。きっとそれは、グラスを通して見る世界と自分とを同じものにしたい。つまり、自分もネコやイヌになり、同族となりたい。そういうことのようですね」  青年店員は、私の顔を見て、そう言った。 「だめでしょうか?できない?」 「そのグラスを使ったお客様は、多くの方が自らもネコやイヌになりたいという希望を持っていらっしゃいます。もっとほかの動物になれるオプションはないのか?とか」 「そう。それで、それで、そういうオプションはあるの?」 「あります。ネコ、イヌ、ネズミには、グラスの使用者自らも同族になれるオプショングラスがあります。相手にオプション用のグラスを掛けてもらえば、本体のグラスで設定した動物の姿で相手に見てもらえる、ということですが」  私はオプショングラスを買って家に帰った。  それから、夫にグラスの説明をした。  夫はこれまで、私が『ネコだましグラス』を掛けているのをろくに気にしていなかったことがわかった。  私が『ネコだましグラス』の説明をすると、夫は面白がって使い出した。私にはベッドの上以外でほとんど興味を示さないのに、グラスには嬉々としている。そして、すぐに言い出したのが、 「お互いネコになって、ヤってみようぜ」だった。  私は自分の視界で夫をネコとして見ながら寝たことは何度もあるから新鮮味は、さほどなかったが、彼は初体験だから気が乗ったらしい。そのときのことは、いつまでも頭から離れないほど印象的な体験になった。  『ネコだましグラス』を使い始めてから、私と夫の関係はそれ以前よりは良好と言えたし、少なくともストレスは低いものになった。これらのことは、あのアイディアアイテムショップの青年店員に感謝しなければと思った。あの店員は、人の顔を見てすぐ、その人の人生の事情がわかるのだから、それだけでも占い師のような仕事を出来そうだが、彼に取ってみれば、今の状況がわかっても、その先についてのアドバイスがショーケースの中のアイテムを売るという答えになっているのだろう。  私がある日、仕事を終えて帰宅すると、混じり合う男と女の声が玄関先でも聞こえてきた。  靴を脱ぎ捨て、早足でベッドルームに向かいドアを開けると、『ネコだましグラス』を掛けた夫と見知らぬ女がベッドの上でもつれ合っていた。  きっと二人とも互いにネコになっているのだろう。二匹のネコ。そして互いに相手が何を言っているのかわかっていない。端で見ている私には、二人がどんな言葉を口にしているかがわかる。 「こんな馬鹿馬鹿しい光景はないわ」  怒りがこみ上げた私はそう思ってベッド上の二匹に割って入り、散々に暴れて、女を玄関から着の身着のまま追い出した。  寝室に戻ってみると夫は、済まなそうな冷めた顔でうつむいている。  私はベッドの下に飛んだ『ネコだましグラス』を取り上げた。  怒りのぶつけ場所を探った。夫を許してはおけなかった。こんなときこそ『ネコだましグラス』を使って夫の態度も言葉もやり過ごせばいいはずだが、それだけでは飽き足らない気がした。  私はハッとひらめいて『ネコだましグラス』のダイヤルを回して、片方を夫に渡した。夫はベッドの上に座ったまま、私が差し出したグラスを受け取り装着した。 「なんだ。おまえも触発されて、その気になったか?」  夫はそんなことを軽い調子で言った。  私は夫のその顔を見ながら自分のグラスを装着した。 「アレ?俺、ネコじゃないじゃねえか……んあ?」  夫は多分、そんなことを言っていた。グラスを掛けてしまった私には何もわからない。ただ「チュゥチュゥ」という、か細い鳴き声が聞こえるだけ。  私の前にはネズミがいた。乱れたベッド上で右往左往している小さなネズミ。  そして私というネコはベッドに飛び乗り前足でネズミを押さえつけ、小突き回して弄び、最後に喉元に牙を立てるとネズミが喉の奥でキュッと音をさせた。
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