彼女の肖像

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 その絵は父の書斎に飾られていた。  父の留守の日に、私は普段は入ってはいけないと言われていた書斎に忍び込んだ。特にほしいものや見たいものがあったわけではなく、ただ禁止されていることをやってみたかっただけだ。私は八歳だった。  そして、彼女に出会った。  小さな絵だった。私のノートと同じぐらいの大きさの油絵だ。黒い髪に白い肌、目が伏せられているので瞳の色は睫毛の影になってわからない。青いようにも、緑のようにも、紫のようにも、茶色のようにも見える。黒い、襟ぐりが丸く空いたドレスを着て、本を読んでいる。口元は微笑んでいるようにも、悲しんでいるようにも見える。  なんて綺麗な人なんだろう。  私は彼女に恋をした。その日から、父の目を盗んで彼女と逢瀬を重ねた。はじめは彼女に会えるだけで満足だった。彼女の前髪。彼女の頬。彼女の睫毛。鼻。耳。首筋。手の甲。爪。ドレスを膨らませる体。いくら見ても飽きない。  だが彼女は私を見ない。  そのことに耐えられなくなった私は学問にふけった。彼女を絵から出そうと思ったのだった。少しでも可能性がありそうな本は全て読んだ。そうして何年かして、どうも絵に描かれた人物をこの世界に連れてくることは、科学の領域では不可能だとわかった。  だが諦めるわけにはいかなかった。絵を見ればそのたびに、私の胸の恋が燃え上がった。どうしても彼女でなくてはだめだ。どうしても彼女に会いたい。私は超自然的な方法に頼ることにした。  幸い私の家は裕福だったので、まだ年若い私にも自由な金があった。私はそれまで学問に向けていた意欲を金を稼ぐ方に注ぎ、私自身が富豪になった。その金で私は魔術師を探した。魔術師。魔法使い。呼び名はなんでもいい。彼女を私の元に連れてくることができるものを。そのためならいくらかかっても構わない。  多少疑わしくとも、できると言うものには全て機会を与えた。だがどいつもまがいものだった。似た姿の少女の替え玉を連れてくるもの。ただの人形を連れてくるもの。絵から出てきた少女はこの絵が描かれた場所にいるのでご自分で探しに行ってくださいと言うもの。そんな謎かけに付き合うために金を払っているわけではない。私はその都度不誠実な詐欺師どもにふさわしい報復を与えた。その噂が広まったのか、私の依頼に応えるものは減っていった。  その申し出は久しぶりだった。連絡をよこしてきたのはまだ年若い少年で、今までの詐欺師たちとはどこか違っていた。彼はまず直接絵を見せてほしいと言った。彼女のもとへと案内すると、彼は深く頷いた。 「これならいけます」  その口調は軽く、むしろ信頼が置けるように思えた。ただの仕事として判断をしている。彼は私に儀式に必要な様々なものを要求した。宝石を砕いた顔料や生きた蛇や鳥の死体。まあそのようなものだ。金を使えば用意ができる。  儀式の日は満月だった。月の光の入る部屋で、絵の前で少年と私は待った。ちょうど月の光が絵に差す瞬間に行わなくてはいけない。薄明りの室内でも、彼女は美しかった。永遠の私の恋人。今日、やっと本当に君と出会える。期待で胸が震える。八歳のころから描いていた夢が今日叶う。  少年はたいした緊張もしていない様子で用意を整えた。私にもわからない言語で小さく低く何事か唱えると、月明かりがぼうっと強くなり、私は目を閉じた。  そして目を開けると、そこに彼女が立っていた。 「成功ですね」  と少年の声が意識の隅で聞こえた。  まさしく成功だった。そこにいたのはずっと焦がれた私の少女だった。絵の中から出てきた彼女は印象よりずっと華奢で小さく、心細そうに立っていた。その細い肩に手を伸ばし、抱き寄せる。もう私がいる。小さなふっくらとした唇に唇を寄せる。 「やめて!」  ばしん、と、頬に痛みが走った。何が起こったのかわからず呆然とする私の腕から彼女がすり抜ける。そして、そのまますっと絵の中に戻って行った。  彼女に叩かれた頬を押さえる私に少年が言う。 「そりゃあそうでしょう」  そりゃあそうでしょう? 意味がわからない。 「次の満月にまた儀式をしますか?」  少年の言葉に、私は首を振った。目の前の絵には、恋い焦がれた美しく神秘的な少女などではなく、冷たく高慢な女がいるだけだった。
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