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第3話「嫡男」
「よもぎ、おいで」
蘭丸が空に向かって、腕を伸ばす。
一羽の鷹がくるりと旋回すると、綺麗に蘭丸のところへ飛んでいき、腕にとまった。
「ありがとう。あとでご飯食べようね」
蘭丸はよもぎと呼ばれた鷹の脚には、細く折りたたんだ紙がくくりつけられていた。
紙を広げると、小さな文字が書いてあった。
チラリと見た蘭丸は、すぐに胸元にしまった。
「蘭丸。お前、昨日、うるさかったな」
少し距離のあるところから声をかけられた。
「天守閣から、なんか気合い入れたこと叫んでやがって」
「信忠(のぶただ)様……すみません……」
蘭丸はゆっくりと、地面に膝をついて一礼した。
しかし、またすっと立ち上がる。
背は信忠のほうがほんの少し高い。
その後ろにぼーっとした顔で小姓が立っていた。
「お外にいらっしゃったんですね。あの時間はいつも夕食を一生懸命食べてらっしゃるのに」
「俺が食いしん坊みたいに言うな」
信忠に対し、遠くでずっと膝をついていた家臣たちは、この会話を聞いていた。
ときおり、顔を上げ、二人を見ては顔を伏せたり、顔を見合わせたりしていた。
「…………」
「………………」
妙な距離感のまま、お互い無言で突っ立ったままだった。
「あー、今日もいい天気」
そこに七之助てとてと歩いてくると、立ち止まる。
「うわぁ。なんか心臓に針が突き刺さるような空気だと思ったら、公認愛人と嫡男が対峙してる……。こわいこわいこわい」
七之助の後ろで坊丸が困った顔をしていた。
「お兄様……どうしたら……」
「お兄様に任せて」
威圧感溢れる態度で突っ立ったままの信忠と、ただ微笑んでいるだけなのに、なんか怖い蘭丸。
そこに、七之助は明るく手を振り、蘭丸に近づいた。
「蘭丸ー!ねぇ、今ひまー?えっちしようよー!」
(雑……)
坊丸が心の中で呟く。
「信忠どの。こんにちはぁ。さ、さ、行こ、行こ、蘭丸。信忠殿、失礼しまーす」
七之助に背中を押され、蘭丸は歩き出した。
後ろを坊丸がついていく。
姿が見えなくなったころ、七之助が話し出した。
「何してたの?」
「ただ、立ってただけ」
「こわいよぉ」
七之助がチラっと振り返ると、信忠はすでにいなくなり、小姓が急いで後を追っていた。
「信忠殿ってどんな人?」
「小姓が無能なことに気づけない無能」
「あはは……」
「お殿様の嫡男なんて過保護に育てられるからね。人を切ったこともないよ」
「まぁ、そんなもんだよね」
夕方、蘭丸は信長に呼ばれ、部屋を訪れた。
そこには信長の嫡男である信忠(のぶただ)がいた。
隣には信忠の小姓の空太(くうた)が、いつとのようにボーっとした顔で座っていた。
ザ・しょうゆ顔だ。
信忠はチラリと蘭丸を見ると、笑いもせず、睨みもせず、また畳へと視線を移した。
口元や眉間に少し力みがあるように見える。
信長と信忠が正面を向き合い座る中、蘭丸は信忠を通り越し、信長の横に座った。
蘭丸は、軽くお辞儀をする。
「お待たせして申し訳ありません」
「いや、久々に親子で話ができた。それで、本題だが、そろそろ信忠も戦(いくさ)につれていこうと思う」
「はい」
蘭丸は柔らかく微笑んだ表情のまま答えた。
「とりあえず、明日、秀吉が整備している場所を確認に行かせる」
「少人数で参りますか?」
「あぁ。敏史(としふみ)と藤継(ふじつぐ)とあと、数人若いやつでな」
信忠が少し驚いた顔で、父親を見た。
「父上もくるんじゃ……」
「俺は行かないぞ」
「え……」
「佳代が着物を寄越せというからな。子どもも産まれたようだし、ついでに見てくる」
佳代は側室の一人だった。顔は下の中だ。
信忠は焦った顔のまま父親の顔を見つめる。
「あの、先生は、一昨日の戦でお亡くなりになりましたし、護衛が……」
「空太がいるだろ」
信長は淡々と続けた。
「まぁ、何かあったときの連絡係に、蘭丸か坊丸、ついてってくれるか。俺と佳代のところか、信忠か、どっちにどっちが付き添うかは二人で決めればいい」
「御意のままに」
蘭丸は丁寧に信長にお辞儀をした。
「この話はこれで終わりだ。蘭丸、お前にいいもんをやろう」
「なんでございますか?」
急に声のトーンが上がり、ニコニコと嬉しそうな信長に、蘭丸もニコニコした顔で近寄る。
父親の代わりように、信忠は顔を引きつらせた。
信長は隣にあった箱を自ら、開けてみせる。
中には、抹茶茶碗が入っていた。
「わぁ!素敵なお茶碗でございますねっ」
「だろう。これをお前にやる」
「信長様っ、嬉しゅうございますっ!」
蘭丸は腕を信長の腕に絡め、喜んだ。
目の前で見ていた空太が、小さな声で言った。
「高そーな茶碗。いいなー」
「…………」
信忠は黙って見ているだけだった。
「茶でも飲むか」
「そうでございますね。準備して参ります」
蘭丸が部屋を出ると、すぐ角を曲がったところで、中年の男が二人、立っていた。
「蘭丸!」
先ほど、信長の話に出た、信忠に付き添う家臣だった。
藤継(ふじつぐ)は年は49。顔は下の中。
最近、嫁が若い家臣と不倫して妊娠したらしく、同僚たちに同情されているらしい。
もう一人は敏史(としふみ)。
47歳。顔は下の下。こっちは庭仕事が好きで、戦には一応行くが、うろうろしているだけだった。
「蘭丸、これ、落雁(らくがん)、食べるか?」
「干し柿もあるぞ」
蘭丸の前に立ちはだかると、食べ物を差し出した。
まるで、小さい子どもを誘拐するようなやり口に、蘭丸は口の端を少し動かして笑った。
「わざわざ待ち伏せて、何のご用でしたか?」
「明日、お前が来てくれないか?俺らだけじゃ不安だもんで……」
「頼むよ蘭丸。もう、腰が痛くて、馬に乗るので精一杯でさぁ」
「万が一、万が一、何かが出て、信忠様に万が一のことがあったら……」
「そうそう。万が一……」
蘭丸はチラリと藤継の疲れたような顔を見てしまった。
「……いいですよ」
「よし!」「さすが蘭丸!」
「どうせ、どっちもどっちですし。私も、確認したいことありますし」
「蘭丸ー!感謝する!落雁!落雁持ってけ!」
「干し柿も!明日も持ってくるわ!」
二人は大量のお菓子を蘭丸に渡して去っていった。
翌日の早朝、信忠は支度をし、空太と共に門まで歩いた。
早すぎるためか、忙しそうな物音が聞こえるのは台所だけで、敷地一帯、人気がなかった。
「早すぎないか」
「やっぱそうみたいです」
「普通、出発の準備ができたら、お前が呼びに来るものじゃないのか。なんで殿様の息子が集合場所に一番のりなんだよ」
「ミスっちゃいました」
馬小屋の近くでは家臣たちが、今日使う馬の用意をしていた。
小屋の裏を歩いていると、若い家臣たちの話し声が聞こえた。
「蘭丸、信長様に、まーたお茶碗もらってたらしいぞ」
「はー。まぁ、優秀だしなー」
「でも、信長様の直接指導の鍛錬では、汗流してはぁはぁ言ってるよな(笑)」
「はぁはぁした蘭丸の顔見たいだけだろ。信長様、蘭丸の兄弟たちにはあんなに直接指導するのに、息子には指導しないんだってよ」
「なんで?」
「もう何も見込んでないんだろ。物覚え悪いし。蘭丸を養子にとりたいんじゃない?」
「養子?」
「みんな言ってるぜ。ほら、あのデブジジイも家臣の息子、養子にしてたじゃん」
「それは男児が生まれなかったからだろ。信長様は長男がだめでも、次男もいるじゃん。側室だっていっぱいして、一応男児もいるだろ」
「どーだか。信長様は、慣例には習わない発想の持ち主だし」
「あー、確かに。蘭丸は三男だから、自分ん家、継がなくても、他にいっぱいいるしな」
「この戦でしょぼかったら、信忠は寺にでも出家させて、なかったことにすんじゃね?」
「かわいそすぎる(笑)」
笑い声がする中、信忠たちは馬小屋の裏を通り過ぎた。
空太が抑揚のない声で言う。
「……あー。元気出してください。出家させるなら、たぶん、私も一緒に行かされる……」
「……ッチ………別に落ち込んでねぇよ。こういう話は散々耳にしてきたからな」
門が見えた。
少量の荷物と、青年と少年がいた。
「蘭丸。ぷにぷにぃ」
青年のほうは、腰を曲げ、少年のほっぺたを人差し指で両側からつついていた。
「朝えっちしてきたの?」
「いいえ」
「何にもー?」
「ふぇらしてきました」
「してんじゃーん!」
青年はハイテンションで、蘭丸の尻を優しく叩く。
「じゃあ、自分は抜かずムラムラだね!」
「そうなんですよぉ。秀平(しゅうへい)さんは?」
「俺もー!」
今度は人差し指で、乳首あたりをつっつく。
蘭丸は、何食わぬ顔で、荷物を馬にのせていた。
自分の手が空いたところで、信忠のほうへ、一礼する。
「信忠様、おはようございます。すみません。まだ準備が整ってませんので」
秀平と呼ばれた青年はその声でやっと気づいたように、信忠に一礼した。
秀平。小姓出身で、19歳。顔は中の上。
蘭丸の先輩、といえなくもなかった。
「朝から、クソみたいな会話……」
「私は、他の方に準備を急ぐように言って参ります」
秀平の返事も待たずに、蘭丸はしゅっと姿を消した。
殿さまの息子と自分一人残されて、秀平はパニックになっていた。
すぐに準備を整え、城を出た。
秀吉が整備しているところまでは、馬なら数時間。
日帰りで帰れる距離だった。
信忠と小姓の空太、ベテランの重臣2人に若い家臣5人と蘭丸の10人程度の一行だった。
「綺麗な景色だなぁ」
信忠は蘭丸たちとは違い、戦に同行することはなく、城下町か、遠くてもその周辺を散策に出るくらいしかしてこなかった。
そのためか、身近で見る大きな川の風景が珍しいのか、楽しそうに見物していた。
空太も同様で、鹿がいたと喜んでいる。
馬の脚も、歩いた方か早いくらいゆっくりだ。
もはや、遠足感覚だった。
その集団の最後尾に蘭丸は死んだ顔でついていった。
(あーぁ、早く城に帰って、信長様とえっちしたいなぁ)
藤継が機嫌と取るように、話しかける。
「いい天気になり、よかったですな。信忠様。お父上と参りたかったですか?」
「あー、いや。いたらいたで、緊張するし、別に」
死んだ顔で馬に乗っていた蘭丸が、ふと、対岸の林に目を向けた。
「…………」
しばらくじーっと見つめる。
不自然に動く枝。
蘭丸は馬に乗ったまま、短い弓を構えると、怪しいと思われた場所に放った。
「ぅぉぉ!?何!?突然!?」
先頭付近の藤継が、驚いたように騒いだ。
「うさぎがいまして、信長様好きなので、持っていこうと思いましたが……」
「よく気づいたな」
弓を打った先には、生きたうさぎがぴょこんと飛び出して逃げていった。
「外しちゃったみたいだね。どんまい。蘭丸」
前にいた秀平が笑う。
「…………」
蘭丸はしばらく、弓を放ったほうを眺めていた。
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