30人が本棚に入れています
本棚に追加
第4話「好き嫌い」
数時間、馬に揺られ、やっと秀吉が整備しているところへと着いた。
一昨日とは違い、戦の残骸はすべて片付けられ、敵兵が隠れていたボロボロの小屋もなくなっていた。
そして、簡易的ではあるものの、綺麗な建物が立ち始めていた。
先に馬を降り、蘭丸は秀吉のところへ向かった。
「おー!蘭丸来たか!」
蘭丸に気づいた秀吉は、子どもっぽい笑顔で蘭丸の頭を両手でわしゃわしゃと撫でた。
信長より年上なのに、持ち前のひょうきんさで、人の懐に入り込み、あっという間に出世していった不思議な人だった。
「あの、秀吉殿」
蘭丸は秀吉の顔を見ると、自分が歩いてきた方へ、視線を送った。
やっと、信忠の存在に気づくと、急いで地面に膝をつき、一礼した。
「信忠様!失礼しました!来るとは知らず……」
「……別に」
蘭丸が口を開く。
「信忠様の初陣を前に、この辺りの地理や状況を自分の目で見るようにと、信長様が」
「そうでございましたか!わっかりました!私、秀吉がご案内します。さあさぁ、信忠様、こちらに……」
こびへつらい、腰を低くさせ、秀吉は信忠の横についた。
「こちらです。岐阜城制圧の際、信長様たちが過ごされる建物です」
一番最初に作り始めたであろう、この建物は、広く、基礎がしっかりとできていた。
信忠は感心したような声をあげる。
「おー、戦のためだけにこんな立派な建物立てるんだな」
「長期戦に対応するため、しっかりとした作りにしますよ」
秀吉が蘭丸の方を向いた。
「お前に言われた通り、寝室と風呂場を近くにしてやったぞ」
「ありがとうございます。これで、お風呂行って、えっちして、お風呂行けます」
「…………」
それから、信忠の過ごす部屋を確認し、家臣の生活する部屋を確認し、敵のいる方角や、保管できる武器の量などいろいろ見て回った。
突然、秀吉が思いついたように振り返る。
「そういえば、信忠様のお昼ご飯はどうなっとる?」
「おにぎりを持ってき……」
「それだけか!?もうここではすでに食事を用意できます!急いで用意しますので、あったかい味噌汁でもお召し上がりください!」
バタバタと多くの家臣たちが食事の用意を始めた。
藤継、敏史までもが水を汲みに行ってしまった。
ぽつーんと信忠は取り残される。
「…………」
自分の周りを歩いていた大人たちがいなくなり、広くなった視界に、嫌なものが入る。
蘭丸。
一人、ゴミの山の前に屈みこんでいた。
刀や鎌らしき金属がついたものは、ゴミの山の隣に、また山となっている。
その中から鋭利な鉄の塊を眺め、拾い上げていた。
信忠はじーっと蘭丸を見た。
蘭丸は立ち上がり、鉄の塊を、太陽の光に当てる。
襟からのぞく、首の付け根には赤く内出血した跡がところどころに見えた。
信忠がぼそっと、蘭丸に吐き捨てる。
「性玩具」
「…………」
蘭丸は鉄の塊をゴミの山の中に戻した。
「……信長様の性玩具なんて、光栄でございます」
蘭丸はうっすら笑顔を向ける一方で、信忠はむっとした表情を浮かべる。
「俺はお前が嫌いだ」
「さようでございますか」
「いつでも、どこでも、父上に求められれば応え、済ました顔してまた人前に現れる。気持ち悪い」
「…………」
「男同士で、くっ付き合い、薄気味悪い。だいたいうんこが出てくる穴に入れてんだろ。汚ない」
「ふふ。ちゃんと洗浄してますよ。信忠様は男色に一切興味がないタイプのようですね」
「ねーよ」
「先ほども、畑仕事で屈んでいる女性の胸ばかり見ていて。別に、人の趣味なので、構いませんが、変な女とヤって、孕せることだけはしないでくださいね」
「しねーよ!つーか、空太!俺が立ってるのに、お前が座ってんじゃねーよ!」
さりげなく、一人椅子に座っていた空太がハッと立ち上がった。
「立ってるのが好きなのかと……」
「んなわけねーだろ!」
空太に椅子を譲られ、信忠は座る。
突然、遠くで男の叫ぶ声が聞こえた。
「奇襲だ!」
慌てて、秀吉や藤継たちが信忠の周りに戻ってくる。
「信忠様!ご無事ですかぁ!?」
「我々がいますので、ご安心ください!」
「蘭丸!信忠についてくれ!」
「承知いたしました」
蘭丸は特に変わらぬ表情で、信忠に半歩近づいた。
信忠も、空太も緊張した面持ちで、刀の柄を握る。
秀平が走ってくると、早口で伝令を伝えた。
「敵数は30名ほど。斎藤軍ではなく、山賊のようです!統率力はないと思われます!」
「目的は?」
「わかりません!しかし、こちらが織田の軍だということは把握している模様です!」
「ふん!ただの山賊だろう!蹴散らしてやればいい!信忠様はここにいてください!指一本触れさせません!」
秀吉は馬に乗ると、数名の家臣たちと、勢いよく走っていった。
信忠のもとにとどまった藤継たちが小さな声で言う。
「やっぱ万が一あったじゃん」
「蘭丸がいてよかったな」
「頼むよ。蘭丸」
「はい」
屋敷が立つ予定の基礎の中、待機する信忠たち。
遠くで騒いでいた男たちの叫び声が、どんどん近づいてくる。
「ハッ……」
火着いた矢が飛んできた。地面に置きっぱなしにしてあった荷物に刺さると、火がどんどんと燃えうつった。
「大丈夫なのか……」
信忠がぽつりとつぶやく。
男たちの叫ぶ声、馬の悲鳴、火薬の臭い。
「うわぁー!」
前のほうにいた若い家臣に矢が突き刺さった。
信忠は、震えた声で叫んだ。
「こんなところにいたら死ぬ!俺は帰る!」
「そうですね!秀吉に引きつけてもらってる間に逃げましょう!」
藤継もそうしたかったのか、すぐに同意する。
蘭丸が言った。
「では、藤継殿、来たときとは別の道で参りましょう。私が案内します。山道で急な坂が多いですから、馬ではなく、歩いていきましょう」
「わかった」
行きは整備された野道だったが、今度は森の中、人一人通れる獣道を行った。
長いこと歩き、やっと獣道が少し広くなり始めたころ、突然蘭丸が止まる。
「います」
「何がだ?」
信忠はひどく焦ったように蘭丸を見た。
「こちらの様子を伺ってる者が」
「敵か?」
「おそらく」
また、信忠たちに緊張が走った。
「今だ!!」
茂みから男の掛け声が聞こえた。
それと同時に黒い影が現れ、突進してくる。
「うぉぉぉおお!」
藤継が信忠の前で敵を迎え撃った。
しかし、体勢が整わなかったためか、刀で肩を切られ、どさりと崩れ落ちる。
「うぐっ……!」
「藤継!」
信忠が叫び終わるより早く、藤継を切った男が崩れ落ちていく。
「…………!」
信忠が驚いた顔をしていると、倒れた男の後ろに蘭丸が刀を持って、立っていた。
血が地面を染め、男はピクリとも動かない。
「は………は……」
信忠は震える手で刀の柄を握りしめる。
横の空太は刀にすら手が届かず、震えて見ているだけだった。
「信忠様、まだいます。敵」
蘭丸は慌てる様子も、倒れた味方を憂いる様子もなく、2歩、信忠に近づいた。
信忠は硬直した体を無理矢理動かそうとする。
しかし、意思に反して動かない。
それどころか、震えがおさまらない。
(クソ……!止まれ!止まれ!)
ざっと草が擦れあう音がしたかと思うと、人影が向かってくる。
「ひっ……!」
また、男が静かに崩れ落ちる。
蘭丸が切っていた。
顔色一つ変わらない。
また、男が出て来た。
やっと敵を認識できた秀平や敏史たちが男を取り囲み、倒していく。
信忠の前で倒れていた男がよろよろと起き上がると、歩き出した。
よろよろと、いつまた倒れてもおかしくないほどの弱々しい動きだった。
信忠は刀を抜いた。
「く、そ……!」
信忠が刀を突き刺した。
「ぐ……!」
男は崩れ落ちる。
「は、はは、どーだ!見たか!」
「さすが信忠様でございます!」
周りで見ていた敏史や家臣たちが拍手を贈った。
信忠はドヤ顔で刀を鞘にしまった。
「信忠様、お怪我は?」
「ない」
「信忠様、素晴らしい剣技でした」
家臣たちが信忠の周りに集まり、賞賛する中、蘭丸は木に登ると、あたりを伺った。
「まだ、西より数十人、向かっています」
蘭丸は木にもたれかかり、傷口を押さえていた藤継に近づくと、応急措置を施した。
「俺は置いといて、信忠様を……」
「心苦しいですが、そうさせていただきます」
蘭丸は隣に突っ立っていた秀平の腕を引き寄せた。
それと同時に、蘭丸が背伸びをし、口元を近づけてくるのがわかった。
「ら、蘭丸!?」
期待したように顔を赤らめる。
しかし、その唇は顔には触れることなく、耳元で小さな声を話して終わった。
真顔に戻った秀平は、蘭丸に言われたことをそのまま信忠に言った。
「信忠様、ここは私たちが引き受けます。この上に、無人のお堂がございます。蘭丸と空太を連れてそちらに向かい、一旦、身を隠し、馬を連れてきてもらうのはいかがでしょう」
岩肌が剥き出す急斜面の崖の方を見ると、確かにボロボロのお堂らしきものがあった。
「それがいいな。少し疲れたし」
「私がご案内します。ついてきてください」
蘭丸が言うと、走り出した。
それに信忠と空太がついていく。
二人に合わせ、だいぶゆっくりとした走りだった。
ざっ、ざっ、ざっという足音をさせ、三人は無言で走った。
信忠はチラリと蘭丸の顔を見る。
手練れの大人たちと別れ、まだ敵が追ってきている状況にも関わらず、蘭丸は澄ました顔している。
その余裕ぶった態度が気に入らなかった。
「蘭丸、援護はすぐに来るのか?」
「はい」
「……ならいいが」
「…………」
「…………」
「おい、蘭丸」
「…………」
「父上の養子になるという話は本当なのか?」
「……………………」
「蘭丸、返事をしろ」
くすっと笑う声がした。
「は?ばか?なるわけないじゃん。なってどーすんの?」
笑ってる。
信忠は困惑したように叫んだ。
「織田の家督を継いで、織田の当主になるんだろ!」
蘭丸が立ち止まる。
つられて、信忠と空太も立ち止まった。
下を向き、背を丸め、お腹に手を当てていた蘭丸の体が震え出す。
「ぷっ……あはっ、あははは……!あはははは……あははははっ……ふふっ……」
かなり長く笑う蘭丸に、信忠は困惑したまま見ていた。
顔をゆっくりと上げ、信忠を見る蘭丸は、妖艶に笑っていた。
「おこちゃまの発想(笑)」
「は…………?」
言葉が理解できず、今だ困惑したままの信忠をそのままに、蘭丸はまた走り出した。
おいていかれては道がわからない信忠と空太も、遅れて走りだす。
信忠が追いついたところで、蘭丸はまたしゃべり出した。
「そんなものより、もっととびっきりで、贅沢な、座があるんですよ」
「……どういうことだ?」
「お堂が見えました。中に人がいないか、先に見て参ります」
そういうと、蘭丸は一人、建物の中へ消えていった。
「あいつは何を考えてる。気持ち悪いやつだな。なにがしたいんだ……?」
「神になる……とかですかね?」
すぐに蘭丸が出て来る。
「中は大丈夫です。汚いですが……」
崖際に建てられ、山を登ってきたものを迎えるにはちょうどいい立地のようだったが、ほったらかしにされていたようで、老朽化が激しかった。
蘭丸は一瞬、テンションの下がった顔をするが、意を決して中へ入った。
「きなこ」
蘭丸が呼ぶと、足元に柴犬がすり寄ってきた。
「ずっとついてきてたのか?」
「いつもではありませんが、今日は別れることが予想されたので、来てもらいました。可愛いくないですか?」
きなこを持ち上げて近づけると、蘭丸は、珍しく信忠に笑顔を見せた。
きなこも愛くるしい表情で笑っている。
「獣は好かん」
信忠は顔を背ける。
「可愛くてお利口さんなのに、残念です」
蘭丸はさらさらと手紙をかくと、きなこの花柄の首輪にくくりつけた。
「さぁ、おゆき」
きなこは蘭丸に頭を撫でられると、迷うことなく、城のほうへと走って行った。
「馬を寄越すように連絡しました。あとは待つだけです。さぁ、私たちも休みましょう」
険しい山道を歩いた3人は無言のまま休んでいた。
もう男たちの怒号も、馬の悲鳴も聞こえない。
鳥のさえずりと、たまに、風が木々を揺らす音だけで、静かだった。
空太はいつの間にか寝てしまっている。
蘭丸が、ふと顔を上げた。
「誰かきましたね」
「やっと帰れる」
はっと顔を上げた空太が嬉しそうに入り口に向かった。
「うわぁ……!」
「空太!?」
男と、その男に押さえつけられる空太が中へと入ってきた。
山賊のようないで立ちの男が、他に二人いた。
「な、なんだ。お前ら……!?」
「…………」
側近を人質に取られ、信忠は固まってしまっている。
蘭丸は変わらない声のトーンだった。
「信忠様」
「な、なんだ……!?」
「信忠様が今すべきことは、生きて城へ帰ることではないでしょうか。ですから、危険を冒してまで刀を握る必要はございません」
「わかってる」
「あなたが死んでは、信長様が困りますので」
蘭丸は信忠の前に立つと刀を抜いた。
目の前には大人の男が3人。
しかも、一応、人質らしきものまで取られていた。
蘭丸は目の前の男をじっと見た。
(さっきいた山賊たちとは違う。訓練を受けたような構え方)
「目的はなんですか?」
蘭丸の問いに、男はニヤニヤと笑いながら答えた。
「そこにいるのか若殿の信忠だろう。そいつをさらっていきゃぁ、褒美がもらえるらしい」
一人は仲間の出方を伺ってからいくつもりなのか、刀を構えず、ただ持っているだけ。
もう一人は信忠をあと少しで捕まえられそうと、目が血走っていた。
真ん中の男は余裕ぶっこいて、ニヤついている。
その男がこちらに向かって走り出してくるのと、同時に蘭丸も走り出した。
男にぶつかる直前で身を低くし、かわすと、後ろに回り込む。
背中を切った。
「ぐぁっ……!」
男が叫んでいる間に首を切り裂く。
倒れた。
一瞬の間もなく、隣に固まっていた男に飛び込む。
男は刀を振り払われ、慌てたように、近くに置いてあった大きな鐘を蘭丸に向かって投げる。
あっさり、避けられ、鐘はお堂の壁を破壊した。
「はっ……!」
「織田流奥義 三番 舞」
男が首を切られ、倒れた。
キラキラと、まるで蝶が舞っているようだった。
「きれいだ……」
ぽつりと呟く声が聞こえ、信忠はハッとなる。
この場には自分しかいないので、自分が発した言葉で間違いない。
「…………」
自分を疑ったまま、また吸い寄せられるように蘭丸に目を向けた。
空太を掴んでいた男が、何かを蘭丸に投げるが、それを可憐に避ける。
男の腕に軽く、刃を入れた。
「いでっ……!」
反射的に、空太を掴んでいた手を離す。
その瞬間に、蘭丸はどんと、男の腹に刀を突き刺した。
あっという間に、目の前に男が三人、ころがってしまった。
蘭丸が静かに、刀を鞘に収めた。
解放された空太が、腰が抜けたように、よろよろとその場に座りこむ。
倒れた男が一人、最後の力を振り絞り、火打ち石で火をつけた。
お堂の中心に、瞬く間にボロボロの建物は炎に包まれた。
「火をつけると、同時に火葬ですか?」
炎の光が蘭丸を照らした。
「そんなに証拠隠滅したいの?」
蘭丸は倒れる男に妖艶に笑った。
しかし、返事はない。
蘭丸はがさがさと男の体を漁る。
こちらに攻撃の際、投げてきた鋭利な鉄の塊を眺める。
「蘭丸!何をしている!早く逃げるぞ!」
「先にどうぞ。すぐ追います」
信忠はとにかく火の上がってない方へ走った。
入口付近は炎の海のため、お堂の裏手。崩れた壁から逃げ出す。後ろは崖だった。
「…………クソ」
行き止まりになり、信忠はイラついたように、地面を蹴った。
それが衝撃になったのか、信忠がのっていた岩が崩れ落ちた。
「くっ……!」
近くに這えていた松の枝を掴む。
足場はどんどん崩れ、信忠は空に脚を浮かせていた。
「あぁ!信忠様が!」
崖の下では敵を片付け、追ってきたのか、藤継たち家臣が騒いでいた。
信忠が落ちてきそうな真下に移動しようとする。
しかし、そこは岩がごろごろころがっており、簡単に行けそうになかった。
「信忠様ぁ!今行きます!」
「う…………」
片腕で自分の体を支えるのが限界だった。
そして痺れ出した手は、突然、力が入らなくなった。
ふっと体が下に落ちる。
「はっ……!」
ぱしっと、何かが腕を強く掴む。
目を開けると蘭丸だった。
「蘭丸……!」
「…………」
わぁぁああ!と下から家臣たちの歓声が聞こえる。
「蘭丸!よくやった!」
「蘭丸!蘭丸!」
「…………」
間近に見上げる蘭丸は、重そうな表情もなく、かといって、引き上げようとする様子もなかった。
信忠は困惑した顔のまま、真上にいる蘭丸を見続けた。
蘭丸がニヤっと笑った。
「俺も、お前が嫌いだよ」
その顔に信忠は凍り付いた。
「でも、羨ましいなんて思ったことないけどね」
下で見ていた家臣たちの蘭丸を応援する声が聞こえる。
「蘭丸!がんばれ!」
「引き上げろ!」
「がんばれー!らんまるー!!」
蘭丸は信忠の腕を掴んだまま、続けた。
「特に顔がブサイクで嫌いです。信長様の息子でありながら、どうしてそんなブサイクなんですか?ちゃんと信長様の子なんでしょうか?」
「そんなことはいいから!引き上げろ!」
笑っていた蘭丸の顔が、急に真顔になる。
「では、伊集院藤兵衛の話を白紙にすると約束しろ」
「は?伊集院?」
「俺の家の教育係、藤兵衛。お前、教育係に依頼したそうだな。お前なんかの相手は可哀想だ。うちにはまだ育てないといけない人材がいる」
「……………なんで、いま……」
「がんばれ!蘭丸!」
これは秀平の声だ。
下にいる家臣たちからは、蘭丸の話していることも、表情もわからないのだろう。
「蘭丸!がんばれ!」「蘭丸ー!」「蘭丸!蘭丸!」
「……わかったよ」
その声を聞き、蘭丸はぐっと引き上げる。
信忠は上半身を乗せることができ、なんとか崖の上に上がった。
わぁー!と家臣たちの歓声と拍手、蘭丸、よくやった!と叫ぶ声が聞こえた。
「信忠様、お怪我はありませんか?」
「ない」
目の前のお堂は全焼していた。
幸いにも蘭丸と信忠が立つところは松の木一本だけで、枯れ葉などはなく、火の手が及ぶことはなさそうだった。
遠くで必死に、空太や数人の家臣が遠くの川から水を運び、火を消そうとしていた。
蘭丸は笑顔を崖の下にいる藤継たちに見せ、信忠の無事を知らせた。
「蘭丸、よくやった!」「えらいぞ!」
やがて、火か消え、信忠たちは城から届けられた馬にのり、城へと帰った。
山賊に荒らされ、整備した場所が、見るも無残な姿になり、秀吉は憔悴していたらしい。
信忠たちが城へと着くと、奇襲に遭ったことを聞いた信長が、側室の屋敷から戻ってきたところだった。
馬から降りるや否や、興奮したように、藤継や秀平たちは信長に報告した。
「信忠様は無事でございます!お怪我はありません!」
「蘭丸が!蘭丸が信忠様を救ったんです!」
「崖から落ちそうなところを、こう!腕を掴んで!」
「まさに九死に一生って感じでした!」
信長は嬉しそうに蘭丸を見ると、蘭丸はこくりと一礼した。
「そうか。がんばったな。蘭丸。ありがとう」
信長は蘭丸に腕を伸ばすと、頭を撫でた。
蘭丸も幸せそうに目を細める。
「蘭が腕を伸ばすまで、信忠様が耐えてくださったおかげです」
遠くでそれを眺めていた信忠がゆっくりと歩いてきた。
怒ったような顔のまま、父親の前で仁王立ちで叫んだ。
「ち、父上!こいつ、俺に向かって、ばかと言いました!打ち首にしてください!」
「蘭丸がそんなこと言うはずないだろう」
即答される。
「…………言ったんです!」
「たとえ、言ったとしても、お前が本当にばかだったんだろ」
「…………」
藤継や秀平たち、その場にいた家臣たちが顔を見合わせた。
「蘭丸が?」
「蘭丸がそんなこと言うかなぁ」
「こんないい子なのに」
誰も信じてくれない状況に、信忠はぷいっとそっぽを向くと、自分の屋敷へと歩いていった。
「もういい!めし!腹が減った!」
遅れて、空太がついていく。
「そういえば、お昼ご飯食べ損ねましたね」
「空太、俺のめしは!?」
「あ、……どっかで落としました」
「はぁ!?」
最初のコメントを投稿しよう!