商売上手

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 人事異動の荒波にさらされ、単身赴任を始めた最初の一月、私は忠実に妻の言いつけを守っていた。米を流水にさらし素手でかき混ぜた後、灰汁を捨てること数回、とぎ汁から白濁色が失われる頃合いを見計らって炊飯器にかけタイマーをセットする。時間は午前6時15分、カーテン越しに差し込む陽光がそろそろ腹の虫のお告げを知る折に、ちょうどピピピと高らかな音色が炊飯器から立ち込めれば、ピンと面を合わせたアツアツの白米が炊き上がる。いや、素晴らしきかな文明の力、果たして誰が発明したのかは見当もつかないが、エジソンあたりに礼を言っておけばきっと巡り巡って当事者へと辿り着くであろう。私はバトン形式の感謝の気持ちの行く末に思いを馳せつつも、茶碗片手に新米の一番香りを存分に楽しもうと気持ちを切り替え、徐に炊飯ジャーの蓋をよいせと開けたとき、そこで初めて礼を言うには少々早すぎたことを知った。あぁ、なんということだろう、私は例に漏れることなく、およそ世界中の主婦という主婦が一度はやらかしたことがあるであろう単純にして明快なミスを犯してしまったのだ。 そう。 炊飯開始のボタンを押し忘れたのだ・・・。 『商売上手』  そもそも元来底抜けにズボラな私とって自炊という概念自体が到底無理難題だったであろうことは、妻への罪悪感を和らげるために日課となった『私は悪くない!』という呪文が嫌というほど証明している。だってそうだろう?常務と取引先に頭を下げる事だけを生業としている私の仕事に崇高な表現が似合うかどうかはさて置き、故人はよいことを言った、腹が減っては戦ができぬだ。そんなこんなで今の私は自炊という呪縛から解き放たれ、今日も今日とて真っ白いトレーを小脇に抱え、銀色がきらめく二股のトングをパチパチと響かせる。 『さて、昨日はバターロールとクリームパンであったことを加味すると、今日はこの辺りだろうか?』  コムギの香りが一層食欲をそそるここ『Surdité tonale』は、駅近くに居を構える洋風チックなパン屋だ。 「あっ!牧野さん!いつもありがとうございますー!」 「ど、どうも…」  ほぼ毎日足繁く同じ店に通う客を世間では常連と言うそうで、かくいう私も今やその一人、嬉しいような恥ずかしいようなというやつだ。店主はフランスでパン作りの修行をしてきたそうで、この店の名前もフランス語からとったそうだが、外国語に疎い私にはその名にどんな意味があるのかは謎のまま。それど、OKグーグルという魔法の言葉を口にするほどの意気込みはなく、何となく字面から伝わる異国な雰囲気で十分だった。初めて訪れたのは、件の米を炊き忘れたあの日、腹の減った私は物は試しと着の身着のままこの店に訪れ、そんでもって上質なバターの香りが、たった2か月にして我が家の米櫃を空にしてしまう事実を知る記念日となった。以来私はパンの虫。朝はパン。パンパパン。 『よし、決めた。これでいこう』  小麦色が艶やかに光る姿はどれもこれもがうまそうで、私はじっくりと時間をかけてから、ブルーベリーをふんだんに使ったジャムパンと作りたてなのか暖かさの残るライ麦パンを選び抜き、レジカウンターへ向かった。 「ジャムとクルミでお会計260円ですね」  私は用意しておいた小銭をジャラジャラと会計用のトレーに乗せる。 「ポイントカードはどうします?」 …しまった。ポイントカード。 わざわざきっかり260円をポケットに忍ばせる用意周到なできる客の演出までしたというのに、私はいつもこいつの存在を忘れてしまう。 「ポイントカードあります?」 「あ。ちょ、ちょっと待っててくださいね」  結局、財布を求めてビジネスバックを引っ掻き回し始めた私は、某レンタルビデオ屋の館員証を間違えて差し出すというハプニングも交えながらカードを取り出した。 「パン二つなんで2ポイントですねー。あ!やったね牧野さん。全部埋まったよー」  なんとまぁ、元はご飯派だったはずのに、そろそろ私はパンに住民票を移す必要がありそうだ。知らず知らずのうちにポイントカードには店のマスコットキャラ、通称コムギちゃんでぎっしり埋め尽くされており、集合体恐怖症の私にとっては少々気味が悪いデザインになっている。 「これ?何かもらえるですか?」 「うん。すんごいのがあるよ!」  そんな言い方されては期待しないわけにはいかないだろう。私は店主がしばらくレジ下をガサゴソと弄繰り回すのを、無邪気な子供のように上からのぞき込むようにして待っていると、数秒後には「あった。あった」という小さな声と共に特典とやらが顔を出した。 「ほい!こいつが特典の銀のポイントカードだ」  なんと手渡されたのはさっきとおなじポイントカード。それも唯一の違いがあるとすれば色が小麦色から灰がかった銀色になったことだけのように見える…。 「……え?」  当然、私は何かの悪い冗談ですねよ?と目で訴えかけてみるものの、店主の塗り固められた営業スマイルから察するに共有できているかどうかは怪しい。そうして数秒ほど大の大人二人がにらめっこを続け、そろそろ根負けして何も言わずに出て行こうかと冷汗が私の頬を伝い始めると、店主が何かに気がついたようにハッとした表情になった。 「あ、あれ…?牧野さん、もしかして…うちの特典、知らない?」  ああ。知らないとも。説明されてないからね。私はただただ目を見開いたまま首を縦に3往復した。 「あぁー!なんだ!早く言ってよ!うちのポイント貯める人ってさ、大概それ目当てな人ばかりだったから、てっきり牧野さんもそうなのかと…」  なるほど。そういうことか。どうやら少なくともわざわざ広辞苑を使って特典の意味を再度確認する必要はないようで私はほっと胸をなでおろしつつも、ポイント目当ての人がいるという事実に俄然引き寄せられた。 「あぁー。でもねぇ、わざわざ説明するより実際に見てもらった方が早いと言うか…、牧野さんさ。もしこの後時間あるならこのカードもって店の裏側に回ってみてよ」 「…裏?裏って…こ、こちらのお店のですか?」  私の頭に浮かんだ疑問は至極純粋なものだろう。飲食店が100%衛生的なんてのは、消費者側の勝手な解釈であり、実際にはとてもじゃないがお客様には見せられないものがひしめいていることを学生時代に牛丼チェーン店でバイトをしていた私は知っている。だからこそ、カウンターから先はスタッフオンリーと相場が決まっており、それが客の心の衛生を保つのだ。 「出て右側に側道あるからさ。そっからいけるから」  まだまだ尋ねたいことはたくさんあったのだが、いつの間にやら私の後ろには長蛇の列ができており、話は終わりだとばかりに店主は次の客の会計を始めた。なら仕方ない。私はしぶしぶ顔で店を出て、店主の言っていた側道とやらを歩き始めると、そこにあった光景にはさすがに目を疑った。    あったのは紛れもなくパン屋。それもどこをどう見てもさっきの店とは別のパン屋だった。 「…どういうことだ?」  自然と口からこぼれ出た言葉は今の状況を賢く照らし合わせており、私は大きなため息を吐いた。どこぞの偉人の小説の一説にはトンネルの先には雪国があったそうだが、さすがにパン屋の先にはパン屋があっては読者は置いてけぼりだろう。私は辺りを見渡して途方に暮れるも、他に何かあるわけでもなし。結局は居酒屋でもないのにパン屋をはしごすることになった。 「いらっしゃいませー!」  私が店内に足を踏み入れると、後ろ手に髪を結んだ女性の健やかな挨拶に迎え入れられた。 「えぇーと。初めてのお客様ですよね?」 「ええ。そうです」 「ポイントカード、確認させていただけますか?」  ポイントカード…。もちろん思いつくのは一つしかないし、もし違うんなら相当達の悪い悪戯だ。場合によっては押し入れで静かにその一生を遂げた炊飯器が再び息を吹き返すことになるやもしれぬ。 「はい。確かに」  どうやら心配は杞憂だったようで、ちらっと一瞥しただけで、カードは戻ってきて拍子抜け。果たしてほんとに確認したのか怪しほどだ。 「どうぞ。ごゆっくり」  そう言って女性の店員はレジへ引っ込み。取り残された私はしぶしぶパンの物色を始めると、すぐにある事に気がついた。 「同じ…だね」  びっくりだよ。なんせさっきと同じなのだ。それも全部。大きさ、値段、パン種類、さらには付属品のトレーやトングに至るまですべてが同じ。少なくとも私にはそう見えたね。 『なんなの…、これ?』  超がつくほどの人気店でもあるなし、一体これに何の意味があるのか?腑に落ちなかった私はひとしきりすべてのパンに目を通した後、念には念をと光にかざしてみたりもした。もちろん、複写になっていて福沢諭吉のようにマスコットキャラの一つや二つが顔を覗かせるようなことも無い。いよいよもって意味が分からんと匙を投げかけた時、ふくよかな女性客が先ほどの店員と話をしているのが聞こえた。 「やっぱり、シルバーになるとパンの質が全然違うわねぇ。いい小麦を使ってるんでしょう?」 「す、すみません。ブロンズのお客様もいらっしゃいますので、それは企業秘密ということで…」 「あら~。そういえばそうよね!私ったら配慮が足りなかったわ。同じ値段でいいモノ食べさせてもらってるんだから、そういう質問は野暮よねぇ」    そう言って、その女性客はパンが大量に入った大袋を二つも抱えたまま店を出て行った。 『なるほど。謎は全て解けたよ』  数多のミステリー小説の主人公が周囲の小さな出来事から着想を得て事件の解決をするように、今の出来事が私の脳裏をビビッと刺激した。正直言えば、ヒントというよりは犯人に自供されたようなものだったが、まぁ、この際どうでもよい。要するにこの店は常連には良く接する。飲食店に限らずどこの業界でも商売の上では当たり前といえるかもしれないが、こうも分かりやすくある意味で堂々と依怙贔屓をするとは珍しい。再び私がパンに眼球がめり込むほどよーく目を凝らすと、一見同じように見えたパンも、確かに表の店とは色つやが異なり鮮やかに見えてくる。 「なら、話は速い」  そして、私は行動も早かった。 「これ、お願いします」 「ジャムパンですねー。130円になります」  せっかく店の好意を示してくれているのだ。それがどれほどのものか試さない手はないだろう?私は店先のベンチに腰掛け、二つのジャムパンをもってして食べ比べと興じてみた。 「おっほほ!全然違う!」  米すら満足に焚けない男に違いなんてわかるのか?と人は問うのかもしれないが、逆に言えばそれほどにまで差は歴然だったのだ。いうなれば、出来立てホカホカのパンとカビの生えたパンを比べるようなもの。分らぬはずがない。 「ふふふ。ふふふふふふふ』  私は昔見たオリジナルキャンディの広告を思い出した。ある少年が祖父からもらったキャンディがあまりに美味しかったので、こんな美味しいものをもらえる自分はどこか特別な存在の何ではないかと疑問を抱いたという話だったが、まさに今の私そのものだ。適度に虚栄心がくすぐられ、パブロフの犬にとってのベルがそうであったように、表の店に客が出入りしているという事実が私の口内に大量の唾を作る。世間では空腹は最高のスパイスであると語るが、今の私はその通説に異を唱えことができよう。優越感こそがそれであると。  さて、しばらくはこの邪な甘露に舌鼓を打たせていただこう。私は不味いパンをわざわざ買う客を尻目にベンチの背に体を預けた時、ひとりの若い女性に目が行った。ハイハットにブランド物のバック、そこに大口のサングラスを携えた所謂金持ち然とした女。その女が、店の二階から私を見下ろしているのに気付いたからだ。はじめはそんなところにテラスの席まであったのかと驚き、軽い挨拶でも交わそうとかと手を挙げてみたのだが、どこか女の様子がおかしい。体調でも悪いのだろうか?辛そうに眉をひそめているのに、その口角だけはどこまでも上向きだ。 「なんだか気味が悪いな…」  まるで今までの一連の行動を見ていたぞとばかりに、私のことを批難しているのだろうか?だとすればそれはひどい勘違いで、私は店の好意に甘えただけに過ぎない。私は自分が悪者ではないと柔和な表情を女に向けた時、彼女の視線の意味を知った。 「あっ!」  女の手には一枚のカードが握られており、それは特別な色をしていた。小学生の運動会からアスリートによるオリンピックに至るまで、数多の大会と呼ばれる種の催し物で、一等に輝いた者にのみ与えられるあの色。平々凡々を座右の銘としている私にとってはついぞ手に入れることのできなかった忌まわしい色をしていたのだ。 「そ、そんなばかな…」    私は居てもたってもいられず、震える手で財布からポイントカードを取り出し、ポイントカードの枠の数を数え始め、頭では同時にひっ算が組み立てられる。 「ぐっ!」  くぐもった声はその数の膨大さ故。だがそれでも、この味を知ってしまった以上戻る道は考えられない。 「そうだ!これからは朝と昼で毎日パンを食べよう。そうすれば日に4つ。いや、5つにしよう。そうすれば一月30日だから、150個。つまり、これなら2月もあれば…。ふふっ」  私は希望を見出し、すぐそこまで行ってやるぞ小娘!とテラス席の女を睨みつける。しかし、女はあくびでもするようにどこまでも余裕顔で、私の決意をあざ笑うかのようにカードの下の方を指さした。 『ん?どいういうつもりだ?何かカードに書いてあるのか?』  私はふと自分のカードを確認しようとした時、突如、違和感に襲われた。それも、魚の切り身を食べた時に大き目な小骨が入っていた時に感じるような微妙な感覚ではなく、何かとんでもなく重大なことを見逃しまったような巨大もの。 「そういえば、さっきジャムパンを貰ったとき、スタンプされたっけ…?」  首元で留まっていた違和感は言葉にしたことで現実となる。私は震える手でポイントカードの下の方に書いてある注意書きに目を止めた。    『10個で1ポイント』    突如、脳が事実を受け入れられず視界がぐにゃりとぼやけた。きっと脊椎反射に近い反応だろう。切に思うね。これが人の成せる業だろうかと…。単純にして10倍。しかもきっと端数は慈悲も無く切り取られるに違いない。つまり、最低でも一日10個食えよと、そろそろ四十の身を迎える私に向かってこのカードは言っているのだ。 「無理だ。三食パンなんてそんなの無理に決まってる」  あたりまえだ。大好物でもしんどいし、きっとインド人だって3食カレーが出てきたらぶちギレる。 「無理だ。無理だ。あきらめろ。銀で十分じゃないか。銀でもうまかったじゃないか」  口では何とでも否定できるが、こうしいる今にも二階にいる女は私の葛藤をエサにして金のパンを頬ばる。頬張る。そして、頬張る。それを目にしたとき、私の決断に時間はかからなかった。 … …… ……‥  あれから2年が経った。    目覚まし時計の音色に揺られ、きっかり6時15分に目を覚ました私は、クリーニングに出しておいたおろし立てのスーツに袖を通し、口髭をきれいに整える。 「ふん、ふふふんふ、ふーん」  私は鼻歌交じりに取り出したコロッケパンを食パンの間に挟んでからかぶりつき、これまた慣れた手つきでクリームパンを温めておいた牛乳で流し込む。もちろん食後のデザートも忘れない。カチカチに凍らしたチョコパンをナイフとフォークで切り分けてから頬張れば、それは地獄の時間。時にはバターの香りで嗚咽が走ることもあるほどの苦行だが、今日に限ってはそれすらも愛らしい。食事を終えた私は社交界にでも参加するかのようにシルクハットを頭にかぶり、手にはステッキ。待ちゆく人にごきげんようと軽やかに会話を交わしながらいつもの店へ。 「あ!!いらっしゃいませ!!とうとう今日ですね!?」 「ん?なんのことだい?」  店員の彼女とはもはや旧知の仲だ。私が妻子持ちの単身赴任であることを彼女は知っているし、彼女がこの店で働くようになったきっかけが、ブロンズ働く店主に一目ぼれしたからというのも知っている。 「もうー。しらばっくれちゃってー」 「はははは。まぁね」 「ふふふ。じゃあ数えますね?一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。…ちょうど10点ですね」 「ああ。10点だよ」  たまに一個少なかったり、逆に多かったりしたこともあったが、今日という今日は絶対に間違えない。なんせシルバー最終日なのだから。私は擦り切れてぼろぼろになった銀色のポイントカードをしげしげと見つめた。 『このシミは私が1年前に狂ったようにパンを食べ続ける自分を、つい冷静に見返してしまった際に泣いた時ものだな…。こっちのキズは半年前に常務が高級焼き肉店に誘ってくれたのにパン食うために断るというあまりの意味の分からない行動に、ついついフラストレーションが溜まってカードを引き裂きかけた時のものだったな…』  このポイントカードにはクソろくでもない最高の思い出がいっぱいあった。 「では…。スタンプ押しますね…?」 「ああ。…たのむよ」  今日は幸せの門出だから絶対泣かないようにしよう。何度もイメージトレーニングを重ねたというのに、最後のスタンプが押される時に彼女の小粋なサプライズがクラッカーをパンと鳴らし、計画が狂ってしまった。いや、白状しよう。きっと私はクラッカーが無くても泣いていただろう。 「おめでとうございます!本当におめでとうございます!」 「あぁ…。ありがとう!ありがとう!」  涙をスーツの袖で隠しながら、私は彼女と握手を交わし、ついにその時が来た。 「こちらが金のカードになります。これ以上はございませんので、どうぞ最高の品質をこの先の階段からお召し上がりください」 「あぁ。そうさせてもらうよ…」  こうして私はついに念願の金のポイントカードを手に入れ、狭い路地をさらに弧を描くようして歩いていき、鉄柵のアーチに縁どられた階段を前にして足を止めた。   「ついにここを上がれるんだな…」  今までは指をくわえてみていることができなかった、黒色のヴァージンロード。それでも今日は夢の舞台への切符が私の手中には握られている。私は意を決して、階段を上りドアを叩いた。 「どうぞ」  ゴクリ。緊張のあまり自分の唾をのむ音を聞こえるが、中から聞こえた初老の男性の品のある声が私を後押しする。ついに扉は開かれ、中へ入るや否や歴史と伝統を感じさせる黄土色を中心とした店内の気品に圧倒され、私はまるで自分がフランスにいるような錯覚に陥った。 「いらっしゃいませ」  少々腰の曲がった出で立ちが、超ベテランのお墨付き。慇懃な挨拶を私に交わしてくれたこの白髪の男性こそが、きっと店の真のマスター(初代店主)であろうと私は思った。 「さぁ、何を召し上がられますか?」 「ブルべーリーのジャムパンを一つお願いします」 「はい。かしこまりました」  最初に食べるパンはずっと前から決めていたが、それよりなによりさすがはゴールド。パンを取るのはマスターの役目らしく、丁寧な所作でそれが運ばれてくるのを私はテラス席を陣取り待っていた。 「お待たせいたしました。どうぞごゆっくり」  百聞は一見に如かず、現実は小説より奇なり。結局のところ筆舌で表すことのできる感動や興奮はその程度であり、このパンを言葉で説明することができないのは疑いようがない。なにせ、目の前には広がる光景はすでに私に至福の時間を約束していた。ブロンズで買い物する大勢の客に、それを見て優越感に浸るシルバーの客。今の私はそんな彼らの上にいるのだ。興奮とパンが冷めぬうち、私はジャムパンを頬張り。ついにヒエラルキーの頂点を味わっていると、そのはるか後ろの厨房でマスターがぽつりとつぶやいた。 ……… 「バカだねぇ。どこで買っても、全く同じなのに…」
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