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「夢を食べる?」
「どういう事だ?」
包丁を胸元の高さまで下げたひつじは、目を伏せて悲しげな表情を浮かべる。振り乱した髪を左耳に掛けながら話始めた。
「いい事教えてあげる」
ひつじが淡々と壮絶な過去を暴露していく。
ある日、ひつじの家に新しいお父さんがやって来る。優しいお父さんだと思っていた。
でも、暗闇の中ひつじが寝ていると、その男はいきなり馬乗りになって頬を殴った。そして、「叫んだら殺す」そう言った男はひつじに性的暴行を加えた。何が起きているのか分からず、ただ泣く事しか出来なかったひつじ。
それは暗闇の中、何日も、何ヶ月も続く。
やがて、暗闇を嫌いになったひつじは目を閉じる事に恐怖を覚える。
寝れば、暗闇が来れば、あの男が来ると。
寝れば殺されると——。
眠る事を放棄したひつじの様子を、お母さんは心配し、お父さんを怪しむようになる。
そしてある日、悲劇は起こるのだ。
「あ、あなた!何してるの?!」
暗闇の中、パッと明かりが灯ると、目の前の裸の男の胸から赤い放物線が描かれる。その前には、返り血で真っ赤に染まったひつじのお母さん。大きな体が小さなベッドから、ドサリと床になだれ落ちる。その男は怒りながら、お母さんの首を絞めようとする。
近くに落ちる銀色の包丁。
ひつじは包丁を拾い上げ、汚く染まった背中にそれをぶっ刺す。倒れ込んだ後も、ザクザクザクザク、躊躇う事なく刺し続ける。
何度も、何度も。
「ごめんね、ひつじ。助けてあげられなくて。私を殺してちょうだい」
赤く塗られた頬を流れていくお母さんの涙。
ひつじはその日、両親を刺し殺し、悲しき殺人鬼となったのだ。
「ひつじが……両親を?」
「そうよ。私は強盗が2人を殺したと警察に言ったわ。まさか、こんな小さな子供が2人を殺したなんて、誰も思わなかったわ」
お父さんから性的暴行を受けていたなんて。
ひつじにそんな辛い苦しい過去があるなんて、全然知らなかった。
「それから私は全く眠らなくなったの。元々暗闇が嫌いだったし。そしたら、人々の夢が靄みたいに見える様になったの。それは真っ白なふわふわ。それを食べると人の夢が見れて面白かった。私は夢を食べる事により、寝なくても生きていける様になったのよ。ここにいる人たちの夢は、色々な希望や欲望に溢れていたわ。外の世界への憧れとか。食べ物ばかりの夢もあった。でも……」
ひつじの白妙の指先が、スーッと私たちを舐め回すみたいに指差す。
私と俊樹は顔を見合わす。
「彩は俊樹の夢ばっかり。俊樹は彩の夢ばっかり。そんな夢、私は食べたくなかった」
え……?俊樹が私の夢を?
た、確かにあの物置の出来事から俊樹の事ばかり考えていて、夢にまで出てきたのかもしれない。でも、それをひつじに見られていたなんて……。
「ひ、ひつじ!違うの!俊樹はずっと長い友達だったから、ただ夢に出てきただけで、その」
「そうだよ。彩はずっと何でも話せる友達で。だから、たまたま夢に出てきたんだ!」
私は嘘をついた。
本当は俊樹の事が好きで、好きで仕方がない。
でも、ひつじも俊樹を好きだから、ずっと心に閉じ込めていたんだ。気付かれない様に。
「私はね、ずっと俊樹が好きだった。男の人なんて全員、悪魔だって思ってたのに、俊樹は優しくて逞しくて。男の人への恐怖心を、あっさり消してくれた。それから俊樹が私の中で大切な存在になっていったの。でも、私なんかより男っぽくて可愛くない彩を好きになるなんて……そんなのって間違ってる!」
涙粒を弾き飛ばしながら、泣き叫ぶひつじ。まだ手には包丁が握られている。
「ひつじは、私の事をそんな風に思っていたの?親友じゃ、なかったの?」
ショックで涙が溢れ出してくる。この場所で一緒に過ごした時間。それは大切な時間で。両親を事故で亡くした私にはこの場所しかなくて……ひつじと俊樹は親友以上にもう、家族だったんだよ?
違うの?ひつじ?
「わ、私だって……でも、この感情は何?彩が好きなのに、憎くて、憎くて……どうしたらいいのか分からない!彩は俊樹を好きで、俊樹も彩を好きで。じゃあ、私の気持ちは?私の気持ちはどこへ行けばいいの?!
あぁぁぁー!!!」
ひつじの光る刃先が私に向かってくる。
「彩!!!」
温かいぬくもりに抱き締められると、目の前に優しい笑顔が咲いた。
それは、大好きな人の笑顔。
でも、口元からは赤い赤い液体が漏れ出して流れる。
「俊樹!!!」
栗茶色の髪が揺れると、引き抜いた背中から綺麗な鮮血の雨が降り注ぐ。
赤い壁の向こうに美しく佇むひつじ。
光に反射した銀色い刃先が眩く輝く。
「さようなら、彩……」
「ひつじーー!!!」
真っ白なひつじが赤く、赤く、染まっていく。
暁の色の中、白かったひつじは笑う。
そして、ようやく眠れる。
それは、永遠の眠り——。
〈完〉
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