アリスインオータムナイト

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虫の声が聞こえる。すぐ外だ。広い庭に一体どれほどの虫の人生があるのだろう。彼らの声以外は静かすぎる田舎の夜。電灯もほとんどなく星がよく見える。 スポットライトに憧れつつも、勉強机に付属の白い蛍光灯で本を照らす。部屋の電気も明るい。大量に鳴いてはいるが、秋の虫の声くらいでは読書の邪魔にはならない。24時35分。明日は休みだ。1時まで読もう。もっと読み進めたって良い。 気怠い純文学を読んでいた。私の好みだ。言葉選びにセンスを感じるのが心地良い。 ここがもしかするとこの物語の山場か、というところに差し掛かったところ、外で何かが倒れる音がした。夜中には全く相応しくないほどには騒がしさを含んだ音だった。感覚としては、梯子を倒したような音。 私は驚き、音がした庭の方向に面する窓を見た。心臓が鳴っている。猫が何か、それこそ梯子か何かを倒してしまったのだろうか。この辺りは野良猫も多い。広い庭にはいろいろなものが置いてあり、梯子もあったはずだ。 私は気にせず本に視線を戻した。24時49分。 先程まで読んでいた行を探す——。 ガラガラガシャーン! ビクッとして窓を見る。先程よりものすごい音がした。窓の外を見ようかと立ち上がり、真っ暗で何も見えないことに気付きやめた。恐怖もあった。 連休中、実家に来ていた。姉も一人暮らしで家にはおらず、父親も出張で、今この家には母親と私しかいなかった。両親(今は母親だけが寝ている)寝室は一階にある。彼女はこの物音でも起きてないのだろうか。その可能性は大いにあった。母親は睡眠に関してはそういう人だった。 何にしても、理解できないものの怖さに直面した今、1人ではないことにほっとした。私は息を潜めて耳をそば立てた。何も聞こえない。何も聞こえない?虫ももうこの時間になったら寝るのだろうか???あまりに雑な自分の思考を否定する間もなく、私は全身を硬直させることになった。今度は確かに家の中で物音がしたのだ。ガタン、という音だったが、何の音か想像ができない。何の音にも聞こえたし、驚きと不安と恐怖で思考がうまく働かなかった。目も脳も冴えてしまったため、深夜で眠いから、疲れているから、という理由はそこにはなかった。私は再び息を潜めた。一旦、一階に何か飲み物でも飲みに行こう。20代後半にもなって恥ずかしくもあるが、今は一度母親の近くに行きたかった。一人でいるには、恐怖が胸の中で増え過ぎていた。ガタン。また音がした。なになになに?なに?なに?むしろ母親が起きているのか、それとも風(は有り得ないが)等で物がひとりでに音を立ててしまっているのかもしれない——。 ガタンッ。ほら。絶対何か——何かわからないけれど何か——が反復運動し、謎の音が発生しているのだ。私は6割ホッとしてなんとなくトイレに行こうと部屋のドアを開けた。 声が出なかった。人は驚きすぎると声が出せないというのは本当だ。 目の前に男が立っていた。目はまっすぐに私を見ている。風貌はホームレスにしか見えない。髪は長く、チリチリで、髭も伸びていて、着ているものはボロボロで、というのは本当に一瞬にも見たない私の視神経の処理と脳への伝達で、私の意識は、驚き、声は出ないが身体がバッと飛び上がり、叫んだ。今度こそ声が出るはずだった。大きく叫んだのだ。ドアを塞がれ逃げ場がない恐怖。たとえ母親が来てもこちらに利があるのかわからない恐怖。私は叫んだ、はずだったが声が出ない。出ない。出ない、出ない。声帯が震えている感覚がない。音が出てこない。嫌だ。叫ぶ。声にならない。声にならない。 「ぁぁ ああぁゃ」 この世の者とは思えないような声がこれ以上ないくらい無理矢理私から引っ張り出されて、なんとか生き残った瀕死の音が耳に届いた。 顔を上げた私の目からは水が流れた。 白い蛍光灯。明るい部屋。閉まっているドア。虫の声。私は泣いていた。 階段の電気を付け、一階のリビングの電気を付け、母親の部屋までの全ての電気を付け、彼女の部屋の前に行くと、きちんと閉まっていないドアから健康ないびきが聞こえてきた。 私はみぞおちの辺りが温まってきたのがわかった。部屋に戻ると、涙ではない液体が本の上に広がっていた。たまに枕からする癖になるような匂いだった。 時計を持ったうさぎも、縞々の猫もいない。
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