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日が暮れるちょっと前に目覚ましが鳴る、兎太郎の寝起きはとてもいい。
無視していたオーナーに連絡を入れて小言を貰い、メッセージアプリに届いた今晩の予約客を確認した。
「デートだけ3時間、本番あり2時間が一件……と」
夜は長いというのに予約は二件だけ。しけたものだと項垂れた、しかし当日に追加で予約が入る事もあるしと気を取り直して支度をする。特に拘りは無いので熱いシャワーを頭をから浴びほんの少しブランド物を駆使して身綺麗に整えれば仕事に向かう準備は終い、兎太郎はいつもカジュアルスタイルだ。リュックを背負って玄関で靴を履きもたもたしていると、目の前の扉が空いて殆ど不在の一人が帰ってきた。
実に珍しい人物との遭遇に兎太郎は目をぱちぱちとさせた。
「けーと、お帰り」
「……ん、」
「今晩はもう出ないのか?」
「今日はオフ」
「そっか、ゆっくり休めよ」
「……うん」
気怠そうに壁に寄りかかりこちらを見る目はどこか甘えていて、こういうところに皆惹かれるのだろうなと思う。またなと手を振って部屋を出ると外は雨で湿っていた、しかし傘をさすほどでもない。何となく上を見上げると、薄灰色の雲が空を覆い小さな小さな雨粒が顔を打つ。
兎太郎は一件目のデートだけという男と出会う為に指定された場所へと歩き始めた。
さあ仕事と気合を入れて指定時間の15分前には待ち合わせ場所に到着していたというのに、予約を入れた男は現れず予定から既に30分経過した。すっぽかされる事は珍しくない、だから別に気にはしない。どうせどこからか遠巻きにこちらの姿を見定めて、気に入らなかったか何かだろう。兎太郎はスマホを取り出してオーナーに撤収する旨を伝えようとしたその時手元にふと影がかかり、釣られて顔を上げると目の前に肩をいからせた柄の悪いチンピラが立っていたのだ。
「……ーちょ、っと、なに?あんた誰?」
「兄ちゃんが"TAROU"?」
「あ、え、うん、そうだよ」
「ああ、良かった。俺、デートの予約してた」
こんなチンピラみたいな男が出張ホストを予約、しかもデートだけ。遅れてごめんの一言もないチンピラに驚き、礼儀の無さに若干引いて固まっていると男は兎太郎の手からスマホを取り上げた。
「ーーーぁ、」
「ちょっとツラ貸して、聞きたい事があるんすわ」
取り返す間も無くスマホを追いかけた腕を掴まれ、男はへらりと笑って上手く予約出来ててよかったと言う。身の危険を感じて手を振り払おうとすれば、どこから現れたのか横と後ろを仲間と思しき奴らに囲まれた。目の前の男に見下ろされ着いて来いという無言の圧を受け止める、三人がかりで拉致ろうなんて卑怯だがこんな事も初めてではないので驚きはしない。異変に気がついた周りの人々は厄介ごとに巻き込まれない距離で興味本意にこちらを見ている、その視線がやけに鬱陶しかった。抵抗虚しく引き摺られるままに歩き黒塗りの車の後部座席に押し込まれる、両側を挟む様に座られてこれでは滅多な事では逃げられない。
「ねえ、スマホ返してよ」
「それは話し合いが終わってからな」
運転席から身を捻りこちらを見る男はにんまりと笑った。困ったな、次の予約穴空けるかもしれないな、オーナーに怒られるの嫌だな。しかしどうにも逃げられないのだから仕方がない、兎太郎はリュックを腹の前に抱え直し背もたれに身を任せて天井を仰いだ。暫く走った車が辿り着いたのは普通のビル、引きずり降ろされるとエレベーターに放り込まれ3階へと上がった。連れて来られたのは小綺麗なオフィス、そこにいたのはいかにもボスっぽい男。その男を目にした途端後から背中をどんと押されて体勢を崩し、硬い床に肘を打ち付けた。兎太郎にとってこの体は商品だ、無作法な奴らにこうも手荒に扱われると腹が立つ。文句の一つでも言ってやろうと口を開いたけれど、チンピラ男の元気な声に遮られてしまった。
「アニキ、件の男連れて来ました!」
「…ーー件の?」
けれどチンピラ男が意気揚々と報告するも、された方は何の話だと首を傾げている。しかし仰ぎ見たソファに座るこの男、兎太郎には随分と見覚えがあった。
「……ーーーああ!あんた、ケーキの人!!」
「アニキに失礼な口きくんじゃねえ!」
「ーーい!痛ッ!!」
指差してそう言った瞬間、後頭部を平手で叩かれた。
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