襲撃前夜

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 空が黒い幕で覆われ、重苦しい夜がやって来た。俺は静かに建物から外に出て、薄暗い路地を足音を立てず静かに進んでいく。相変わらずこの辺りは埃っぽい。マントを口元まで引き上げる。  しばらくすると暗い世界にぼうっと明かりが灯る。退廃的で官能的な赤い光が辺りを照らし出す。その明かりに導かれるように進めば大通りに出る。  大通りにはガラス張りのショーウィンドウがずらりと並んでいた。光はそのショーウィンドウから漏れ出ている。ガラスの向こうでは肌を見せた女性たちが誘うように踊っている。女性の肌が赤い光を弾き、より艷やかに、艶やかにしている。道行く人々はそれを眺めたり、気に入った女性が見つかれば建物の中へと誘われるように吸い込まれていく。  赤い光が夜を照らす様は非常にケバケバしくて目が痛い。通行人はこの光景に情緒を感じ酔っていくのだろうが、俺には世界が血で染まっているようにしか見えなかった。 「…………。」  大通りの向こう、小さな飾り窓の中。見知った人がいた気がして、俺はとっさに目をそらし逃げるようにその場を去った。  ……目的地は、この歓楽街の向こうだ。 ***  闇に乗じて屋敷の屋根へと登る。今日は満月に近いので姿がバレないよう細心の注意を払わなければ。懐からロックピックを取り出し屋根窓(ドーマー)を開ける。そのまま素早く中へと入った。  目的のものはすぐに見つかった。薄暗い屋根裏部屋の中、倉庫のように乱雑に物が置かれている中でそれはテーブルの上にぞんざいに置かれていた。探す手間が省けたことに少しホッとする。  あれは、元々俺のものだった。ウチの家に昔からあるお守り(チャーム)のようなものだ。金銭的な価値は低い。確かにアクセサリーの形をしているが高価な宝石もなく、細工も特別なところはない。ただの安っぽい指輪だ。だからこそ俺はコレを他人が欲しがる理由が分からなかった。  俺はテーブルに手を伸ばそうとして――暗闇の向こうに誰かいるのが見えた。 「!」  とっさにナイフを抜きつつ後ろへと飛び退く。……うかつだった。夜更けにこんな場所に人がいるとは思わなかったが、確かにしっかり人の有無を確認しなかったのは俺のミスだ。体勢を低くしながら油断なくナイフを構える。 「怖がらないで、私は敵ではありませんわ」  暗い闇の中から緊迫した状況とは不釣り合いな優しく涼やかな声が聞こえてきた。 「(女……?)」  人がいるのも驚きだったが、それが若い女だということも驚きだった。……だが、相手が女だろうと気を抜くことはできない。俺は相手の様子をうかがいつつ、どうにか指輪を盗めないか隙きを窺った。  女はゆっくりと動きテーブルへと近づいた。屋根窓から差し込む月明かりが女のドレスの裾を照らす。ほつれもなく、上等な生地だ。どこかの令嬢? 治安の悪いスラムに近いボロ屋敷の中に? 護衛もつけず一人で? ……ありえない。あまりにも怪しすぎる。  女は俺を気にする様子もなくテーブルの上の指輪を手にとった。細い滑らかな指だ。傷一つない。労働など知らない手だった。ますます怪しい。俺は更に警戒を強めた。  女の手からどうやって指輪を奪うか……。周りを再度確認する。……闇の中に他の人の気配はない。扉の向こうも、下の階からも人の気配は感じられない。ここには俺と女の二人しかいなさそうだ。なら、隙きを見て襲ってしまえばいい。細い女一人どうにでもできる筈だ。あとは闇夜に紛れてうまく逃げるだけ。大丈夫、何も問題はない。  女が後ろを向いた瞬間がチャンスだ。俺は息を潜めてその瞬間が来るのを待った。しかし、女はあろうことか指輪を持ったままこちらへ振り向いた。コツコツ、硬い板を叩く音が近づいてくる。ドクドクと、脈が早くなっていく。 「…………。」  月明かりの中、ぼうっと女の姿が浮かび上がった。色素の薄い髪。色素の薄い肌。色素の薄い目。淡い色のドレスを纏った女はどこか儚げで今にも消えてしまいそうだった。  儚げな女は俺を見ると優しく微笑んだ。思わずギクリとする。体が金縛りにあったように動かなくなった。  女は俺の傍まで来ると、俺と目線を合わせるかのようにその場にしゃがみこみ、そのままこちらに手を差し出した。 「これを、持っていってほしいのです」 「……!?」  差し出された指輪をみて、今度こそ俺は固まった。確かに、これは俺にとって大事なものだ。盗んでまで手に入れたいものだ。だがそれは、相手も同じなはずだ。金銭的な価値は低く普通の人間は欲しがりもしないものだが――コイツは別だ。俺から奪ったコイツらは指輪を奪われてはいけないのだ。そして同様に指輪を持っているとバレてもいけないのだ。だからこそこの指輪はこんな辺鄙なところに無造作に置かれている。  指輪を俺が手にするということがどういうことか分かっていないはずはない。なのに微笑みながら指輪を差し出す女が理解できなかった。何かの罠にしか見えず、俺は動くことができなかった。  返事もせず微動だにしない俺に、女は少し困ったように微笑んだ。その笑みを見てまた体動かなくなる。思考が乱される。 「――!?」  気づけば暖かいものが俺の手を包んでいた。いつの間にか女がナイフを持っていない手を握っている。細い手だ。握れば折れてしまいそうな程にか細い手だ。細い手が俺の手のひらを上に向け、そのまま手の中に指輪を握らせる。細い指が、俺の無骨な指に絡まる。 「私は何も見ていません。この夜、ここでは何も起きなかった。私は家で眠っていて、あなたもここへは来なかった」 「……な、ぜ」  喉から絞り出した声は石を擦り合わせたようにひび割れていた。正しい音になったかも怪しい声だが女はちゃんと聞こえたらしい。 「私も、同じ気持ちだからです」  そう言って女は笑った。月明かりに溶けてしまいそうな、儚い笑みだった。 「…………。」  ――復讐相手の娘は、何よりも美しかった。 ***  静かな夜が明けた次の日。都中が恐ろしい事件に恐怖で震え上がった。  ある屋敷が襲撃されたのだ。襲撃者はマルク・ド・エティエヴァン。エティエヴァン家の正当な後継者だった。  今のエティエヴァン家を差配していたのはギヨームという男だった。表向きには後継者のいないエティエヴァン家を守るためだとしていたが、この男は当主を追い落とし嫡男を殺して乗っ取ったのだ。  エティエヴァン家の当主として好き勝手振る舞っていたギヨームはマルクの手により殺された。その他ギヨームに従っていたもの全てが無残に殺された。屋敷の中は死体で溢れかえっていたという。その話を聞いた住民たちは震え上がり「血の惨劇」「残虐の復讐者」など好き勝手囃し立てたが、誰もマルクの行いを非難することはなかった。  あまりにも酷い事件だったが、奇妙なことに彼の家族や使用人など身分関係なく全て殺されていたのにも関わらず――彼の一人娘であるカトリーヌの死体だけは、どこにもなかったという。
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