最後に決めるのは自分

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最後に決めるのは自分

 元禄十五年十二月十四日、草木も雪で眠れぬ丑三つ時のこと。隅田川がちらつく細雪を鏡写しにし、冷たくも輝くその美しさに心奪われる者がいた。名は大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしかつ)。彼は浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の家来の立場にあった男で、今は浪人の身である。 (元)赤穂藩主・浅野内匠頭は去ること元禄十三年三月十四日、江戸城殿中松之廊下にて吉良上野介(きらこうずけのすけ)に刃傷沙汰を起こしてしまう。朝廷からの勅使の接待中の凶行であった為、時の将軍・徳川綱吉は勅使の前で恥をかかされ怒髪天を突く程の大激怒、浅野内匠頭は即日切腹を命じられ切腹、赤穂藩も改易され、城も米も何もかもを召し上げられてしまった。それに対して吉良上野介は一切のお咎めなし。むしろ、綱吉から傷を心配される程であった。  浅野家家臣達はそれに反発、筆頭家老にあった内蔵助(くらのすけ)を中心に対応を協議、この時点では浅野内匠頭の弟である浅野大学を中心としたお家再興の目も残されていたために、浅野家家臣達は赤穂藩に対する処分を受け入れる。 しかし、浅野大学は蟄居閉門が決まり広島の浅野宗家預かりとなってしまった。つまり、お家再興の芽が潰されたのである。 浅野家家臣達は吉良上野介に対して逆恨みの炎を燃やし、主君の仇討ちをする決意を固めたのだった。十二月十四日、吉良上野介は茶会のために確実に屋敷にいると言う情報を得た浅野家家臣達はその日に討ち入りをし、吉良上野介の首を()ることに決めた。  今日は討ち入り前夜の決起集会。浅野家家臣こと、赤穂四十七士は両国の蕎麦屋の饂飩屋久兵衛にて蕎麦を啜り、英気を養うのであった。 内蔵助は上座で浮かない顔をしながら蕎麦を啜っていた。垂れ味噌の甘辛いつゆに蕎麦を絡ませてズルズルと舌鼓を打つ皆の顔は決意に満ちており、とてもではないが、仇を討った後の死(切腹)を覚悟しているようには思えない。 内蔵助はそんな彼らを見て「仇討ち、早まったかもしれない」と後悔をし始めていた。
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