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汚れアイ 1
1
家は
貧乏この上なかった。
母ちゃんはいつも泣いていて、父ちゃんはいつも母ちゃんを殴ってた。
俺と3つ離れた弟は、気がついたら父ちゃんごと、母ちゃんに捨てられていた。
そんな幼少期の傷を
離れて暮らす母ちゃんは……
今も尚、抉り続けてくる。
『らっしゃいませぇー』
俺、幸田天馬(コウダテンマ)が大学に入ってすぐの春。
耳に心地良い声をした居酒屋店員に出会った。
居心地の悪い仲間との会話とは大違いで、その声が聞きたくて何となく一人でもその店に通うようになった。
店員の名前は泉圭介(いずみケイスケ)。店長と名札に書かれていて、様子を見ている限り、実質店のTOPなんじゃないかと思う。
フランクにも過ぎるチャラさは店員にも常連客にも同じで、彼はとても自然に人の懐に入り込むのが上手だった。
何度目かの来店で、俺はグラスを割ってしまう。
慌てて駆け付けたのはイケメン店長の圭介さんで、俺はその日
完全に恋に落ちた。
『大丈夫?怪我してない?』
「ごめんなさい」
グラスの破片を拾おうとする俺の手首を掴んでニッコリ微笑んだ圭介さん。
『怪我すると危ないから。触らないで大丈夫だよ。』
優しくて、明るい圭介さんに凄く惹かれて、胸がキュンキュンしていた。
俺はゲイで
男が好きだ。
ただ、それを友達にはカミングアウトしていない。
そんな怖い事は
出来ない。
カミングアウトの先に待つ、好奇の目に晒される自分を想像すると
自分の足はしっかり竦んでしまうからだ。
そんな俺が、店長の働く居酒屋で面接を受け、一緒に働くようになって、彼に大切な人が居る事を知った時は、この世の終わりかと思った。
最後には怖い職業だという事が隠し切れない二人組が店長の恋人である雪乃さんを連れて来た時、正直気が滅入りそうだった。あ、確か一人は昨日の夜に話した…ツバメ…あぁ、多分そんな珍しい名前の人だった。
店長が意味深に有能な医者だって言ってたっけ。
俺がちょっかいを出していたのが悪いんだけど…店長の恋人本人から釘を刺されたこの日は流石に堪えたな。
"圭介さんは俺のだから、ごめんね"
少しすまなそうに呟いたのが印象的で、素敵な人なのは嫌でも良く伝わった。
店長に合わせて早番にしておいて良かった。
あんな二人をいつまでも見せつけられちゃ堪らない。
俺はお盆を布巾で拭きながらため息を吐いた。
そうしたら、店長がやって来てあの雪乃さんを連れて来た客のテーブルにビールを持って行くようにと頼まれた。
店長の傍らには雪乃さんがぐったり酔い潰れてぶら下がっている。
良い気なもんだよな…彼氏の腕の中でぐうぐう寝ちゃってさ…。
『天馬、頼むな』
「あ、はい…」
ビールサーバーのハンドルを下げながらジョッキを満たす。
白い泡がフワフワと揺れるジョッキを片手にテーブルに向かった。
「お待たせしました」
愛想良くしようと努めながらも、挫けた心のせいか、どうしてもトゲトゲしてしまう。
『可愛い顔が台無しだな』
燕さんはニヤリと俺に笑いかけた。
「可愛いくないんで…」
『圭介が好き?』
「…悪いですか?」
『見る目あるな、おまえ』
「え?」
俺は燕さんの言葉に驚いて弾かれたように俯いていた顔を上げた。
『いや…あ!そうだ、天ちゃんこの後予定は?』
大人の色気みたいなもんがプンプン匂うと思ったのは気のせいだろうか。
急にチャラいオーラがこの人を包んで、どっちが本当のこの人なのか分からなくなった。
「予定なんてありませんけど…振られてますからね、俺」
『ハハ、落ち込むなよ。ちょっと付き合わないか?話したい事があるんだ』
燕さんはジョッキの表面に付いた水滴を長い人差し指で撫でた。
白くてゴツゴツした指に確かな色気を感じてしまう。
「話したい事…って…」
『ま、付き合えよ。待ってる』
燕さんは上等な血統書付きの犬のような佇まいで俺に微笑んだ。
俺とはそもそも住む世界が違って見えた。
黒い艶のあるジャケットも、高そうな腕時計に、長い手足も。
おまけに男のくせに整った顔がカッコいいというより美しいって言葉が似合う気がする。
店長みたいな柔らかな優しさを感じない。
奥にある…氷みたいな冷たい壁。
俺は無言で席を離れた。
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