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汚れアイ 8
8
仕事終わりの明け方。
全くついてない…雨だ。
リュックを前に抱えて溜息を落とした。
燕さんとホテルから店に来たせいで傘を持ってなかった。
後から出てくるスタッフが次々に傘をさして店を後にする。
俺はますます憂鬱になっていた。
小学生に入ってすぐ…雨の日だ。
まだ慣れない子供達を母親という名前の人達が傘を片手に校門に迎えに現れていた。
皆大きなランドセルを揺らし、水溜りを超え、色とりどりの長靴で母親の元へ駆けていく。
一つの大きな傘と…小さな小さな傘が隣り合わせ。
俺は、長靴を履いてなかった。
俺は、傘を持って来なかった。
そして…俺には母ちゃんのお迎えは来なかった。
"雨、雨、降れ降れ、母さんが
じゃのめで お迎い 嬉しいな…"
誰かが横を通り過ぎながら歌っていた。
俺はあの歌が…
好きじゃない。
はぁ…とまた重く溜息を吐き、止みそうにもない空を見上げた。
そうしたら、後ろの扉が開き、店長が出て来て、軒下の俺の隣に並んだ。
「雨…結構降ってんな」
「ぁ…はい」
「天馬、傘は?」
「あぁ…それが、忘れちゃって…」
駅まではどうしたって傘がいる量の雨に途方に暮れていた。
店長に燕さんの事なんて聞いてしまった後なだけに気まずく、出来れば早々に退散したかった。
「これ使えよ」
差し出されたグリーンのチェックの傘は有名なブランドの傘だった。
「大丈夫ですっ!店長傘なくなるじゃないですか」
「俺は店にあるヤツ使うから。そんな泣きそうな顔で空見てても、今日は一日雨だから止まないぞ」
こういうところだ。
俺がただ…
空を見ていただけに過ぎないのに、店長はまるで心が見えてるみたいに優しくする。
手首のバングルを撫でて、差し出された傘を受け取った。
「なんか…すみません」
「随分しおらしいな。燕さんとなんかあったか?」
俺は傘の柄を握りカッと顔面が熱くなるのを感じた。
「なっ!何にもっ」
「ハハ…そんな怒んなよ。」
ちょっと苦笑いに近い笑顔でクシャっと俺の髪を撫でる店長。
あったかくて…俺はこの手が
欲しかったのに…
キラキラ光る指輪が、随分と目障りで、それでいて届かない事をしっかり警告してくる。
虫除けにしちゃ威力が尋常じゃなかった。
そして、燕さんが強く言い放った"雪乃には圭介が必要なんだ。"って言葉がトドメを刺す。
「ほら…また泣きそうだ」
髪を撫でた手が肩にかかる。
「そんな事…ないです」
俯いたら泣いてしまいそうだった。
いっそバイト…辞めようかな。
きゅっと結んだ唇。
優しい声で店長が言った。
「そうだ…燕さんさぁ…」
「ぇ?」
突然出た燕さんの名前に顔が跳ね上がる。
バチッと目が合うと、驚いた顔をした店長がクスッと笑った。
「あの人…優しいよ。」
「…な…何ですかソレ…」
パッと慌てて俯く。
「おまえ、今日聞いて来ただろ?どんな人だって…雪乃がね…良く言ってる。燕さんは優しくて綺麗でしょって」
雪乃…
店長の口から出る愛しい人の名前は、特別優しく響いた。
「確かに…綺麗ですよね、顔…」
「ハハ!本人はそれ気にしてんだぜ。贅沢な悩みだよな。」
笑う店長のおかげか、肩の力が抜けて行く。
「気にしてるんだぁ…今度会ったらそれネタにイジってみよ」
「ハハ、そうして。あの人あぁ見えて寂しがりやだから、天馬が負担じゃないならたまに付き合ってやってよ。」
「寂しがりや?ですか?」
俺が不思議に思って問いかける。
燕さんは店長より年上だし、色々世話を焼いてるのは燕さんの方だと思ったからだ。
店長は苦笑いしながらポリポリ頭を掻き呟いた。
「優しい人だから…どっかで絶対苦しんでる筈なんだけど…ホラ、大人になると我慢ばっかり覚えるだろ?俺も燕さんも年だしさ、色々溜め込むっつーか…」
「何年寄りみたいな事言ってんですか…俺なんかじゃ…力になれないっすよ」
胸元に抱いたリュックをギュッと引き寄せ顔を埋める。
「若さは最大の武器だぜ。」
店長は笑いながらポンポンと背中を叩く。その勢いで、ヨロッと一歩前に出る。
その爪先を見て、何かが動いた気がした。
寂しい顔…
「…たまになら…遊んであげますよ。店長のお願いなら仕方ないです。」
店長はポケットに手を入れて、少し猫背気味に笑った。
凄く…嬉しそうに。
「ハハ、頼んだ!」
「じゃ…傘、お借りします」
「おぅ!気をつけて帰れよ」
リュックを背負い直し、傘を開きゆっくり振り返り手を振った。
大好きな笑顔が見えて、軽く手をあげて俺を見送ってくれる。
店長にとっても、雪乃さんにとっても…燕さんは大切な人なのが伝わって来て、俺はそれをあの人に伝えたいと思っていた。
ギュッとリュックの肩紐を握って、駅を目指す。
寂しい顔…
燕さん…一人じゃないよ。
どうしてそんな…どうしょうもない色に染まってんの…。
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