加須の場合

1/3

0人が本棚に入れています
本棚に追加
/20ページ

加須の場合

夏祭りは最高だ。 去年までの俺は祭りのモブに過ぎなかった。 でも今年は違う。 だって彼女がいるから。 『花火を見に行こう』 そう誘ってきたのは彼女だった。 『可愛い浴衣買っちゃったんだ』 そう言われたのは大学の講義室。 場所を選べ。 俺は心の中でそう突っ込んだ。 火照る顔と高鳴る心音が、 静かな講義室で際立って感じる。 友だちは言う— 『水着買っちゃった』 てパワーワードだよな—と。 俺もそう思っていた。 でも、もう一個あった。 —浴衣買っちゃった— 俺は自分の性癖を悟る。 非日常を思わせる彼女の装いを思い浮かべる。 『見えない美学もだんぜんあり』だ。 そして今。 目の前に浴衣の彼女がいる。 白地に水色の大きな花が散っている。 「変?」 何も言わずにいる俺に、 彼女は不安そうだ。 やばい、なんか言わなきゃ。 「…い、いや、かわいすぎてその…」 俺の言葉に彼女の顔に笑顔が広がる。 俺の腕に腕を絡めて、 「うれし!」 と無邪気に笑う。 りんご飴、宝石すくい、たこ焼き、サイダー…。 毎年見ている屋台も、 彼女と一緒だと全部が去年と違って見える。 「もう花火始まるね」 観覧スペースに移動して、その打ち上げを待つ。 普段見上げることもない濃紺の夜空を、 彼女と肩を並べて見上げる。 ヒュー…ドン! 「わぁ…」 きれいに空に散る火花。 降ってきそうなその光の一つ一つ。 その光が照らす地上に視線を移す。 そこには満面の笑顔でほほを紅潮させる彼女。 普段より際立つ体のライン。 襟の合わせから見え隠れする白い肌。 大学生の女子は見た目も中身もとても大人びている。 大学生の男子は外見はどうあれ中身はくそガキだ。 そう思い知らされる。 花火なんかより、その合わせの中身が気になってしまっているから。 ねぇ、浴衣の時って下着はどうしてるの? そのメイク、いつもと全然違うよね? アップにした髪型は夏の暑さのせい? 男は気づきもしないだろう。 いつもと同じようにふるまう女の、 いつもと全然違うこの状況は、 全部男を誘うために計算されつくしたものだって。 いや、気づいたとしてもあらがえない。 花が蜜を運ばせるために、 虫たちを誘うように、 それが自然の摂理だから。 いつの間にか最後の花火があがる。 まばゆいほどの連投の花火。 それが終わってアナウンスが流れる。 「…加須くん?」 不思議そうに俺を見るその瞳も、 俺の名前を呼ぶグロッシーに艶めくその唇も、 全部俺を誘い込むための蜜。 「…かえろ」 そう呟くと、少し戸惑った後、 「うん」と笑ってうなずく。 俺は彼女の手を掴んで、 少し早く歩く。 俺の部屋まであと少し。 全然焦る必要はないし、 むしろ彼女の足元を気遣わなきゃなのに…。 「加須くん、ちょっと…」 「あ、ごめん」 「…、ううん。」 立ち止まって振り返って困っている俺に。 「大丈夫、…焦らなくても」 「…っ!」 彼女はわざと体を寄せて、 耳元でそうささやいた。
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加