第10話 新生児期の終わり

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第10話 新生児期の終わり

 アキトがやってきて10日が過ぎた。  ――何か聞きたいことある?(某掲示板風に)  えっと、まず、授乳はまだ四時間おきです。でも昨夜は一度もぐずらなくて、ミルクを飲ませたらすうっと寝ました。おかげで僕も駿も安眠です。  一日に何度も寝返りをうつなぁと思っていたら、ころころ布団の上を転がるようになり、昨日はついにひとりで座れるようになりました。  今? 今はベッドの柵のなかであんよパタパタ、おててにぎにぎやってるよ。  そう、DERのロボ赤ちゃんは「発達」するのだ! 人間の子供とはちがう風に、だけど。  説明はもちろん聞いていた。つまりこういうことらしい――ロボ赤ちゃんのハードボディにはいろんな機能が備わっているけれど、ゲノムエンジンから生まれたばかりのソフトウェア――学習型AIは、横になっておっぱいが欲しくなったら泣くように命令することしかできなかった。学習型AI、つまりアキトは、ボディを制御する機構を理解できていなかったから。  でも、これも最初のうちだけだ。アキトは僕らの家で生まれてからずっと、周囲の環境をセンサーで捉え、僕や駿の言葉を聞き、自分の体そのものについても学びつづけて、時間が経つごとにやれることが増えているのだ。人間の赤ちゃんと同じように。  DERの説明では、安全性の観点から、二週間のプログラム期間中「立って歩く」制御だけはロックされている。だからアキトは立ち上がることはできないが、ベッドの中では毎日ころころと忙しい。うつ伏せになったり、手をのばしたり、体をくねらせたり、まるで人間の赤ん坊みたいに動く。そのあいだもアキトの脳(ロボットの体とDERのクラウド、両方にある)はリアルの環境から何かを学習し続けている。  そう思うと、アキトにミルクをあげることひとつとっても、その意味が僕のなかですこし違うものになってくる。  もともと僕と駿にとってこの新生児育児体験プログラムは、一日に何度もおむつを替えたり、おっぱいをあげたり、着替えさせたり沐浴や清拭をしたりといった「赤ちゃんのいるおうち疑似体験」のはずだった。ところが、あうあうと意味不明の音声を発しながらベッドでパタパタしているロボットのアキトにとっては、それは疑似体験ではなく本物の「成長」なのだ。  そう思うとまるで世界がぐるりと回るみたいな不思議な感じがあった。僕らにとってはお人形遊びみたいなものでも、お人形は僕らやこの家を必要としているなんて。  だからこそ僕は、アキトとすごすこの時間はただの疑似体験ではないのだと、肌で感じるようになったのだろう。  アキトはもちろん人間じゃない。見た目も銀色だし、頭のてっぺんに植えられている毛も銀色だ。でもMRモードでお乳をのませながら、アキトが僕や駿の声を聞いて手足を動かしたり、目をくるっとさせたり、口を尖らせたりする様子をみていると、本物の赤ちゃんを世話している錯覚に陥りそうだ。  もっともこれが本当にヒトの赤ん坊だったらもっとずっと大変なんだ、と思うことも何度もある。アキトの夜泣きが数日続いただけで僕と駿はぐったりだった。赤ちゃんを育てるってほんとに大変だし、すごいことだ。  そして迎えた11日目の朝。アキトはついに、言葉を喋りました!!!  ロボ赤ちゃんが喋れるようになるのは、ハードウェアボディに内蔵された音声制御方法をAIが理解したときだ。それ以前のアキトは僕らに何かを伝えるために、泣くほかに、手足や首を振るといった動きで示していた。ちなみに本物の赤ん坊とちがいロボ赤ちゃんの首は据わっているので大丈夫なのである。  ところが本日、僕が朝ごはんを作っているとき、リビングで駿が大声をあげたのだ。 「え? アキト? なに?」 「どうしたの?」  僕は卵をフライパンから皿へ移した。 「アキト、もうお腹空いたって?」  駿の返事が聞こえない。僕は皿をテーブルに置き、コーヒーを入れる。 「駿、ご飯できたよ」  また返事がない。冷蔵庫からマーガリンを出してふりむくと、駿がアキトを抱っこして立っている。アキトの目はぱっちり開いていた。 「ちひ」  声がきこえた。アキトの顔から。  え? 「アキト、ちひじゃない。千尋」 「ちひろ」 「そうそう、よくいえたね」 「しゅん」 「そう、俺は駿。これから朝ごはんだ」  事態を飲みこむまでに二秒くらいかかった。 「アキト、喋ってる!」 「あきと、しゃべってる」  アキトがくりかえす。くりかえしてる! 「えええ、駿、これいつから? 今?」 「うん。服着てたらいきなり喋りはじめた」 「第一声は?」  駿は顔をしかめた。 「よくわからなかった。声がきこえたからテレビでもついてるのかと思ったら、アキトで」 「あおです」  唐突にアキトがいった。 「あおです」 「青?」  僕と駿は顔を見合わせる。 「何が青?」 「しゅんがあおです」  僕はアキトを抱っこした駿をみつめ、アキトが水色のワイシャツにぐいっと頭を押し付けるのをみつめた。 「駿が青って、これ?」 「しゅんはあお。いつもあお」  そういえば駿は水色のワイシャツをたくさん持っている。 「アキト、これは青じゃなくて水色だよ」  アキトの目の色がすこし明るくなった。 「しゅんはみずいろ!」 「いや、俺が水色なんじゃなくて、服が……」 「ちひろはいろ……いろいろ!」  あ、ハハハ……僕は苦笑する。駿とちがって在宅ワークの僕の服はTシャツやパーカーばかり、どちらかといえばカラフルだ。今日のTシャツは黄色に濃い青でクジラの絵が描いてある。手に持っているマーガリンの箱と同じ組み合わせだ。 「駿、朝ごはん食べないと遅れるよ」 「ああ、うん」 「ごはん、食べます」  駿に抱っこされたままでアキトがいった。 「アキトもごはん食べる?」 「アキトもごはん食べます」  思わず「ちょっと待てない?」といいそうになったとたん、アキトの口がふうぇっと開いた。あっ、これはやばい――僕も駿も、何がきっかけでアキトがむずかるかやっと理解するようになっている。 「うんうん、アキトもごはんだね。こっちおいで」  駿が朝ごはんを食べている横で僕はアキトを抱っこしてミルクを飲ませた。話せるようになったといってもアキトはまだ赤ちゃんだ。  このあとの三日間は、それまでより格段に時間が経つのが早かった。最初のうち、アキトは僕や駿の言葉をそのままくりかえしたり、ミルクの時間になると「お腹がすいた」とか「アキトのミルク」といって催促するだけだったが、次の日には「これはなに」「なにをしているの」「どうして」「どうやって」を連発するようになった。  こうなると外見は赤ちゃんでも中身は幼稚園児くらいの印象である。オンラインの打ち合わせがない日だったからよかったけれど、アキトの相手をしているうちに仕事の時間が削られてしまう。ミルクを飲ませると静かになるので、僕はその隙になんとか作業を片づけた。――幼児と暮らしながら在宅で仕事している人って、どんだけ天才なんだろう? と思いながら。 「このプログラム、参加してよかったと思うよ」  その夜、晩ごはんを食べながら僕はしみじみ、駿にそう話した。明日がプログラムの最終日で、DERはアキトを引き取りにやってくる。 「楽しかったし、勉強になったし、子供の話とかさ、アキトが来る前にいろいろあったけど、ちょっとショック療法って感じもあったし……」 「アキトはこのあとどうなるんだろうな」  箸でさんまをつつきながら駿がいう。 「DERでさらにAIの訓練をするんだろう? いずれはあのレインボーカフェの人みたいにVREで会ったりできるのか」  駿はいつも前向きだ。でも実をいえば僕は、明日の別れのことを考えて少し憂鬱になっていた。 「アキトはこの先も僕らのことを覚えていられるのかな?」 「覚えているだろう」  いつもながら駿の答えは自信たっぷりだ。 「なんで? ほら、AIってメモリをリセットできるわけだし、学習結果を消してしまうことだって……」 「だけどDERは、他とは違う個性や能力をもったAIを作るためにわざわざこんな手のかかるプログラムをやってるわけだろう? そんな簡単に消すわけない」 「そうかな……」 「大丈夫だって。アキトは絶対忘れないよ」  その夜のアキトは昼間とうってかわって静かで、夜中のミルクも要求しなかった。僕らはひさしぶりに朝までぐっすり眠った。ふたりとも仕事は休みだったけど、午前中にDERからアキトを引き取りに担当者が来るのだ。アキトの世話は駿にまかせ、僕は慌ただしく家を片づける。 「しゅん、お部屋は四角いね」 「そうだな」 「どうして丸じゃないの?」 「え? 丸じゃない理由? それはほら、板がまっすぐだから」 「丸い板を作ればいい」 「丸い板を作るのは大変なんだ。それに四角い方が掃除しやすいから」 「ちがう。丸いほうがゴミとれる」  膝に抱えたアキトと真面目な顔で駿が話している図はシュールで可笑しい。にやにやしているうちにピンポンが鳴った。ああ、ついに来てしまった。  ドアをあけると、最初の日にアキトを連れてきた斉藤さんと田崎さん、それにもうひとり、黒いアタッシュケースを持ったやたらと背の高い男性がいる。 「久保さん、杉浦さん。こんにちは」  駿はアキトを抱っこしたまま玄関へやってきた。 「どうぞ、おあがりください。えっと、そちらは?」 「当社が保有するサイバネティクス総合研究所の宮島です。アキト君の状態を確認するために同行しました」  宮島さんはひょろりと細く、駿よりも背が高かった。アキトは目をぱっちりあけ、マンションにあらわれた大人たちをみつめる。 「ああ、大きくなりましたね」  外見には何の変わりもないはずなのに、田崎さんが嬉しそうにいった。 「それではベッドに寝かせてください」  アキトのベッドは掃除のついでにリビングへ移動させてあった。駿がアキトを寝かせると「お昼寝する?」とアキトがいう。 「ええ、お昼寝するの。いいかしら」  田崎さんがベッドの上に乗りだして、アキトの首のあたりを触り、宮島さんがアタッシュケースをひらいて足を折り曲げると、ベッドの下にケーブルをつないだ。枕のあたりで淡いライトが光ると、アキトのまぶたがおり、動かなくなった。 「お二人とも〈ヘルメス〉をつけていただいていいですか?」 「は、はい」  僕と駿はいそいでVRデバイスを装着する。前回のようにMRモードにするのかと思いきや「表示されたアドレスへ行ってください」と声がきこえた。  僕らの前には淡いピンクや水色など、パステルカラーのドットとストライプで彩られた通路がひらけていた。僕と駿はゲスト用のアバターらしい、無個性なスタイルでその場に立っていた。  いつのまにか僕らの横に田崎さんと斉藤さんが立っている。ふたりは現実の人物とほぼ同じ姿だ。宮島さんという人はどこだろう。空中には方向を示す矢印がふわふわ浮いていて、僕らの歩調にあわせて動いていく。色あいこそ遊園地のようだが、通路自体は殺風景で、オフィスの廊下みたいだった。すこし歩くと矢印が止まった。  その先にあったのは、これもパステルカラーが散りばめられた丸い部屋だ。まぎれもないアキトのベッドが真ん中に置かれている。横に白衣を着た宮島さんが立っていた。 「宮島さん、どうですか?」と田崎さんがたずねた。 「今終了した。問題ない」 「それでは新生児モードはこれでおしまいですね」 「ああ。これからゲートモードへ移行する」  ゲートモードって、何? 「宮島さん、その前に育児体験プログラムを終了しないと――杉浦さん、久保さん」  田崎さんが僕と駿に向きなおった。 「このたびは当社の新生児育児体験プログラムにご参加いただき、ありがとうございました」  田崎さんは僕らに向かって深々とお辞儀し、一瞬遅れて斉藤さんも続いた。 「お二人のもとで生まれたアキトは、この二週間のあいだに最初の発達段階を終えることができました。こちらがプログラム修了証となります。また、お手数ですが、一緒に送付したアンケートにのちほどご記入ください」  封筒を背負った紙飛行機がさっと宙を舞う。メールが送られたのだ。  ああ、これで終わりか。 「アキトにはこれからも会えますか?」  僕はあわててたずねた。 「その件ですが、これからご提案がありまして――」  斉藤さんが何かいいかけた。だが宮島さんがいきなり「もういいか?」と割り込んできて、早口でいった。「これから『アキト』の新生児モードを終了し、ゲートモードへ移行する」 「ゲートモード?」  僕のつぶやきはこの空間では聞こえなかったのかもしれない。というのも、宮島さんはもう空中に指を走らせ、魔法使いめいたしぐさをしていたからだ。みえないキーボードを叩くマッドサイエンティストといった様子で、手を止めると宙に向かって重々しくいう。 「いまハードウェアボディのリミッターを解除した。これでアキトはゲートワールドに入る資格を得た」 「実は杉浦さん、久保さん」  宮島さんの言葉にかぶせるように、斉藤さんがさっきの話の続きをはじめた。 「お二人のもとで生まれた自律学習型AIのアキトは、これから成長の第二段階へ入ります。実は彼の名付け親(ゴッドファーザー)として、このままお二人にアキトの育成へご協力いただきたいのですが、いかがでしょうか?」
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