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第11話 ヴァーチャル保育園のはじまり
これからもアキトを育てないか、だって? そんなオファー、断るわけがない。
「やります! やりたいです!」
僕はとっさにそういったが、駿はもっと冷静だった。
「具体的には何をするんですか? これまでの育児体験プログラムとはちがうんですよね?」
斉藤さんが「ご説明します。まずはこちらへ」といって、アキトのベッドの先へ進む。そこにはいつのまにかパステルカラーの積み木でできたような門が立っていて、きっちり閉じた扉で隔てられている。
「この先がゲートワールドです」
斉藤さんの手が触れると扉の一部が透明になった。
「見えますか?」
僕と駿は交互にのぞきこみ、顔をみあわせた。駿も僕と同じことを思ったにちがいない――見たものが信じられなかったのだ。
最初に思ったのは「アキトがたくさんいる」ということだった。でもそれがアキトではないことは、なぜかすぐわかった。
「あの、ここは……もしかして……」
僕は自分がみた光景を表現する言葉を探して、口ごもった。
「はい、この先は通称『保育園』です。申し訳ありませんが、中に入れるのはゲノムエンジンから生まれたAIと育成員だけです」
そうだ、保育園! 僕がいいたかったのはそれだ。
「ゲートモードへ達したアキト君は昼間はここで過ごしますが、夜は体のある現実の世界へ帰ります。お二人にはアキト君がここにいないとき、一緒に生活していただきたいのです」
扉の向こうで好き勝手に遊んでいる――ようにみえた――のは、アキトと同じような銀色の赤ちゃんたちだった。パステルカラーに彩られた様子はちょっとした赤ちゃんの天国という感じ。ではやっぱり、あれはAIの保育園なのだ。
なんだか信じられないような気もしながら、ぼうっとした頭でVRからリアルに戻ると、さっさとリアルに戻った宮島さんがアキトのベビーベッドのどこか、僕らには見えないところを操作していた。無表情で不愛想な雰囲気が本当にマッドサイエンティストに見える。ベッドは眠るアキトを乗せたままウィーンと音を立てて変形し、車輪つきのゆりかごのような形になった。さらに宮島さんが二カ所バーを引くと、今度は前半分がかくかくと変形し、アキトを座らせたままでベビーカースタイルに変わった。
「引き続きアキトの世話をしていただけるなら、今後は育児体験ではなく、ほんとうの育児と同じようなものになるといえます。相手はAIですが、日々成長しますから」
田崎さんが穏やかな声でいった。
「また、いま筐体のリミッターを解除したので、アキト君は今後歩くことも覚えます。動く範囲が広がると注意していただくことも増えますが、そのかわり、深夜にミルクをあげたり、離乳食を作る必要はありません」
「夜泣きも?」
駿がたずね、田崎さんはふふっと笑った。
「ええ、夜泣きはもうありません。あれは育児体験用の特別仕様でした。ただし、こっちが寝たいのに質問攻めにすることはあるかもしれません。今後、当社からは協力費をお支払いします。契約を結んでいただくことになりますが、最初の一カ月はモニタープログラムの参加です。その後、養育員として正式に契約するかどうかを決めていただきます。モニタープログラムに参加されますか?」
僕はもちろんやる気だった。でも駿はどうだろう?
僕らは顔をみあわせた。お互いの気持ちをさぐる感じで。
「どうする、千尋」
「駿が嫌じゃないなら、当然」
で、僕らは声をそろえて答えたのだった。
「参加します」
それから僕と駿とアキト、三人にとって新しい生活スタイルがはじまった。
「今日は綱渡りをやったんだ。最初は何度も落っこちたけど、いい方法をみつけて落ちずに歩けるようになったよ。ちひろは綱渡りできる?」
「むりむり。綱渡りって、ゲートワールドでそんなことできるの?」
「壁の上にダーキーがロープを投げたから、歩いてみたんだ。ぴんと張ったら歩けたんだよ!」
僕はアキトがするすると綱を渡るところを想像し、笑ってしまう。めちゃくちゃ可愛いだろうな。
ベッドから出たアキトの定位置は、食卓テーブルのそばに置いたベビーカーだ。アキトはちょこんとお座りして、僕が晩ごはんを作る方向に顔をむけている。見た目は前と同じ銀色の赤ちゃんだけど、今は自分で歩くことができるし、小さな手で物をつかんだりペンを握ったり、前よりもいろいろなことができるようになった。
VRのゲートワールドから家に、つまりロボットのボディに帰るたび、リアルのボディを使ってアキトにできることは増えていく。でも綱渡りのようなことはできない。『保育園』ですごしているあいだなら、アキトの仮想ボディは現実の機械の体が制約する以上のことができる。でもGERの宮沢さんがいうには、ヴァーチャルの世界でも、何でもすぐにやれるわけじゃないらしい。
幼いAIは、自分が何をするか、何ができるかを、仮想のボディとリアルのボディ両方でひとつひとつ学習するのだ。ゲノムエンジンから生まれたAIは人間とちがって疲れないし、学習ペースを落とすこともない。でも必ずしも効率よく学習するとは限らないし、学習の方法や何を学習するのかも、AIの個性でちがうのだという。
保育園からうちに帰ってきてからも、アキトはリアルのボディの厳密なコントロールを練習している。アキトも他のAIの保育園児も、単にGERが用意したプログラムのセットをこなしているわけじゃないのだ。子供の環境はみんなちがう。家もちがうし、親もちがう。朝ゲートワールドに行ったアキトは、うちにいるあいだどんなことをしているか、他の子供たちに話して、他の子供たちの話も聞く。
モニターに参加してそろそろ一カ月。親としての僕らの役目は、朝と夜、VR保育園からロボットの体に戻ったアキトと一緒に過ごすことくらいで、おむつを替えたり離乳食を作ったりすることはない。だけどアキトが僕やリアルの世界に向ける興味に朝晩つきあうのはけっこう大変だ。ほんとうの子供の子育てじゃないことは百も承知だけれど、毎日のように新しいことができるようになるアキトをみていると「成長」の実感が持てた。
「駿のやつ、今日は遅いな」
僕は鍋をかきまわしながらつぶやく。
「駿は昨日、19時23分に帰ったよ」とアキトがいった。さすがの正確さだ。
「残業してるのかも。最近は少ないんだけどね」
「ざんぎょー?」
「決められた時間より長く働くことだよ。ほら、アキトはいつも17時に保育園から家に戻ってくるだろう? だけどもし、保育園でやりかけたことが17時に終わらなかったらどうする?」
アキトのつぶらな眸がまっすぐ僕をみつめる。
「どうもしない。明日やるから」
「でも、明日はアキトの続きを別の誰かがやることになっていたら? アキトは今日中にそれを終わらせなければならないだろう?」
「どうもしない」
アキトはくりかえした。
「アキトは明日続きをやって、次の誰かはそのあとでやる」
僕は苦笑した。
「うん、あっちじゃそれでいいかもね。でもリアルの世界じゃそうはいかないことがあるんだ」
「どうして? あとにずらせばいい」
「うーん、そうなんだけど……それでもいい場合もあるけど、すごく困ることもある」
「どうして」
僕はいそいで例を考えた。
「たとえばの話だけど、ある薬があって、これを18時までに必要としている人がいる場合だ。僕の仕事は17時までだけど、僕以外に届けられる人がいないから、届けなくちゃいけない。そうしないと、薬を待っている人が死んでしまうかもしれない」
「死んでしまうとどうなるの?」
「いなくなってしまうんだ。この先もずっと、その人はいなくなる。もう何もできなくなる。死んでしまったら取り返しがつかないから、できるだけ死なせちゃいけない」
「し……」
アキトは数秒黙って、それからおもむろにいった。
「死んでも、コピーを出せばいい。アキトは毎日アキトのコピーをとってるから、電気が来なくなっても消えない」
「リアルな生き物はコピーできないんだよ、アキト。これはすごく大事なことだ」
そう答えながらふと、いつかリアルな体もコピーできる日が来るんだろうか、と思った。でも僕が生きているあいだにそんな日がくることはないだろうな。VREにはたしかに僕のアバターや、訪れたワールドデータ、会話記録がログとして残っているかもしれないが、生身の僕がVRで経験したすべてが記録されているわけじゃない。たとえばほら――駿にときめいた感情とか。そういうものはログにはなっていないだろう。
そうだ、アキトは僕が感じるときめきや嬉しさみたいなものを、理解できるんだろうか?
「えっと、だから、明日続きをやるわけにはいかないことをするのが、残業なんだ」
僕は横にそれた考えを放置して、とにかく話をまとめて、同時に鍋の火を止めた。アキトとの会話はときどき思ってもみない方向へ進む。キッチンにいるときは注意散漫になりがちだから、危険だ。もっともアキトは僕よりもガスの火をちゃんと見ている。一度は鍋が吹きこぼれそうなのを警告してくれたこともある。
アキトは保育園でもたくさんお喋りをしているようだ。アキトには「友だち」がいる――保育園で頻繁に接触するAIたち。さっきの話に出た「ダーキー」はあまり聞かない名前だ。「レヴィ」と「サヤカ」の話はよくきく。保育園でアキトたちはリアル環境について、つまりそれぞれのAIが夜を過ごす家庭について話すこともあるらしい。
僕は時計をみる。
「駿、遅いな」
「ねえ、ちひろはアキトのパパなの? ママなの?」
いきなりそんな話が出て、僕はびっくりした。
「なんでそんなことを聞くの?」
「サヤカはお家の人のことを名前じゃなくて『パパ』『ママ』って呼ぶようにいわれたんだって。ちひろみたいにサヤカが帰ったらお家にいてご飯を作ってくれるのがママで、夜お家に帰ってくるのがパパ。でも、パパは男で、ママは女なんだっていうんだ。ちひろはどうなるの?」
「僕は――」
面倒なことになった。でも自分を「ママ」というのは何だか抵抗があった。
「僕はパパだ」
「しゅんは?」
「駿もパパ」
「パパがふたり?」
「そう」
アキトがさらに何かいおうとしたとき、駿が帰ってきた。これ以上質問攻めにされなくてよかったと思いながら、僕は玄関をのぞいた。
「お帰り。遅かったね」
駿は鼻をくんくんさせて「いい匂いがする」といった。
「ビーフシチューだよ。アキトと話しながら待ってたんだ」
「うん」
駿は疲れているようだった。アキトの頭をするっと撫でただけで、何も言わずにリビングを通り抜け、寝室へ着替えに行った。その背中をみてふと、この一カ月、駿よりもアキトとお喋りすることの方が多かったような気がした。アキトがいるとなんとなくえっちも回数が少なくなって、もう二週間くらい、何もしてないし。
考えてみると駿は朝も時間の余裕がなくて、ほとんどアキトと話していない。僕らはふたりでアキトを育てているのに、これはよくないような気がする。
アキトは部屋を暗くすると自動的にスリープモードになる。今夜はアキトは寝室じゃなくて、隣の部屋で寝てもらおう、と僕はきめた。アキトとどんな話をしているのか、もっと駿に知ってもらうべきだと思ったのだ。
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