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第13話 リアルワールドデビュー
あっという間に五月になった。
大人になると時間が経つのを早く感じるというけれど、僕はどちらかといえば、子供の頃は時間が経つのを遅く感じる、という方が当たっている気がする。
たぶん子供の頃、僕はすごく退屈していたのだと思う。といっても、暇だったわけではけっしてない。両親は勉強しろとうるさかったし、マンガ読むとかゲームするとか、勉強以外にやりたいこともあった。それでも退屈していたのは、まだ脳が発達途中の子供だから、常に脳のどこかに余裕があったとか、そういうことだろうか?
それはともかく、今の僕には退屈している暇がない。
「風が気持ちいい! 風が気持ちいい!」
駿の自転車に取り付けたDERギア(チャイルドシート風)からアキトが声をあげている。銀色の肌が日光を受けてしっとり光る。小さな頭には丸い帽子をかぶっている。
僕らは川沿いの自転車専用レーンを並走しているところ。今日は五月一日、僕と駿はゴールデンウイークの連休中だ。アキトと暮らしはじめたのが九月だから、もう八カ月目。
アキトの体は四月にバージョンアップしたばかりだ。自転車に取り付けた外出用シートもその時一緒にGERの斉藤さんが持ってきたものだ。
アキトのサイズはひとまわり大きくなったけれど、見た目はいまだに「赤ちゃん」のままである。でもひとつ、大きな違いがある。これまでのアキトの体には屋外を歩ける装備が備わっていなかった。部屋の中を歩き回ることはできたけれど、つかまるところがない外の地面を歩けるような仕様ではなかった。
だが今度のバージョンアップでは防水機能が加わり、外歩きもできるようになった。斉藤さんの説明によると、アキトの新しい体は触感のような、より人間に近い感覚データを得ることができるという。
防水はたしかにありがたかった。アキトが風呂に入りこむと、よくひやひやしていたからだ。加えて斉藤さんは、触感が発達できない状態で外に出すのは危険だといった。家の中というのは僕らが思っているよりずっと、管理された安全な空間だ、ということらしい。
で、今日は最初の遠出ってことだ。実をいうと僕はすこし不安だった。アキトはリアルワールドをどう思うんだろう?
いまのところ、駿の自転車に座ってごきげんで喋っているから、十分楽しんでいるにちがいない。駿は自転車をこぎながらニヤニヤしている。空はいい感じの薄曇りで暑すぎず寒すぎず、自転車ピクニックにはちょうどいい。
川沿いをしばらく走ったあと、僕らはコイン式の駐輪場に自転車を止めた。駿はアキトのギアを自転車からはずす。外出用に作られたGERのギアはとても機能的で、簡単な操作で肩車タイプのベビーキャリアに変形する。
「ぼくも歩く」
「川原に降りてからにしような」
駿がキャリアを身に着け、アキトをしっかり座らせた。アキトは両足を駿の肩でぶらぶらさせながら「たかいたかい!」といった。駿の頭の上に顔があるのだから当然だ。
「アキト、川だよ」
僕は背伸びしてアキトに話しかけた。駿より高いところにいるのだから、そうせざるをえなくなる。
「光ってるよ」とアキトがいった。
「顔と手に風が当たるよ!」
「風? そんなに吹いてる?」
「アキトはわかる!」
アキトは両手をあげる。そうか、もしかしたらアキトの体は僕よりも風に敏感なのかも。だいたい僕の頭より高いところにいるわけだし。
「駿、重くない?」
「思ったより軽いぞ。アキト、足をパタパタするなって」
僕らは並んで川っぺりに続く階段を降りた。川岸には春の草がいっぱいに茂っていて、そのあいだに踏みあとで作ったような道が伸びる。川の向こう側にも同じような道があって、犬を散歩させている人がいるし、小学生くらいの男の子が網を持って走り回っていた。どうやら家族でピクニック中らしく、浅瀬で水しぶきをあげている。この辺りは歩いて向こう側へ渡れそうなくらいの流れしかない。アキトが男の子の方へ指をのばし、声を上げた。
「アキトも歩きたい!」
「待って、もう少し」と僕はいう。
川のほとりは車が通らないし、真上に電線のたぐいもない。駿がしゃがんだので僕はアキトを抱き上げ、地面に下ろした。アキトは草の根っこを踏みながら目をくるっと動かした。
「アキト、川に気をつけてね」
「どうして? アキトは濡れても大丈夫」
「だけど水には浮けないし、泳げないじゃないか」
アキトはぱちっとまばたきする。
「アキトは川に落ちたりしないよ」
「ここはお外だ。おうちの中じゃない。何があるかわからないんだよ。すべって水に落ちて、深いところに沈んじゃうかもしれない」
「アキトは壊れても再起動できるよ」
「だめ、壊れるなんていわない。僕のためにやめて」
「チヒロのため。わかった」
といったものの、アキトが川べりに向かって草の上をタタタタッと進みはじめたとたん僕はひやりとした。駿が外したギアを片手にあとを追う。銀色の皮膚を太陽が照らすとマットな光沢が輝き、アキトの目が急に、目標をみつけたみたいに止まった。足がまっすぐそっちへ向かい、駿が大股で追っていく。
アキトの先にあったのは小さな花が咲いた草だ。引っぱると、根っこに土がついたまま抜けてしまった。
「おっと……マジか」
驚いた顔の駿に「ハルジョオンだよ」とアキトが応じる。アキトは物知りだ――なんたって無敵のデータベースを持ってるから。
最近の僕らにとって、家で一緒にいるときのアキトは「小さくて賢い友達」という感じになっているけれど、こうして外に連れ出すと、僕らの本当の子供みたいだ。そう思ったとたん心の中がほうっと暖かくなった。
僕はリュックを草の上におろして座り、ペットボトルとスナック菓子を取り出した。駿と一緒に暮らしはじめたころ、ここで駿とデートしたことがある。周りには仲のいい友達同士がだべっているだけにみえたかもしれないが、僕らにとってはデートだった。
今年になって同性婚が法制化されたけれど、僕らはまだ結婚していない。でもこの数か月のあいだ、これまでゲイともレズともカミングアウトしていなかった有名人の電撃入籍報道がいくつもあって、結婚式場の広告も同性カップルがメインのものがあらわれた。僕はまだ駿にプロポーズできてないけれど、そろそろ考えてもいいんじゃないか? アキトと駿が楽しそうにしているのをみると、ふとそんなことを考えてしまう。
駿がアキトを抱っこして戻ってきて、僕らは並んで座った。アキトは僕らの前に立って、腕をぶんぶん振り回している。
「アキト、外はどう? 面白い?」
アキトは両手を上にあげて、空を見上げる。
「うん。風が吹いてる。空が光ってる。いろんな色がある」
風かぁ。たしかにマンションの中にいても、風はほとんど感じられないもんね。それにアキトのボディには赤外線や紫外線のセンサーもついていたはず。
水に気をつけて、なんて注意する必要はなかったのかもしれない。アキトは僕が気づかないものもわかるんだから。
――と思ったとたん、アキトの踵が草のあいだに沈んだ。かくんとバランスが崩れて、しりもちをつく。
「ほら、気をつけてって」
アキトはきょとんとした顔で地面をみた。
「穴に足が入ったの」
「大丈夫? 抜けた?」
「うん。アキトは大丈夫」
アキトは反省しているような目つきで僕と駿のあいだに座った。今みたいな経験を通じてアキトは何を学習するんだろう。僕がアキトのことを心配するみたいに、人は一緒に暮らす相手のことを気がかりに思うってこと、わかるかな。たとえそれがロボットでも。
「現実の世界へようこそ」
駿が真面目くさった声でいった。僕は飲みかけのペットボトルを駿に渡し、アキトを膝に座らせる。何気なく顔をあげると、向こう岸で僕らを見ている人がいる。
僕らはあの人にどう見えているんだろう。小さな子を連れたカップル? 兄弟? 親子には見えるだろうか。
「現実の世界。現実って何?」とアキトがいった。
「……難しいことを聞くなぁ」
駿がうなった。
「現実は僕と駿が生まれたここのことだ。アキトもここで生まれたんだよ」
「アキトは現実から生まれたの?」
「えっと……大きくいえばそうなるのかな」
「チヒロ」
「ん?」
「アキトはチヒロが好き」
僕は思わず微笑んだ。
「僕もアキトが好きだよ」
「おいおい、ふたりで話すな」
駿がアキトに向かっていう。
「俺は?」
「シュンも好き」
「も? 俺は二番か」
「何いってんの」
僕は声をあげて笑った。
「僕と駿は一番とか二番とか、そんなのはないんだ。覚えていてね、アキト」
「うん。アキトは覚えた。アキトは何でも覚えて、忘れない」
そうだといいな、と僕は思った。人間の子供が「覚える」のと、アキトが「覚える」のは同じじゃない。僕と駿はアキトのメモリのなかにずっといさせてもらえるだろうか。
ちょっと休憩したあとで、アキトと一緒に川岸をすこし歩いた。浅瀬には入らないようにしていたけれど、アキトは水辺をのぞきこんだり、蝶々を追いかけたりと忙しい。
歩いているあいだ、同じように川岸で遊ぶ家族連れや散歩する人とすれちがった。ほとんどはちらっとこっちをみて、関心なさそうに視線をそらすだけだ。アキトがロボットだとは思っていないのだろう。
ひとりだけ、じっと僕らの方を見ていた人がいた。ガードレールにもたれて立っていた、つば広の帽子をかぶった人――だぼっとしたズボンを履き、肩は丸くて男にも女にも見えたけれど、顔の上半分は影に隠れている。
またすこし川岸を歩いてから、僕らは元来た道を戻って、駐輪場に上がった。駿がアキトのギアを取り付けているとき、また視線を感じた。
「千尋、ギア、できたぞ」
僕はアキトを座らせながら小声でいう。
「あの人、さっきもこっちをみてた」
「どの人?」
僕はもう一度ふりむいたが、高校生くらいの二人連れが自転車で通り過ぎただけで、もう誰もいない。勘違いかもしれない。
「どんなやつ?」
「背は僕と同じくらいで……気にしすぎかな」
駿はあたりを見回して「珍しかったんじゃないか」といった。男二人で幼児を連れているのが、ということだろう。たぶん口に出したせいで僕は安心したのだ。そのことはすぐに忘れてしまった。
ゴールデンウィークのあいだ、僕らはあと二回、アキトと一緒に外出した。アウトレットモールへ出かけた二回目、ギアをつけてアキトを抱っこしている僕に、知らない人がいきなり「その子、もしかして分身ロボットですか?」と話しかけてきた。僕は何をいわれたのかがその瞬間は理解できず、口をあけてぽかんとあけて見返してしまった。くるっとアキトの首が回った。
「僕は分身ロボットではありません」
相手はアキトをまじまじとみつめ、うろたえた表情で首をふると、さっと僕らから離れて行った。その瞬間僕は思い出した。この人、前にも僕らを見ていた人だ。
「分身ロボットって……」
思わずつぶやくと、アキトがすかさず「遠隔操作のロボットだよ」と答えた。
「分身ロボットは、いろいろな理由で自分の家を離れられない人が遠隔操作のロボットを通じて会社で働いたり、外で人と交流するために使う」
アキトは物知りだ。たちまち解説が返ってくる。そうか。分身がいれば、実際にその場で操作をしたり握手したりできるということか。
単に交流するだけならVRでも十分な気がするけれど、それをいうならアキトだってVRの中だけで完結してもいいってことになるかもしれない。でも半年以上アキトと暮らして、僕も駿も彼の「体」がある生活が自然になった。たとえば障害があって外に出られない人が、機械の分身で働けるのは重要なことにちがいない。
でもこの日は、分身ロボットについて知っただけでは終わらなかったのだ。
帰りに寄ったモールのカフェテリアで僕はアキトと並んですわり、駿がもどってくるのを待っていた。モールは混雑して騒がしく、ぐずっている子供もいて、僕はそっちに気をとられていた。
何の前触れもなく、アキトが前につんのめるように倒れた。僕はハッとして振り向いた。いかついあごの中年男があわてたように手をひっこめた。
「何するんですか!」
「それ――人形?」
アキトの首がかくんと回った。男は目を見開いて驚いた顔つきになったが、その時には僕はアキトを抱きかかえ、立ち上がっていた。
「大の男が人形ごっこかよ」
馬鹿にするようなつぶやきが聞こえて、顔がかっと熱くなる。僕に抱えられたまま、アキトの首が男の方を向いた。
「アキトはロボットだよ。人形じゃない」
男がぽかんと口を開けた。駿がやってくるのが見える。僕はいそいでそっちへ向かったが、スマホをこっちにかざしている人が目に入って、ぎょっとした。
このゴールデンウイークを境にして、掃除ロボットとかペットロボットではない、人間の形をした「ロボット」がいるという話がSNSを通じて広まった。またゴールデンウィークの最終日には、ある事件も起きた。僕らが行ったのとはちがうアウトレットモールだが、赤ちゃんの誘拐――連れ去り未遂事件があったのだ。
少なくとも最初はそう思われたが、あとで間違いだったと発表があり、事件はなかったということになった。その後ネットで、実際に起きたのは連れ去り未遂ではなく盗難未遂だったという話が出回った。赤ちゃんにそっくりの人形が盗まれそうになったというのである。でも僕は別の疑いを持った。それは人形ではなくGERのロボットだったのではないだろうか。
僕らと同じようにGERのプロジェクトに参加している家庭がニュース番組で放送されたのは五月のおわりのことだ。GERのロボ赤ちゃんは一気に世間に知られるようになった。
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