第3話 僕らのおっぱい

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第3話 僕らのおっぱい

   * 「アキト、ミルクだよ~」  さて、あの頃から五年たち、今の僕は座ってアキトを膝にかかえている。アキトは目をぱちりとあけたまま哺乳瓶の乳首にむしゃぶりつく。今は銀色の肌のほとんどは肌着に隠れている。右手は哺乳瓶をつかんでいるが、左手はもみじみたいに広げられて、空中でぱたぱたしている。 「頭は上げた状態で……そうそう、上手ですよ。赤ちゃんの目をみて……」  田崎さんは慈愛と厳しさのまざったまなざしで僕らをみている。僕と駿は田崎さんの指導のもと、名前をつけたばかりの赤ちゃんロボの着替え、おむつ替え、ミルクのあげかたを教わっているところだ。 「この目、みえているんですか?」と駿がたずねた。 「はい。DERのロボベイビーは本物の赤ちゃんの発達段階を完全に模しているわけではありませんから、人間の赤ちゃんとはちがってちゃんと見えています。おふたりの顔もわかっていますよ」  くぷくぷ……哺乳瓶の中身が減っていく。哺乳瓶はベビーベッドとおなじくDER製で、中の『ミルク』もリアルではないけれど、ほんとに飲んでいるみたいだ。 「くりかえしの説明になると思いますが、この育児体験プログラムは、子育てをしたことのない方に『赤ちゃんがいる生活』を経験してもらうためのものです。でもこの赤ちゃんは、おふたりが名前をつけて『アキト』君として生まれた瞬間から、おふたりの表情や動きぜんぶから学んでいます。だから、ミルクを欲しがっているときにミルクをあげなかったり、おむつが気持ち悪いときに世話をしなかったりすると、その状態も学習してしまいます」 「そ、そうなんですか」  駿がちょっと引いたような声を出す。 「ええ、ある意味では生きている人間の赤ちゃんとおなじです。でもロボットですから、体は人間の赤ちゃんのように変化しません。でもアキト君の心――AIは人間の赤ちゃんよりも早いスピードで成長します。二週間後、アキト君がどう成長しているかはおふたりの育児しだいです」 「は、はい」 「授乳の間隔は赤ちゃんによって違います。アキト君がどのくらいでおっぱいを欲しがるかはまだわかりません。ヘルメスをつけていなくても授乳はできますから、落ちついてあげてくださいね。飲ませ終わったらげっぷをさせてください。縦に抱いて背中を撫でてあげるとげっぷしますから。おしりから足を支えてあげて――そうそう、千尋さん上手ですねえ、よくできました」  アキトはけふっとげっぷをする。僕は抱っこしたまま立ち上がり、体をゆらした。アキトのまぶたがするっと下がる。 「駿、抱っこかわって」 「ああ」  駿にそっとアキトを渡すといったん閉じたまぶたがあがり、顎がうごいて、とまどったようなおちょぼ口になった。うーん、リアルだ。 「ふ……ふぇ……」  あ、泣く? 一瞬びびったけれど、駿が体を揺らしながら太い腕で支えるとおさまった。アキトは駿の厚い胸板に頭をおしつけている。おお、父親のようだ。 「よかった……」  駿がものすごくほっとした顔で僕をみる。 「何が?」 「泣くかと思った」 「はは、駿の雄っぱい大きいからアキト安心するのかも」 「雄っぱいいうな」 「そうそう、いい感じですよ」  田崎さんはニコニコしながら僕らの様子をみていた。 「では私たちはこれで。何日か大変かもしれませんが、どうか育児体験、がんばってください」  僕はVR装置をはずし、駿はそのまま銀色の赤ん坊を抱いて、DERの二人を玄関まで見送った。VRの魔法をはずしてもアキトは可愛かった。つくづく、すごい技術だと思う。  さっきも思ったけど、ぐっすり眠っているロボベイビーを駿が抱っこする様子はなかなかさまになっていた。ずっと前からパパだったみたいだ。  それも不思議はないのかもしれない。もともと子供を欲しがっていたのは駿なのだ。ロボットを使った育児体験じゃなくて、本物のほうだけど。だいたい駿は僕とつきあわなければ、女の人のあいだに子供をつくることだってあったのかもしれないし――といったことが頭をよぎって、僕はいそいで頭を切り替えようとする。いやいや、今はそんなことを思い出すときじゃない。 「駿、アキトをベッドに寝かせて、いまのうちにご飯たべよう」  僕らはそうっとベビーベッドにロボ赤ちゃんを寝かせた。よし、大丈夫だ。  ここ一年くらい、駿はお腹が出ていないか気にするようになった。でもスーツを着た姿は最初に会った時と変わらない。僕にとってはめちゃくちゃ好みの理想の男だ。    *  断言するが、ひと目みて好みだと思った男は99.9パーセント、ゲイじゃない。いや、好みであろうとなかろうと僕の周囲の男はだいたいゲイじゃない。  たかだか25年の人生でも真実を悟るには十分だ。だからこそセクマイはセクマイなのだ。全人口の10%はセクマイだっていう話はある。その10%はゲイだけじゃなくて、バイとかトランスとかアセクシャルとか、いろいろな人がいる。10人にひとりはそうなんだって考えるとすこしはほっとする。つまり僕のこれまでの人生でも、同じクラスに3人くらいはセクマイがいる(いた)のかもしれない。  だけど実際のところは、ゲイに会いたければゲイがたくさん集まっている場所に行くしかないのだ。それがこの世界というものだから、VREのイベント会場で、そうと知らずに生身の駿=クボミンをはじめてみたときも、僕は0.1%の確率に賭けるなんて無駄だと思っていた。  でも、そうだとしても。斜め前に立つスーツ男子は、ちらっとみえた爽やか系の顔立ちもさることながら、がっちりした肩や大きめのお尻やちらっとみえたベルトのあたりなど、何から何まで理想的、僕のツボど真ん中だった。  見るだけならタダだし、セクハラにもならないからと、僕はさりげなく斜め前のスーツの鑑賞を続けた。年齢はあまりかわらない気がするから、二十代後半だろう。イベント会場にスーツを着てくる人間は珍しい。仕事帰り? 出展企業の関係者かもしれない。でもグッズ列には並んでいるのだから仕事中ではないのかな。  そんな観察をやっているあいだに列はさっさと進んでいった。もらえたグッズはVREロゴつきストラップとスクラッチカード。カードを削ってあらわれたコードをVRデバイスで読みこむとアバターグッズ引換所に行ける。みると僕の好みのスーツ男はスクラッチカードを持って新機種コーナーへ向かっていた。そうか、お試しブースでVREにログインできるのだ。  同じことを考えた連中はもちろん他にもいて、お試しブースの前にも列ができていた。僕は今度はスーツ男の真後ろに並び、順番が来るとすぐ隣のブースに入った。  慣れた手順でログインしていつものVREホームへ。僕はいつものメガネっ娘アバターだ。コードを読みこむと壁に引換所へのゲートがあらわれる。そのまま進んで中に入ったそのとき、クボミンのロングヘアが目に入った。  僕はその場に固まった。クボミンがふりむいてこっちをみた。 「あっ」  ――とかなんとか、僕もむこうも、同時にいったかもしれない。  正直いって気まずかった。あの出来事のあと僕らは一度も会っていなかったのだ。でもこんなところで知らんぷりをするのも嫌で、僕は勇気を出して話しかけた。 「ひさしぶり、だね。VREのイベント行ったんだ」  明らかなことをわざわざ口にして、ばかみたいだと思った。リアルクボミンがどこにいるにせよ、イベント来場者限定の引換所にいるのだからイベントに行ったのは当然だろう。 「ああ、チロも」  クボミンの綺麗な顔をみると、ふたりで楽しくパーティを組んだり、お互いのホームで話していた時間が蘇って、せつない気持ちになった。僕はまた勇気をかきあつめた。 「クボミン、この前は急にログアウトしてごめん」 「いや、俺もあの時はその」 「クボミンとああいう感じになるの、嫌じゃなかったんだけど、びっくりしちゃって」 「そ、そうだよな。ごめん」 「VRじゃこんなだけど僕、男だし」 「チロ、あのさ、俺もこんなだけど、リアルは男――」 「うん、知ってる、でも僕はゲイだから女の子じゃなくて男が好きなんだ、だから」 「え?」 「だからクボミンとキスしそうになって……キスしたかったのにびっくりして」  僕はハッと我に返った。何をいっているのだこんなところで。 「ごめんそんなだから、もうこれで! じゃあ!」  すぐに僕は自分のホームへの転移ゲートをあけたが、寸前で中に入りそこねた。下半身がポリゴンになったクボミンが僕とゲートとあいだに挟まっていたからだ。バグったのか。 「じゃあって、ちょ、ちょっと待って! チロ!」  僕は無視して自分のホームに戻ろうとしたが、またも寸前でクボミンが半分ポリゴンから完全な美少女へ復帰して僕の手をつかんだ。するとあろうことかゲートはクボミンごと僕を中に入れて閉じた――すっかり忘れていたが、僕とクボミンはお互いのホームへの招待コードを認証していたのだ。  そしてゲートが閉じたとたん、僕はいまイベント会場にいる現実の僕が装着している新機種の性能を実感した。クボミンの手が僕の肩に回っている感じとか、壁に押しつけられている感じとか、何もかもがリアルだった。クボミンの顔がすぐ近くにある。美少女の唇が動いた。 「俺とキスしたかった……?」 「ぶ、ぶいあーるだから……」  僕はわれながら意味不明の言葉を返した。クボミンの唇が近づいた。僕も自然に唇を寄せていって、立ったまま、僕らはキスをした。  めちゃくちゃ長い時間に感じたけれど、どのくらい唇を重ねていたんだろう。こういうの、VR感覚っていうんだろうか。ほんとに唇に何かが触れているわけじゃないのに、でも確実に僕の脳はキスの感触を感じている。  クボミンの唇がずれて、すこしちがう場所にキスをした。あ、気持ちいい……そればかりか密着した体まで気持ちよくなってくる。  ちょっとこれ、まずいんじゃ……?  ここはVREの僕のホームだけど、でもリアルの僕はいま、自宅じゃなくてイベント会場にいる。いくらVRのプライベートスペースでも、公共空間に設置されたブースでこんなことになっているのは……。 「クボミン、あの、僕……僕いま、イベント会場にいるから……」 「ん?」 「その、一度ログアウトするから、家に帰ってから……また、会おう?」 「俺もそうなんだけど」 「え?」 「新機種体験ブースにいる」  マジか。いや待って。 「ブースのどこ……?」 「A-8」  A-8って、まさかあのスーツ! 「僕はA-7」  クボミンの腕が離れた。 「俺も……ログアウトする。その……チロがよかったら……外にいるから……」  ――そのとき僕の心に浮かんだ希望がわかるだろうか? 「まさか、クボミンもゲイ?」  まさか0.1%の例外? 奇跡? ――期待の瞬間はあっという間に終わった。 「ちがうけど」  僕のしょげた心はVR空間では表現されなかったはずだ。でも僕の前の美少女は何か察したみたいに僕の手を握っていった。 「でも俺はリアルのチロがどんな人なのかずっと想像していて……会ってみたかった」  僕は(ブースの中にいる現実の僕の方)息を飲んだ。 「それなら……いいよ」  僕らは同時にログアウトして、ブースの外に出た。スーツの男は僕をみて、びっくりしたような表情になった。 「あまり変わらないじゃないか」 「何が?」 「何ってその、アバターと」 「は? 視力大丈夫? 僕も目はあまりよくないけど」  口に出して、あ、そうか、と気づいた。僕も眼鏡をかけているからそこは同じだ。でっぱりの少ない体型もそうだろう。でもVRのアバターとはぜんぜんちがう。  ぜんぜんちがうといえば――僕はスーツに目を向ける。 「さすがにクボミンは似てないね。髪も短いし」 「恥ずかしいな」 「何が?」 「クボミン」  スーツの男は照れたように顔を赤くした。 「久保でいい」 「久保さん?」 「ただの久保でも……」 「とりあえず……どっか行く?」  ゲイじゃないとわかっているのに、めちゃくちゃ好みの男とリアルで会話をしているわけで、僕はどうしようもなく興奮していた。だからそんなことがいえたのだ。  クボミンもとい久保さんは黙ってうなずいて、僕らは歩き出した。まず駅近くのコーヒーショップに入った。最初はふたりともぎこちなかった。でも、まだ引き換えていないグッズのこととか、自宅のVR環境の話といったどうでもいい会話をするうちに、VRで話していたときの感覚がたちまち戻って来た。 「飯食わない?」と久保さんがいい、僕は「そうだね」と答えた。僕らはターミナルまで電車で移動し、そのあいだもずっと話していた。ファミレスと喫茶店の中間みたいな食堂でご飯を食べ、さらにどうでもいい話をしながら、暗くなりはじめたビルの間をふたりで歩いた。  あたりはすっかり暗くなっていて、近くや遠くでネオンがきらきらしている。だからたぶん、夜の街のせいだろう。僕の頭はだんだん、リアルクボミンとVRクボミン(キスの感触やVRで密着した時の体の重み)が混ざりあったエッチな妄想でいっぱいになっていたのだ。  僕はどうしたらいいかわからなくなりつつあった。たぶんリアルクボミンも同じだったと思いたい。そう、だからこそ僕らは、ビルの谷間に忽然とあらわれたラブホの前で立ち止まったのだ。電光掲示板には「VR装置で遊べます!」の文字が瞬いていた。 「どの部屋にする」とクボミンがいった。  僕はあまり考えずに右上の写真を指さした。 「ここ」
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