第9話 銀色の赤ちゃん

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第9話 銀色の赤ちゃん

 さて、そこから僕らの人生は一気に前へ進んだ。アキトが誕生して三日後の深夜まで。 「ふ……ふ……ふうぇええええええええーん!」  MRモードの視界でアキトは目をぎゅっとつぶり、小さな口をうぎゃあっとあけて泣き叫んでいる。昨夜はここまでじゃなかった。でも今のこれは……噂にきいていた夜泣きギャン泣きというやつだ。 「アキト、お腹空いてるのかな……」 「さっきミルク飲ませたばかりじゃないか。おむつも替えたし」  おろおろしている僕の横で駿がいった。 「じゃあなんで泣いてるんだよ?」  駿は無言で目をぱちくりさせ、僕はアキトを抱っこしたまま部屋の中を行ったり来たりする。育児サイトに書かれていたように体を揺すってみる。声がちょっと静かになった……と思ったのは束の間だ。ああもう、僕も泣きたい。  ちなみに今は夜中の二時。アキトにミルクをあげる間隔はだいたい四時間おきだ。 「代わろうか」 「う、うん」  僕は駿にアキトを渡そうとするが、お尻にあてた片手をずらしただけで音量があがった。ううむ、敵は手ごわい。  駿はアキトを縦に抱き、おいおいとかなんとかつぶやきながらアキトの背中をゆっくりトントンしている。お、声が小さくなってきた……?  僕と駿は顔をみあわせ、黙ったままゆっくり、そうっとアキトのベッドのそばにいき、うかつな衝撃を与えないように用心しながら、ほとんどスローモーションでアキトを横たえる。MRモードの視界でアキトは小さなまぶたをきゅっとつぶっている。ちっちゃな両手は脱力して、お腹がすうすう動いている。ああ、眠った! やった!  僕らは足音をしのばせてリビングへ退却。MRモードを切ってデバイスを外した。 「ふわあああ」  駿が大きなあくびをし、僕はアキトの重さと緊張でこった肩を回す。 「ロボット……ロボットなのに夜泣き……」  駿がぶつぶついったので僕は思わず笑った。 「本物の新生児のシミュレーションだからさ」 「ハードモードは役員研修に使われているっていってたよな。すげえ納得。これ体験したらどんな石頭も絶対育休とらせるようになるよな」  DERの赤ちゃん育児疑似体験プログラムにはハードモードとイージーモードがある。  イージーモードはカスタムモードとも呼ばれていて、参加者のもとにやってくるロボ赤ちゃんのAIはもう調整された状態だ。参加者はお世話の難易度を自分で決めることができる。動かない人形におむつ替えをしたり、ミルクを飲ませたりするよりはリアルだけど、夜はスイッチを切ることができる(!)イージーモードは子供向けの教育プログラムや父親学級などで使われているという。  一方ハードモードの場合、ロボ赤ちゃんにスイッチはない。  だってうちのアキトみたいに、やってきたその日に生まれるのだから。    * 「企業さんだとこのプログラムを、家庭における男女の役割不均衡の自覚や、育児に対する理解推進のために役員研修に導入しているところがあります。うちの育児体験は政府の少子化対策事業に仮認定されていますので、だいたい前向きに検討してくれます」 〈成層圏の家〉で出会ったDERの社員はアイさんのようなデジタル生命ではなかった。しごくまじめな顔で、いかにもビジネスといった調子で説明してくれたものである。 「そうそう、あと、ハードモードはデジタル生命の誕生に立ち会うんですよ。命名した人を『親』と認識して育っていきますから、いずれVREで成長したAIに出会うこともあるかもしれない。なかなか夢があると思いませんか?」  招待状をもらった〈成層圏の家〉はVREワールドのひとつ〈オービタス〉のゲートから台風の目を抜けた先にあった。案内に従って進んでいくと、下からぶわっと噴き上げてくる風にスカイダイビングのように乗って、青空の上空まで飛べるのだ。  クボミン、つまり駿のドレスが風にひらめき、すらっと長い足がむき出しになる。ショートパンツの僕はいつもと同じだ。眼鏡は顔にくっついているから、風が強くても落ちることはない。  たどりついた目的地はガラスのようなドームに覆われた大きな建物で、招待状を出すとすぐにアイさんがあらわれて、僕らはアイさんのような人間そっくりに話す独立人格のAIやその他の人々に引き合わされた。もともとオービタスは科学者やエンジニアが参加するワールドのようで、僕は最初勝手がわからずとまどっていた。しかし駿と一緒にうろうろするうち、ロボ赤ちゃんのゆりかごが置かれた部屋にたどりついたのだ。DERがデモンストレーションをやっているところだった。 「つまり」  不審そうに駿がいった。外見はいつものロングヘア巨乳美少女だ。 「二週間自宅でロボットを教育するわけですよね?」 「教育するというより、二週間預かって育ててもらうんです。ふつうの赤ちゃんを育てるようにね」  DERの社員は得意げに答えた。 「ハードモードは本物の赤ちゃんのようにミルクをあげなくちゃいけませんし、お腹がすくと夜中に起きて泣いたりします」 「泣くんですか」 「もちろん泣くのは外界に向けたコミュニケーションのしるしです。お腹が空いたAIをそのまま放置すると、放置された状態を学習します。ロボ赤ちゃんのAIはハードウェアのセンサーとMRモードの接触すべてから世界を学習し、成長します。もちろん二週間たってもボディの外見は変わりませんが、中身は本物の人間とは別のやり方とはいえ、かなり早く成長します。つまりプログラム参加者は早回しの新生児育児が経験できるわけです。その一方で赤ちゃんAIは、環境によってもたらされた唯一無二の個性を獲得します」 「個性?」  僕は聞き返した。DERの社員は肩をそびやかした。 「ゲノムエンジンで生成されたデジタル生命の胚は複製もできます。でも異なる環境で、異なる人間に育てられると個性を持って成長するんです。個体によって得意分野がちがったり、思いがけない能力の進化が起きることもあります。どうですか、参加しませんか?」 「僕でも参加できるんですか?」 「ひとり親育児は大変なので、おふたりでの参加を推奨しています。子供は協力して育てるものですから」  どこかでそっくりの言葉を聞いたような気がすると、僕はそのとき思ったものだった。    * 「人間よりは早く成長するっていったよな。夜泣きはいつ終わるんだ」  駿は横になって大きなあくびをする。アキトのベッドは開けっ放しの襖の向こうだ。首をのばすと銀色の肌がみえる。僕らは声をひそめて話す。うっかり起こしたらまた寝かしつけなくちゃいけない。 「これも個性だっていうからさ」  僕は答えながらふと心配になった。何しろ昨夜も似たような感じで、僕らはあまり眠れなかったのだ。  やるんじゃなかったって思ってる?――問いが喉まであがってきたところで、駿がいった。 「いやあ、こんなの経験したくてもできるもんじゃないよな。ほんとの赤ん坊だとこれがしばらく続くんだろう?」 「そうだね」 「千尋は昼間大丈夫か? 俺、明日出社だけど」 「大丈夫だよ。アキト可愛いから」 「あいつがもしひねくれたAIになったら俺たちのせいだな」  駿は声をひそめて笑い、僕もつられて笑った。 「このプログラムのあいだに話すようになるんだっけ?」 「たいていはそうだって」 「第一声はなにがいい?」 「僕らが決めるんじゃないだろ」 「予想するんだ。千尋の名前とか?」 「難しくない?」 「アキトはAIだ。いきなり自己紹介をはじめるかも」  ハッとして僕は耳をすませる。僕らの声以外の声が聞こえた気がしたのだ。駿に目で合図して、僕はそっと立ち上がり、アキトのベッドをのぞきこむ。大丈夫、まだ眠ってる。  不思議なもので、この三日間MRモードでさんざん細かい表情を見てきたせいか、VRデバイスをつけていなくてもアキトはロボットのように思えなかった。単にロボットの体がよくできているから、というだけじゃない。たった三日過ぎただけなのに、僕の目にアキトはロボットを超えた何かにみえる。僕と駿のところに来てくれた銀色の赤ちゃん、それがアキトだ。
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