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「早くなさい」
お母様がわたしを急かした。
「馬車が待ってるわ。いつまでぐずぐずしているの!」
「ごめんなさい、お母様。もうちょっとだけ」
わたしは夕日に照らされた町を窓から眺めた。それからカンバスに慎重に木炭を走らせる。
「何をやっているの。そんなもの描いて何になるの!」
「だってお母様、これがこの町の最後になるのよ」
景色を見ながら、家々の三角の屋根の形を丁寧に模写していく。
「ごめんなさいね。急なことだから、素描までが精一杯。あとは向こうで描くから」
暮れなずむ町に向かって語りかけた。
お母様はいらいらした様子だった。
「何をぶつぶつ言っているのよ。その空想癖も、絵にばっかり夢中になるのも、いい加減やめにして。だいたい──」
「分かってるわ、お母様。……これでおしまい」
わたしはカンバスに布をかけた。
「さ、残りの荷物をまとめるわよ」
召使いに手伝ってもらいながら、絵の動画を片付けて鞄に詰める。
「ああ、その小さいカンバスと鉛筆と……そう、それはこちらの鞄に入れて。移動中も絵を描くの」
「何を言っているの!」
お母様は神経質に叫んだ。
「絵を描くために止まるなんて、そんな時間はありませんよ。この旅はいつもの休暇とは違うんだから!」
「でも、ちょっとくらいは休むでしょう? お父様のお友達のおうちに寄るんですもの。その間に描きたいの」
「呆れた……! もう、早くあなたも準備をなさい!」
「はい、お母様」
わたしは鏡の前に立ってエプロンを外し、身だしなみを整えた。待ちかねた後ろからお母様は、わたしのウエストをギュッと締め、肩にコートをかぶせると、召使いに鏡を運ばせてしまった。
「さあ、早く早く。ただでさえお父様のお仕事の関係で、わたしたちは出遅れているのだから」
「……ええ」
「兵隊さんへのご挨拶回りさえなければ、わたしたちももっと早く出られたものを」
「そうね」
わたしは窓の外の風景をしっかりと目に焼きつけた。
これで、最後の日が沈む。
「さようなら、わたしたちの町」
手向けにそう囁いた。
画材の入った鞄が無事に運び出されるのを見届けてから、お母様のあとを小走りでついていく。
玄関を出て、御者の手を取って馬車に乗り込む。後から召使いがわたしの手に、カンバスの入った旅行鞄を渡した。
「ありがとう」
わたしは微笑んだ。お母様が隣で腹立たしそうにそれを見やる。
「もういいわね?」
「ええ。もういいわ」
行って、とお母様が御者に命じ、ぴしりと鞭の音がして、馬車が動き出した。
わたしは胸に手を当てて、目を大きく見開いて、去りゆく町の景色を見ている。
「全く」
お母様はまだ憤然としていた。
「絵なんかのために、こんなに遅れてしまって。間に合わなかったらどうするつもりだったの」
「ごめんなさい、お母様。待ってくださってありがとう」
「よくもまあ、そんな呑気にしていられるわね。もう火事は始まっているのよ」
「まだボヤだし、遠いわよ」
「いつ大火事になるか知れないじゃない。それにフランス軍は、わたしたちが逃げるのを待ってはくれませんからね。何をされるか分かったもんじゃない。あの悪名高きナポレオン・ボナパルト」
「……そうね」
わたしは嘆息した。
「この町は──モスクワはもう、明日には占領されてしまうでしょうね」
「だからこそこうやって、あなたもわたしも作戦に協力しているのでしょう」
「そうね……」
先だって、祖国ロシアはフランスからの侵略を受け、戦争を開始した。怒涛の勢いで進軍するナポレオン軍を前に、ロシアは焦土作戦を敢行することを決断した。
敵軍もろとも町を焼き払うことで、敵の補給線を断つ作戦である。
焼き払われた町からは、労働力や食糧の補給が期待できなくなる。しかも、もたもたしているうちにロシアの冬がやってくる。そうしてフランス軍が消耗することを、ロシア軍は狙っているのだ。
この作戦の成功には、モスクワの住民の犠牲が不可欠だった。多くの市民が家を捨てて東へと逃げた。わたしたちも一旦退却し、折を見てサンクトペテルブルクに居を移す予定である。
お母様はまだ、非難がましくわたしを睨みつけている。
「だいたい、女が絵など描いて何になるというのです。何の役にも立ちやしない」
「……ごめんなさい、お母様。でも……」
「言い訳は結構。向こうに移ったら、忙しくなりますよ。のんびり描いている余裕はなくなりますからね」
「……はい」
こうしてわたしたちは、暗く、雪がちらつく中を、ひたすら走り抜けてモスクワを出た。明けて昼頃、知人の別荘に身を寄せる。
それは小高い丘の上にあり、窓からモスクワの町を一部見下ろすことができるようになっていた。
知人宅を出発するのは明日の朝ということにして、わたしたちは一晩泊めてもらうことになった。
「……燃えてるわ」
わたしはカーテンを開けて呟いた。
出立から二十四時間が経過して、再び夜が訪れていた。
ずっしりと垂れ下がる雪雲の下、真っ赤に染まる町が見える。
「燃えてる。数々の立派な宮殿が。歴史的な遺産が。市民の家が」
わたしは旅行鞄から画材を取り出すと、この窓から見える景色をスケッチした。
「遠く燃える町──昨日まで生きていた町」
今頃、ナポレオンは何を思っているだろうか。手に入れるはずだった町に、目の前で自殺されて、どのように思っているだろうか。
これがわたしたちロシア人の覚悟だ。
皇帝陛下に勝利を捧げるために、自らをとことん犠牲にする覚悟。
「でも、わたしはあの町が好きだった……」
わたしは、出立前にくっきりと目に焼き付けておいた、あの夕景を思った。
色合いから風の感触まで、鮮明に思い出せる。
「向こうに着いたら、絵を二つ、早く完成させなくては」
わたしはカーテンを閉じて、窓に背を向けた。
赤いモスクワの絵を二つ。
夕日に照らされる姿と、大火に照らされる姿。愛する町の、最後の姿を描き留める。
重苦しい祈りを込めて。
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