九識論(くしきろん)

2/3
前へ
/23ページ
次へ
心の中ってどうなってるのか不思議ですよね。 それが解れば苦労はしないと言われそうですけど、心理学に於いてもフロイトさんやデカルトさんなどの優れた人々が解明のメスを入れてそれなりの見解に至りましたがまだまだ謎に包まれているというのが、正直なところでしょう。 しかし、驚くことに未だ文字すらなかった時代にその内面に鋭く迫り大胆に解明してみせた方がいらっしゃいます。 ゴータマ・シッダッタ(シッダールタ) はいブッダですね。 その論理は九識論(くしきろん)といわれて、9つの精神的な働きとして解説されています。 まず、最初の五識は簡単に言うと五感による識別の事です。 目、耳、鼻、口、体における、見る、嗅ぐ、聴く、味わう、触れるという行動によって情報を得る精神の働き。 これは、いわゆる表層的な部分といえますね。 赤ん坊などは、この五感を刺激されながら、その変化を学習し記憶しながら成長していくわけです。 この五感の刺激で愛情がうまく伝わらないと赤ん坊は育ちません(詳しくは書きませんが、昔実際にそういう人体実験みたいな事をした人が居たらしいです)。 その下に五感を統合する形で意識があります、これが第六識です。 このあたりまではそこまで、異論のないところだと思いますが、よく九識論は氷山に例えられまして「氷山の一角」なんて喩えがあるとおり、ふだん表面に現れている部分は心の世界のほんの一部分と考えられています。 つまり、ここからはもう普段は現れていない領域であり、下に行くほど広がって行くイメージになります。 意識の下にあるのはご存知だと思いますが無意識の世界ですね、これは心理学でもよく取り上げられてますが、仏教では末那識(まなしき)と言われとります。 自我意識の住処とされています。第七識です。 ではその自我を自我たらしめているものは何かと言うとそれは、更にその下にある阿頼耶識(あらやしき)と言われあらゆる因果を貯蔵することから蔵識ともいわれてます。 ヒマラヤ山脈という名前はサンクスリット語で、雪(ヒム)が降り積もる(アラヤ)という意味です。 雪が降り積もって行くように、我々の行動、喋ったこと、思った事、が身口意(しんくい)の三業として蓄えられていくと言われてます。 では産まれて来てまだまだあまりこの身口意の三業が溜まってないはずの赤ん坊は自我がそれほどないのでみんな同じかと言うと驚くほど差がありますよね。 つまりその自我ってどこから来てるのかと言うと過去世というやつですね。 前前前世という様な話ではなくて、かなり昔、数字で言うとひくほどの昔からという事になるので書きませんけどね。 つまり、現世でどうこうできるものではなさそう、というのは想像にかたくないですね。 三つ子の魂百までというのはそういう事なんですかね。 この阿頼耶(アラヤ)識(第八識)は単純に業が降り積もる場所というのみではなく、降り積もった原因が外界の縁に触れる事により結果となり(ここまでが心の中の世界)報いとして現実に現れる。 と、考えられています。 因縁果報(いんえんかほう)ですね。 更に更にこの阿頼耶識は深くまで行くと他の人々と繋がっていると言われてます。 縁の深い人からどんどんつながって最終的には全人類となるんでしょうか? そう考えると、まず家族はもっともお互いの原因と結果を共有してしまう間柄ですね。 まぁ、逆に言うと家族になってしまうほどの似た因果を持っていたとも言えます。 また虫の知らせなんかも、第八識で繋がってると考えると説明できるかもしれません。 その次に、住んでる所が同じというのも似た因果を持っているとも言えますね(その地域特有の気質みたいなものがあったりします)。 更に国が同じ(お国柄の様なもの)というのも同じ因果を背負ってますね。 国の政治や経済、治安なども大きく自分に影響があるわけですが、同じ因果の人々が集まってるのだと考えるのが仏教的な考え方です。 (そで)ふれあうも多生の縁。という諺がありますが、この意味は「たまたま着物の袖が触れ合っただけでも何回も過去世(前世)において何度も縁があった証拠なんだよ」となりますので小説投稿サイトで知り合うのも結構な縁があったのかもしれませんね。 この多生を多少だと勘違いすると意味が変わってきますけど。 話を戻します。 我々の心がアラヤ識の更に深層部で広く全人類とも繋がってると考えると、世界中で同じような発明や発見が現代の様な通信が発展してない時期に同時に起こるというのも説明できるのかもしれません。
/23ページ

最初のコメントを投稿しよう!

17人が本棚に入れています
本棚に追加