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プロローグ
「本当にいいの? だって、その髪に宿った力は、お前が頑張ってきた証だよ」
「頑張りとか、どうでもいい」
メイナード家の屋敷の大広間には、年頃の近い青年二人が対峙していた。白の神官服を身にまとった痩身の男は、握り返せば折れそうな細腕に小さなナイフを握っている。
美しい宝石が散りばめられたナイフは、薄青い光を宿し持ち主の手元を照らしていた。
金銀糸で刺繍がほどこされた白い神官服は、この国で聖職者の資格を持った者しか着ることが許されない職業服。向かいに立つ、もう一人の青年は、その神々しさと対比するように地味な灰のローブ姿だ。
外は昼間で明るいが、この先に行われる儀式のためとカーテンを閉めた室内は薄暗かった
眉間に皺を寄せ不機嫌顔の男に対し神官服の青年は「もったいないなぁ」としきりに繰り返していた。
「けどさ、お前の方が神官に」
「くどい。もう、いいから貸せ。俺は、決めたんだ」
何度も何度も意思を確認され、いい加減に鬱陶しくなってきたのか、焦れた男は神官服の男の手からナイフを奪い取り、自身の腰まである灰色の長い髪を思い切りよく肩の長さまで切り落とした。
男の手から離れた長い髪の束は、ばさりと音を立てて床に落ちた。
「あーあ、本当にやっちゃったし。思い切り良すぎない?」
「髪なんか、放っておけば勝手に伸びるだろ。だから、それはお前が好きに使え」
「こんなことしたって、いつか、私の力は尽きるよ?」
「じゃあ、なくなったら、またやるよ。それでいいだろ。そうすれば、お前はいつだって『完璧』でいられる」
この髪を切る行為は、男にとって意趣返しのつもりだった。そんなに、完璧が欲しいなら、力なんて全部くれてやると思った。
「またそんなこと言って。周りのことなんかどうだって良いんだよ。お前の気持ちが一番大事で」
「うるせーよ」
王宮で神官として過ごすために必要だった象徴的な長い髪は、もう男には不要だった。
どれだけ勉強したとか、過去に費やした時間を惜しむほど愚かなことはない。
男にとっては、過去より新しい未来の方が魅力的だった。
王宮を出たら短髪にしたかった。己の性に合わない修練院での生活が終われば、年齢にあった好きな格好をして、無精髭だって生やしたかった。きっと自分によく似合う。
そんな少し先の未来の自分に思いを馳せた。
「綺麗だったのにな」
「は、綺麗だ? 冗談」
「冗談じゃない。まぁ、短くても長くても、お前は、昔から、何にも変わらないけど」
「何も変わらなくて悪かったな」
「褒めてるんだけど、卑屈だと外で嫌われるぞ? まぁ、お前をそんなふうにした、王宮にいる人間が一番悪いな……」
綺麗や美しいという言葉は、目の前の神官様に与えられるものだと思っている。血の繋がりがあっても、二人はまったく似ていない。
美しく儚げな印象の兄と、粗野を絵に書いたような弟。同じ成果を出しても、あるいは、それ以上の結果を出しても、周りの人間は兄ばかりを褒めていた。
さすが、神の血を引くお方だ、と。
(俺だって血なら持っている、目の前の男より強大な力も……)
聖域にある修練院にいる間、喉元まで上がってきたその言葉を何度も何度も飲み込み、受け流してきた。
静と動。水と火。そういう対比。その地位に必要な人間が一人だった場合、よりらしい方が選ばれるのがこの世の常だった。
男は周りから選ばれる前に、より自分にとってふさわしい生き方を決めただけ。
兄に比べ「力」だけの弟だと言われながら「仕方なく」選ばれ、その地位に据えられるのは耐えられなかった。
神官服の青年は切り落とされた髪を拾い、机の上に置くと、やっと諦めがついたのか髪に手をかざし聖典の一節を口にした。こうして力は弟から兄へ受け渡された。
――これでいい、と思った。
「じゃあな、元気で」
男は踵を返し扉の方へ足を向ける。
「まってよ。せっかくだし、私の予言聞いていかない? 私、当て物だけは得意なんだよね。神官には、向いてないのに」
「謙遜しなくても、お前ほど向いてる奴はいないよ」
「力が弱くても?」
まっすぐな優しい瞳と言葉。男はぐっと奥歯を噛み締めた。それでも、誰も自分を選ばなかった。
二つ足せば完璧ね。そんな言葉は、もう聞き飽きた。
「予言なんて聞きたくないね。聞かせたいなら、お前の熱心な信者にいくらでも聞かせてやればいい」
「そ? じゃあ、私の予言聞きたくなったら、いつでもどうぞ。でも王宮に来るなら、とりあえず正装はしてきてね」
「その白い服を、俺が?」
ありえないと男は鼻で笑う。二度と白い服なんか着たくなかった。
「だって、その服だと、さすがに王宮にはあがれないし、今は似合わなくても「数年後」には、きっと様になってると思うよ。お前が望む通りに」
「誰が着るか、似合わねーよ。馬鹿兄貴」
「なんで、そうお前は素直になれないかな、そんなことないのに、あと兄に向かって馬鹿とかいうなよ」
くすんだ灰色の上下に黒いマントを羽織ったその姿は、暗闇に出会い頭に遭遇すれば死神だと騒がれても文句は言えないだろう。
この国において死は、等しく竜の福音とともに訪れるもの。物語の世界の死神なんてものは存在しない。それでも、人々は存在しないと知っていても、得体の知れないものを恐れる。
男は、死神を怖いと思ったことがなくても、得体の知れないものを恐れる気持ちだけは、共感できた。
いつまで続くとも分からない、同じ生活。歳を経るごとに自由が奪われ、ゆっくりと心が死んでいく感覚。
「ねぇ、足は、自分の進みたい方にしか向かないよ」
「……だから、出ていくんだろ」
「ま、今はね」
用は済んだとばかりに、荷物をまとめ部屋を出る。男兄弟の別れなんてそんなものだ。
――今日からは、自由だと思った。
屋敷を出るまで曇り空のようだった男の顔は、門を開け、外の世界に足を踏み出した途端に晴れやかになった。
「弟の暫しのお暇に、アレスピ神のご加護がありますように」
薄暗かった部屋のカーテンを開けると、青年が祈るまでもなく空は明るく、出て行った男の周りは暖かな陽の光に包まれていた。
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