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第二話
森の中にはシルヴィーの隠れ家があった。
学校の窓から見える、森の泉のそばにある二階建ての家。
学校で嫌なことがあったら、いつもそこに向かっている。初めて森に足を踏み入れたのは、今日と同じくディオに嫌味を言われた日だった。
シルヴィーは、いつだって神官にふさわしい自分でいたかったから、初等部のとき、自分で自分に誓いを立てた。
清く正しい自分でいること。昔、自分が憧れた王宮の神官様みたいに、優しく心温かい人になること。
人を傷つけたりは絶対にしない。悪口も言ったりしない。
だから、ディオに何も言い返せなかった。
そしてディオに言われた言葉と同じことを、家に帰っても両親から言われるのだと思うと、気が滅入り、足は自然と森の逃げ場所に向いていた。
森の隠れ家には、とある引きこもりの薬師が住んでいる。
森へ向かう道中、いつも初めて彼に出会った日のことを思い出すのは、思い出しているあいだは、不思議と泣かずにいられるからだ。
あの日のシルヴィーは、ふらりと吸い込まれるように森のなかに足を踏み入れた。
たどり着いた泉のほとりで長い間水面を眺めていると、陽が傾くにつれ、次第に水の色が夕日に染まり、その色を見ていると我慢できなくなった。
涙があふれ、ぐにゃりと視界が歪んだ。
学校ではディオに嫌味を言われ、家に帰れば、親の顔色を伺って、出来が悪い息子ですみませんと謝る。
こんなに、頑張っている自分が、なんで「ごめんなさい」っていう必要があるのか分からなくて、気づいたときには理不尽さに涙がこぼれていた。
誰もいないからと、一人わんわん大声で泣いていたら、自分の泣く声より大きな声で「うるせぇ!」と後ろから怒鳴られた。
声に驚いて涙がひっこんでいた。それが、彼との出会いだった。
理不尽な怒鳴られ方なのに、なぜか腹は立たなかった。
灰色の髪に烏色のローブをまとった長身の男は腕組みしてシルヴィーを木陰から見ていた。
鬱陶しそうに長い前髪をかきあげると、男はシルヴィーに近づいてきて、上体を屈めると、涙でぐちゃぐちゃの情けない顔を覗き込んできた。
――今にも死にそうな顔してたから見張ってたけどさ、そんだけ元気に泣けんなら大丈夫だな。
無精髭を生やした男は、底抜けに明るい人の良さそうな顔して笑うとシルヴィーの髪をぐしゃりとかき混ぜる。まるで、子犬を構うように、楽しそうに。その笑顔を見ていると、それだけで元気付けられて、だんだんと心が上向きになってくるから不思議だった。
男の金色をした瞳が夕日に照らされ、この国の神様である竜の瞳みたいに温かい色をたたえていた。昔、神殿で見たステンドグラスの飴色と同じ。
――オジサン、誰。
――オジサン? オジサンは、そこの薬屋さんだよ。ほら、話くらい聞いてやるから、泣いてないでこっちきな。
その日から、森の中にある、泉の近くの薬屋はシルヴィーの大切な居場所だった。
ロッキングチェアーに座り、まるで老人のような暮らしをしている森の中の薬師は、無言で店に入ってきたシルヴィーの顔を見ると、にやりとからかうような表情で笑った。
何の前ぶりも、挨拶もなし。
シルヴィーが店にくるときは、いつもこうだった。
「シルヴィーちゃん。一応、ここ、薬屋だから、ご用件をどうぞ」
「……」
「何買いにきたのかな? ママのお使いかな?」
それにも、返事はなし。
男は、やれやれと言いながら椅子から立ち上がると、シルヴィーに対して、一応は、店主の義務を果たすためなのか薬棚の前にあるカウンターの中に入った。
わざわざ森まで来なくても王都には、ちゃんと医者も薬屋もあって、森の中にある怪しげな店にくる客なんて、おそらくシルヴィーくらいだろう。
他の客と顔を合わせたのは、過去に一度だけ。その人は自分のことを旅人だと言っていた。
そういう意味で、シルヴィーの知り合いが、うっかり迷い込んでくる可能性がない森の薬屋は、いい逃げ場所になっている。
勝手知ったる店の中、シルヴィーは入るなり、さっきまで店主が座っていたロッキングチェアーに座って、そのままだんまりを決め込んだ。要件を言わなくても、ここにシルヴィーがくる時、欲しいものは決まっていた。
頭が痛い、息が苦しい、治す薬が欲しい。
泣きそうな気持ちの沸点が、落ち着くまで口を開きたくなかった。
ぎゅっと唇を引き結んで、ひたすらに耐えている。
「あっそ、頭が痛いのね……分かった分かった」
シルヴィーが何も言わなくても、店主が勝手に喋って、勝手に納得して、そうかそうかと明るく笑っているうちに、その症状は段々と落ち着いてくる。
薬なんて飲まなくても、ここにいるだけで治るが、何も用事がないなら帰れと言われかねないので、客としての用事を作っている。
――薬を買いに薬屋にくるなら、いいだろ。
そう言って、いつも、隠れ家にやってくる。
もちろん、シルヴィーの苦しい気持ちを治す魔法みたいな薬があるとは、思っていない。毎回、無理難題を言って、目の前の薬師を困らせているだけだ。
この店の軒先には、適当な字で薬屋と看板がかかっているが、表札も屋号も書いていない。
だから、シルヴィーは、しばらくの間、目の前の男の名前を知らなかった。初めて出会ったとき「オジサン誰?」と聞いたときは、薬師としか言わなかったし、名前は教えてくれなかった。
知らなくてもオジサンと呼べばいいので問題なかったが、ある日、珍しく来た客が「オジサン」だったから、呼ぶのに不都合が生じて、その時に「ジェイド」だと名前を教えてくれた。きっと、あの日偶然にも客が来なければ、今もオジサンだっただろう。
ジェイドは、無精髭は目立つが、お兄さんとオジサンの間くらい。だからシルヴィーのオジサン呼びにそのうち腹を立てるだろうと思っていたが、何回呼んでも笑っていたので、もしかしたら、オッサンでも、オジサンでも、ジジイでも、呼ぶことに不都合がなければ、どんな呼び方でも、ずっと笑っていたかもしれない。
大らかな人というより、ジェイドの場合、容姿や外見に無頓着なだけの気がした。あるいは今のオジサンみたいな自分が好きか。
シルヴィーは、ジェイドが街で流行っているようなオシャレな服を着ているところをみたことがない。
ここでいつ会っても、一年中、地味な仕事着のローブか、暑ければ、シャツ一枚で、家の中をうろうろしている。
外見を整えれば、もう少し若く見えるのに、ジェイドは、ずっと引きこもりのオジサンスタイルを貫いていた。
「今日も学校か? もう、夕方だし、子供はおうちに帰らなくていいのかよ」
「そんな子供じゃない。十八だから来年には働く」
負の方へ振り切れていた感情が、やっと落ち着き返事ができた。そうでもなければ、また、初めて出会った時と同じように情けなくジェイドの前でわーわー泣いていた。
「ちゃんと、口聞けるじゃん、声枯れてねーし風邪は引いてないなぁ」
「……うん」
「元気なら、薬は、要らないだろ」
「家に帰りたくない病」
「ガキかよ。まぁ、俺からすりゃ、シルヴィーちゃんは、子供だよ。まだ学生だもん」
「シルヴィーちゃんは、嫌だ」
「はいはい、微妙なお年頃だなぁ。シルヴィー、頭が痛いだけ? なら、なおさら、家帰って寝れば治るよ」
「いま家帰ったら悪化する、まだ帰りたくない」
「帰りたくないの~なんて、そういう殺し文句はもっと大人になってから言いなさい」
からかうような声で笑いながら、ジェイドは薬品棚から瓶を取り器用に薬を調合していく。この国で、薬を扱うことが出来る人間は、ごく限られていて、ある程度の学校を出ていないと薬学の知識は得られないものだった。
目の前の見るからに粗野に見える男が、高等な学校や研究機関で学んでいる姿というのがいまいち想像できない。
ただ、想像出来なくても、仕事をするその手は繊細に器具を扱い、一切危なげなところがなかった。客はこなくても、ちゃんとその道を志し、学んで生業としている人の仕事ぶりだった。
最初、薬師だといわれたときは、信じられなかったが、目の前で薬を扱う姿を見れば、嘘をついていないことだけは分かる。
(やっぱり、似合わないけど)
こんなところで隠居老人のような暮らしをしなくても、明るく気さくな人柄で、円滑に人と話も出来るのだから、きっと王都で酒場でもやれば、たちまち人気になるはずだ。
けれど、出会ってから数年たつが、シルヴィーは、ジェイドと、この森の中でしか出会ったことがない。
椅子の上で勝手に寛いでいると、ふわりと清涼感のある薬草の香りが部屋の中に漂いだす。その匂い自体の効能は聞いたことがなかったが、シルヴィーは、よく嗅ぐ胸のつっかえが取れるようなこの香りが好きだった。
ジェイドは、煙をあげる薄紫の液体をガラス瓶の中に注いで棚に戻すと、店の奥にある台所に消えていった。
しばらくして戻ってきたジェイドは、白い液体が入ったコップを持っていた。
「はい、どうぞ、シルヴィー」
「薬?」
差し出されたコップを受け取ると、温かい湯気から香る知った匂いに首を傾げる。
「ただのホットミルク、蜂蜜入り」
「なんで?」
「あのなぁ、ここにくるたびに薬くれ薬くれって、オジサンは、お前を薬物中毒にしたくねーの、わかる?」
「じゃあ、さっきまで作ってたのは」
「もちろん明日くるお客さん用です」
自分はお客じゃないのかとか、客なんて来ないじゃんと言いそうになったが、今のところ追い出されていないし、お茶まで出してくれた。一応、シルヴィーも客扱いされている。
「飲んだら、おとなしく帰ること、いいな」
「だって……薬、もらってない」
「あのねー、毎度お友達と喧嘩して泣きべそかいて、モヤモヤした気持ちが薬で治りゃ苦労はねーよ」
「そうかもしれないけど」
それでも、ジェイドの店に来ることでスッキリするのは本当だ。
「ま、相談があるなら王都の教会の神官様にでも話を聞いてもらいな、神学校の生徒なんだったら聖職者の資格もってる先生も沢山いるだろ?」
「絶対に嫌だ、神官様に話すくらいなら、ジェイドに聞いてもらった方がいい」
シルヴィーは声を大きくしていた。
「なんだそりゃ、俺は薬師だぞ? 薬しか出せん」
「だって、ジェイドは、なんだかんだ言って、ちゃんと私の話聞いてくれるし、聞いてもらったらすっきりするし」
「……そりゃ、一応は店に来たお客さんだからなぁ」
シルヴィーは、親にも、クラスメイトにも、一番言いたいことが言えない。泣き言も言ったことがない。
自分の弱みを見せるのは、情けないし、みっともないから。自分がなりたいと思って憧れている神官様は、笑顔が綺麗で、温かくて、迷っていたシルヴィーを優しく導いてくれた。
シルヴィーはそんな憧れの神官様に少しでも近づきたいとずっと思っている。
ただ、一度弱みを見せてしまった、ジェイドだけは、別だった。
一番、見せたくない自分を何度も晒している。
(なんか、喋っちゃうんだよな……ジェイドには)
それが、最初に一番恥ずかしい泣いているところを見せてしまったからなのか、ジェイドの人柄のせいなのかは分からないが、悩みの詳細は言わずとも、学校でクラスメイトに嫌味を言われるとか、家の問題で困っているという話はしていた。
「なんで、そう嫌がるかなぁ、神官様に言えば、お前の悩みなんて、すーぐ解決してくれるんじゃねーの」
「そんなの……みっともない、神学校の学生が、神官様に悩みを相談するなんて」
本当のところは、今の自分の悩みを神官様に相談して「あなたは神官に向いてないから諦めた方良い」と言われるのが怖かった。
結果的にそれが、自分にとっての真実でも、シルヴィーは、わかりましたと納得出来る気がしない。
「そうか? あいつらの仕事は人々の苦しみを癒すことだし、相手が誰でも喜んで聞いてくれんだろ」
話しながら温かい蜂蜜入りのミルクを飲んでいると、さっきまでのもやもやが少しずつ消えていく。
(ジェイドが黙っているだけで、何か薬が入っているのだろうか?)
「つかさ、シルヴィー」
「何?」
「もう、答え出てるじゃん、お前は、ここに来て、好きなだけ、わーわー喋って満足したら、頭痛いのも苦しいのも治るんだろ? じゃあ、そのお友達くんにも、親にもそうすればいいんだよ」
ごく当たり前のように正論を言われて、多分自分は、すごく情けない顔をしたと思う。
どうして、頭が痛いのか、苦しいのか。シルヴィーだって分かっている。
相手に向けて、うるさい! 黙れって一言でも言えたら、すごくすっきりする。
自分だって、こんなに苦しいって伝えれば、少しは楽になる。
でも、それは出来なかった。自分の理想に反することだけは出来ない。これはシルヴィーの志の問題だった。
「詳しいお前の悩みは聞いてないから知らねぇけど、バーレンス家とかクラスの目とか、気にせず言いたいこと言えばいいだろ? なぜ遠慮する」
「言えたら苦労しない、だって、相手だって私と立場は同じだよ、卒業前で色々大変なんだ」
自分だけが我慢しているわけじゃない。我慢しているのはディオも同じだ。
――そもそも、私のせいなのも分かってる。
「はっ、お優しいことで。そういうところが餓鬼なんだよ」
「が、餓鬼って」
「餓鬼だろ? 意地を張っちゃってさ。でもさ、心と体を壊してまで、学校なんて行く必要ねーよ。お前の好きにしたら良いんだよ、シルヴィー」
見上げると、ジェイドは目を細めて笑っていた。
考えてみれば、ジェイドが、怒っているところを見たことがない。怒っていても、本気じゃなくて笑いながら怒っていることがほとんどだ。
シルヴィーはそれにはため息で返事をした。
「以上、薬屋のオジサンのありがたいお言葉でした」
「……どうもありがとうございます」
「どういたしまして」
全部やめて、逃げて、諦める。楽な道を選ぶ。それが出来るほど、ここまでの道のりは平坦でもなかったし、短くもなかった。
たくさん努力して、勉強して、身につけた知識も、時間も惜しい。
何より、費やした時間や知識以上に、夢に対する思いのほうが強い。
すぐに諦められるものでもない。だから苦しい。
「ねぇ、ジェイド」
「なんだよ」
「私は、あそこで叶えたいことがあるから。だから、何言われても、我慢できる。頑張って報われないことなんて、絶対ないって信じてるから」
絶対に、神様に認められて聖職者になりたかった。
「何言われてもって、つまり、まーたクラスメイトに何か言われていじめられたのね、お前は本当に我慢強いな」
ジェイドは呆れて肩を落とした。
「……褒めてない」
「褒めてるよ? そこまで我慢して叶えるもんがあそこにあるとは、オジサンは一ミリも思わないけど、それでも、めげずに頑張ってるお前は、ちっとは偉いんじゃねーの」
「うん、だから頑張る」
シルヴィーは、店に来てやっと自然に笑えた。
「ほらほら、家の人心配すんだろ、それ飲んだら、暗くなる前に、街まで帰れよ、夜の森は危ないから」
「ありがと、ジェイド」
「おー、頑張れ。ま、お前には、頑張るなって言う方が、いいのかもしれないけど」
きっと家に帰れば、また成績のことを言われる。けれど、逃げ場所があるから、まだ前を向いていられると思った。
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