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第四話
その日、午後の授業が終わると、先生はお知らせが書いた紙を生徒たちに配った。
先生から配られたのは、今年の求人先一覧だった。
シルヴィーは、その紙を受け取ってから下校時間になるまで、先生の話も聞かずにずっと上の空だった。生徒たちが、帰り支度をすませ次々に教室から出ていくなか、シルヴィーは座ったまま紙を握りしめ微動だにしない。
不思議に思ったクラスメイトに声をかけられて、やっと現実世界に戻ってきた。
それくらい、その事実はシルヴィーにとって衝撃的なことだった。
「バーレンスさん。どうかされたのですか? どこか具合でも」
「……あの、求人に王宮神官の募集がありました」
「あぁ、そういえば、バーレンスさんは、王宮付きの神官様になりたいのでしたね。先日先生から、聞いたのですが、メイナード様が読師(レクター)を探しているそうですよ」
「メイナード様が読師を?」
確かめたわけでもないのに、その人が過去に自分が王宮で出会った神官様だと思った。
そして、その事実に手が震えた。端から無理で、絶対に叶わないと思っていた夢が叶うと思った。
もし読師を募集しているのが、シルヴィーがもう一度会いたいと思っているメイナード様でなかったとしても、少なくても、求人に応募して面接が叶えば、メイナード家の誰かに会うことは出来る。
事情を伝えれば、お礼は伝えてもらえるだろう。
「なんでもメイナード様はあまりお体が丈夫ではないそうで、仕事を手伝ってくれる方を探しているそうです」
「病気でしょうか」
「詳しいことは、けど、メイナード家以外から、王宮付き神官が募集されるなんて、珍しいですね。もしこのクラスから選ばれたらとても名誉なことですよ」
「そう、ですね」
「では、バーレンスさん、ごきげんよう」
シルヴィーに話しかけてきたクラスメイトは挨拶をして教室を出て行った。
「……メイナード様が」
昔、王宮で出会った時は、とても丈夫で元気そうに見えた。けれど、美しい金の瞳が少しだけ悲しげだったことが、ずっと心にひっかかっていた。
もし、病気で苦しい思いをしているのなら、自分が彼を支えたいと思う。
夢を叶えたいという気持ちを後押ししてくれた、優しい神官様に今度は自分が出来ることをしたい。
そして、その夢が叶わなくても、もう一度会いたいと思う。
最初から叶うことがないと思っていた夢が、手の届くところにあることに、胸が高鳴った。
シルヴィーは、求人の紙を握りしめると、教壇からおりて教室の外へ出て行こうとする先生に駆け寄って呼び止めた。
「先生、あの!」
「おやバーレンス、どうかしましたか?」
「あの、この仕事ですが、私は……」
シルヴィーの弾む声に反して初老のいつも優しい先生が残念そうに眉を寄せた。その顔を見て、シルヴィーは一瞬で状況を理解する。どれほど、シルヴィーがこの仕事を望んでいたとしても、自分には聖職者になるための資格がない。
何度となく祈っても、神様へ献身を示しても、身体は少しも変化の兆しを見せなかった。
「バーレンス。貴方がとても努力家で、このクラスで一番、神様の声を聞こうとしている者であることは私も知っています。けれど……貴方を推薦することは、今の段階では」
「……いえ、すみません、私の努力がまだ足りないだけですから」
「気を落とさないで、まだ、考える時間はありますよ」
頭を下げて、シルヴィーは先生に礼を言うと、カバンを掴んで長い廊下を足早に歩き、誰もいない倉庫に使っている部屋に入り込んだ。
とにかく、一人になりたかった。
大声をあげて泣きたかった。
いつものように、森へ行って、ジェイドの薬屋で話を聞いてもらいたかった。けれど、そうやって、逃げ場所を持つ弱い自分だから、いつまでたっても、資格が得られないのかもしれないと思うと、森へ行くことも出来ない。
頭の中でぷつりと糸が切れた。
その場にずるずると座り込み石の冷たい床に手のひらをつく。
やりきれない思いをそのまま壁をぶつけ、殴りつけていた。その振動で、戸棚からは埃にまみれた荷物が音を立てて落ちてきた。古い書物やがらくた、破れたカーテン。怪我をすることはなかったが、床に積もった埃が舞い上がって視界を奪った。
「教室から走ってこんなところにきて、泣いてるのかと思ったら、暴れてるし、猫かぶりのシルヴィー」
「ディオ……」
薄暗い倉庫の扉が開き、中に入ってきたディオが床に座ったシルヴィーをその場から見下ろす。
「お前、初等部の頃は、もっとやんちゃだっただろ」
「昔のことだよ」
板についた落ち着きのある声。確かに、ディオが言うように神官になる夢を持つ前は、学校でいたずらだって沢山したし、先生にもいっぱい叱られた。目の前に立っているディオと一緒に。
けれど、夢を叶えるために、真面目に勉強するようになったし、言葉遣いだって直した。
何もかもが理想の自分に近づくためだった。ディオは、昔も今も変わっていなかった。
嫌なことを言われればクラスメイトと喧嘩もするし、自己主張も激しい。そして、昔は神官なんて興味もないと言っていたのに、なぜか、ずっとシルヴィーと同じ専攻、同じクラスを選んでいた。
わざとシルヴィーに対抗するように。
「その喋り方、気持ち悪いんだよ。ごきげんようだなんて似合わないくせに、神学クラスなんか入って、おかげで、俺まで」
「俺まで? なに」
「ッ、うるせーよ、とにかく、普通に喋れよ。鬱陶しい」
自分が似合わないというなら、ディオも同じように神学クラスが似合わないと思う。
――それでも、似合わなくてもディオは聖職者になる資格を持っている。
ふつふつと湧き上がる醜い嫉妬の気持ちを抑えられなかった。自分とディオの違いがわからない。ぐっと、怒りを抑えて、シルヴィーは、ディオに言葉を返す。
「……ディオ、言いたいことがあるならどうぞ、ちゃんと聞くから」
「じゃあ、もう諦めろよ」
「何を」
「だから、神官なんて、お前に似合わねぇんだから、やめとけって言ってんの」
「なんで、ディオにそんなこと決められないといけないんだよ」
自分の声が自然と刺々しいものに変わってしまう。こんなのは嫌だった。こんな自分じゃダメだと思った。
「そうだ、それそれ、普通に喋れるじゃん」
バカにするように笑うディオに、シルヴィーは出来るだけ平常心でいようと、ゆっくり息を吸って心を落ちつけるように努めた。
「……ディオ、なんで私に、そんな意地悪言うの? 確かに、家同士比べられて腹が立つのは、分かるよ。私も申し訳ないって思ってる」
気持ちは理解出来ても、立場は同じだ。自分だってディオに腹を立てる権利くらいはある。けれど、その全部を飲み込んでいる。
つらい気持ちを相手にぶつけるのは、簡単だ。
けれど、そんな醜い心を神様は決して許さないと思った。
「わかってるなら、普通に街で就職すりゃいいだろ、なんで神官なんて自由のない仕事にこだわるんだよ」
「ディオだって、聖職者になりたいから、神学クラスにいるんでしょう、こだわるとか、なりたいから目指しているじゃダメなの?」
「俺は、別に神官になんてなりたくねーよ、なるつもりもないしな」
「……ッ、だったら」
声が詰まった。苦しくてたまらなかった。
「なんだよ」
ディオは煽るように片眉をあげてシルヴィーを見る。
シルヴィーは、頭の中で我慢していたマグマのような熱が一気に爆発した。
神官になりたくないなら、なぜ、その徴がディオに現れて、自分には現れないのか、目の前の男が憎くて憎くてたまらなかった。
「だったら、そんなに私が目障りなんだったら、ディオが、普通クラスに行けばいいよ。神官になりたくないんだろ!」
突然張り上げた大声に、ディオは驚いたのか目を見張った。
「っ、俺は、お前のことを思って言ってんだよ! それに、お前が神官になるっていう限り、俺は、あのクラスにいなきゃいけねぇんだよ」
なぜか思いつめたような顔をしたディオは、怒りをぶつけるように近くの荷物を蹴り上げた。
「訳が分からない、私のためとか、大きなお世話だ」
家のことなど気にもしていなかった小さな子供の頃は、確かに良い友人関係だった。
いつもディオがシルヴィーの世話を焼いていた。
けれど、それは、もう昔のこと。
気のおけない良い友人関係など、もう一度元に戻って築けると思えなかった。
「……なぁ、シルヴィー。お前、本気なのか? 神官の助手なんて、ただの慰み者だろ、なんで、そんなものになりたいんだよ」
「慰み者?」
「だから、今回のは神官様の嫁取りだって言ってんの」
「嫁取りって?」
「ッ、なんだよ、お前、本当に何も知らないで、受ける気か、馬鹿だな」
呆れた声のディオは、倉庫の古い書棚から、色あせた背表紙の本を手に取ると、シルヴィーに向かって投げた。
受け止めそこねた本が顔に当たってシルヴィーの膝の上に落ちる。
「下手くそだな」
「ッ……危ないなぁ、何これ」
「それ見て、まだ聖域に行って神官になりたいって言うなら、お前は馬鹿だ、どうかしてる」
「なんだよ、馬鹿って言う方が、馬鹿だ!」
「お前の方が、馬鹿だろ、力なしの無能力者のくせに!」
「ッ……」
多分、傷ついた顔をしてしまったのだと思う。ふいに、心の一番弱いところを、刺された。腹を立てて、それを我慢している間は楽だった。
けれど、ディオの言葉で、この部屋にたどり着いた時まで感情が巻き戻って我慢できなくなる。
どんなに望んでも、力が無い。目をそらすことのできない現実。
このままだと涙が溢れてしまうと思った。誰の前でも泣きたくないのに。
「シル……ごめ、俺……」
いつも強気のディオの瞳が一瞬揺れる。
本当は、ディオがひどいだけの人間じゃないことをシルヴィーだって知っていた。悪いことをしたら、ごめんなさいが言える誠実な男だ。
今は自分と同じように、何かやりきれない、行き場のない思いに苦しんでいるだけ。分かっていても、シルヴィーは、友達の心をそれ以上受け止めることができなかった。
自分だって苦しい。痛い。叫びたかった。
何も言わなくなったシルヴィーに、戸惑ったディオが声をかけようと口を開いた時だった。
「――こーら、んな狭いところで喧嘩するな、餓鬼ども!」
突然割って入ってきた声に、反射的に涙が引っ込んだ。
倉庫の入り口には、薬草をいれたカゴを肩にかけたジェイドが立っていた。
「……オジサン、何」
ディオは、不審そうな声でジェイドに話しかけた。確かに、先生の格好をしていない灰色のローブを着た男は、学内では不審者に見える。
「オジサンは学校に薬草卸しにきた薬屋さんです。ほらほら、お前ら、もう下校時間過ぎてるんじゃないのか、とっとと帰れ。帰らないなら、図書館に行け、そして勉強しろ」
追い立てられるように言われて、ディオは舌打ちをすると、そのまま倉庫から出ていった。
その場に残されたシルヴィーは、倉庫の中に入ってきたジェイドを目で追う。
「大丈夫か?」
「……なんで、ジェイドが学校にいるんだよ」
ジェイドが森の外にいるところにシルヴィーは初めて遭遇した。考えてみれば、いくら引きこもりでも食料を調達するなら、街に出ることもあるだろうし、普通に考えて、森の薬屋だけで生計を立てるのは難しいだろう。
「言った通り、お仕事です。神学校の先生に頼まれて、薬草届けに来たんだよ。とりあえず、倉庫に置いといてくれって言われて、来てみたら、お前らが喧嘩してた」
ジェイドは、そう言いながら、奥の棚に薬草のカゴを置いて、シルヴィーのところに戻ってくる。
「今まで、いい子いい子にしてたシルヴィーちゃんは、めずらしく喧嘩? 元気だね。でも、言いたいこと言えって俺は言ったけど、怪我してこいとは言ってないぞ?」
ジェイドはそういうと、シルヴィーの頬に触れる。ちりちりと痛むのは、さっきディオが投げた本が顔に当たって切れたからだろう。
「血が出てる」
「別に、たいした怪我じゃない」
「ほら、手当してやっから、うちこいよ」
「いい……」
「別に、泣き言くらい、聞いてやるよ、泣いてもいいし」
「泣かない」
「本当に、シルヴィーは偉いなぁ、泣いたくらいで神様は怒ったりしないのにね」
「そうかな……」
「そうそう、この国の神様は優しいよ?」
だったら、どうして「竜の加護」が自分には現れない?
神様は、怒っているんじゃないのか?
気づかないうちに、自分は大きな罪を犯している?
その答えは、きっと誰も持っていないし、自分で見つけるものだと思う。
神様の気まぐれで現れる不思議な銀色の文様。
シルヴィーが欲しくて欲しくてたまらないもの。
それさえあれば、シルヴィーの願いは叶う。夢は、手の届くところまで、近くにあるのに、無力な自分が不甲斐なかった。
「ほら、行くぞ」
「……うん」
シルヴィーは、ディオに投げつけられた本を、カバンの中に入れると、急かされるままにジェイドのあとについていった。
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