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第六話
目が覚めると、窓の外の日は落ち月明かりが部屋の中を照らしていた。店に着いた時は、まだ夕方だった。疲れて、いつのまにか眠っていたらしい。
服はきちんと着ていたし、自分がこぼしたものでどろどろに汚れたはずの身体は綺麗に清められていた。
気を失うように眠ったので、きっと、ジェイドが綺麗にしてくれたのだろう。
シルヴィーを苦しめていた熱からはすでに解放され、やっと身体を思い通りに動かすことができるというのに、すぐに動く気になれない。
まだ頭の奥がジンと甘い快楽の余韻に痺れている。
――あれは、毒だった。
シルヴィーは、断片的に記憶に残っている自分の言動を思い出し、羞恥に震える。頭の近くにあったクッションを引き寄せて顔を埋めた。
赤くなった顔がなかなか元に戻らない。
ジェイドに治療行為だと、前もって言われていても、恥ずかしいものは恥ずかしかった。狂うほどの熱に翻弄された。
(正気じゃなかった)
ジェイドが大人で、シルヴィーが子供だったから。
何も知らなかったから、解放する方法を教えてくれたに過ぎない。
ジェイドは、シルヴィーに手を貸す前に、心も身体もシルヴィーのものだと言った。
自分の身体が他人のものであるはずがない。頭の先から足の先まで自分のものだ。
けれど、分かってるつもりでも、シルヴィーは何も分かっていなかった。分かっていなかったから、簡単にジェイドと口付けをした。ジェイドは、そのことを叱ったのだと思う。
ジェイドのことを何も知らないのに、強引に触れ合った。だから罰を受けた。
何も知らない相手と深く触れ合うことが、どういうことかをシルヴィーは身を以て知った。心が苦しくて痛かった。
後悔しか残らない。
大切に築いてきた、ジェイドと自分の関係を一瞬で壊してしまうことをした。
己の身を捧げて、誰かを救うという献身の心は、神官になるために持つべき心だとシルヴィーは学校で教えられた。
シルヴィーは、救いを求める相手のためなら何だって出来ると思っていた。自分の身を差し出すことで、相手を救うことが出来ると勘違いしていた。
本当は、自分のことしか考えていなかった。
身勝手だったと思う。ジェイドがいつも言うように、シルヴィーは子供だった。
いつだって、ジェイドは言葉を、気づく機会を自分に与えてくれていたのに、失敗して相手を傷つけて、自分も傷ついて、初めて気づく自分の愚かさを恥じた。
自分も相手も大切に出来ないと、誰も救われない。
相手も同じように自分を大切に思っていることを忘れてはいけない。
(ジェイドは、本当は、神官になりたかったのだろうか)
相手の心に寄り添い、救い、導く。誰にでもできることじゃない。
いつまでも、逃げているわけにもいかないと、シルヴィーは緩慢な動作で起き上がり寝室を出る。階段の下の灯はついていたが、物音はなく静かだった。
自分で壊したものは、自分で直したい。
階段の下まできたとき、ちょうど店の扉が開きジェイドが帰ってきたところだった。普段、着ている灰色のローブ姿でなく、街の商人が着ているような上等な仕立てのスーツ姿だったので、はっきりと顔を見て、声を聞くまで誰か分からなかった。
「お、起きたか?」
「……ジェイド」
自分の声と疑うほどに声が掠れていた。
「ごめんなさい、寝てた。どこか行ってたの?」
ちゃんと話すと決めたのに、すぐに本題に入ることは出来なかった。
「お前の家行ってきたから」
「な、なんで!」
この辺りに住んでいれば、住所など言わなくても、バーレンスの名で住んでいる場所と家は分かる。けれどジェイドがシルヴィーの家に行く理由が分からなかった。
「いや、息子が夜になっても帰ってこなかったら、普通に心配するだろう」
「す、するかもしれないけど」
至極真っ当な理由だった。
それでも、両親にジェイドが何を言ってきたのか気になり、内心戦々恐々としていた。おたくの息子さんが、体に力取り込んであられもない姿になってしまい、などと本当のことを説明されたのだとしたら恥ずかしくて親に顔向けできない。もちろん、自分からしたことなので、ジェイドが何と言ったところで文句を言える立場ではなかった。
「な、何を言ってきたの」
「別に、なんも言ってねぇよ。つか、本当のこととか言えるか。俺は、犯罪者にはなりたくねーよ」
「犯罪者って」
「……自分で考えなさい」
ジェイドは、いいながらコートを脱ぎ壁にかけると、暖炉の前のソファーに腰掛けた。その様子から疲れているのだと分かる。
「母さん、何て言ってた?」
「別に? 俺はただ、おたくの息子さんが、今うちにいますって言ってきただけ。本読んでたら、寝落ちたんで、起きたら責任持って帰しますって」
本当にそれだけで親が納得するとは思えなかった。シルヴィーの不審そうな顔にジェイドは、苦笑いを返す。
「信用ねぇなぁ。一応、俺はちゃんとした大人なんだけど? 名前と住所と職業を言えば、大体の人間は、そうですかって納得するよ? お前がいつも真面目にやってるならなおさら、親っていうのは子供を信用する。色々親に言われて困ってるのかもしれないけど、親が子供を気に掛けるのは普通。ま、ちょっと過保護だったけどな」
「じゃあ、その服は?」
「似合う? さすがにいつものローブ姿じゃ怪しまれるだろ」
その口調がいつもと変わらず、明るかったので、シルヴィーは少しだけ安心していた。もう、話してもくれないと思っていたから。
「……うん、似合ってるよ」
「んだよ、気持ちわりぃな、似合わねぇとかいうと思ったのに」
ずっと階段の下に突っ立ったままだったシルヴィーをジェイドは呼ぶ。近くに立つと、目を細めて笑う。
「それで? 聞かねぇの? いま答えられる範囲なら言うよ。お前にも迷惑かけたんだし」
「……迷惑かけたのは、私だよ。ジェイドに無理やり」
「あー、まてまて、その話は、終わり」
「あ、うん」
「わかればよろしい」
確かに素面でする話でもない気がした。
「じゃあ、私にかけられた術ってなに」
「呪いな。神学の先生たちは、不謹慎だし言わないけど「竜の加護」なんて、別に大したことじゃねーんだよ。ただの気持ちの問題で、誓いみたいなものだから」
「誓い?」
「私は、神学を志してそれを仕事にしたいですっていう気持ち。その心さえ持っていれば、十五、六になったら自然と身体に現れる徴なんだよ」
「そう、なんだ」
「真面目にお勉強してるみんなには、卒業するまで秘密な?」
「……わかった」
「制御装置みたいなもので、その徴が現れることで、力が使えるようになる。そういう意味で資格なんだけど、力の大きさは、また別の問題。だから資格があっても力が使えない奴も普通にいるんだよ」
「そう、なんだ……」
「で、それがシルヴィー、お前にない」
「……うん」
学校の先生は、神官を志しているシルヴィーに対して「まだ時間はある」と言っていた。先生はシルヴィーが聖職者として仕事をすることにまだ迷いがあると判断したのかもしれない。
「でも、お前はもう決めてるんだろ? 神官になりたいって、別に迷ってるわけでもない」
シルヴィーは、ジェイドの問いに頷いた。
「で、さっきお前の身体に触れた時、首筋に赤い禁呪の文字が見えた」
「どうして、ジェイドにそれが見えるの?」
それが見えるのは、聖職者として働き、退魔の仕事をしている人間だけだ。術をかけるのは誰でも出来るが、見ることや祓うことが出来る人間は少ない。
「……神学校の優秀な生徒だったから、で、今はとりあえず納得してくれねーか?」
「けど、あれは……」
「近いうちに、俺から全部話すから」
「うん……分かった」
ジェイドはシルヴィーの矢継ぎ早な質問に苦笑した。
ジェイドが薬学に関しても、普通の人間では知り得ない知識を持っていることは確かだ。どういう事情があるにせよ、多方面に優秀なのは認めざるをえない。
そして、シルヴィーが身体の中に取り込んだ強大な力。どれくらいの修練を積めば得られるものか。
それを考えると、なおさら、ジェイドがこんな森の中で一人で住んでいる理由が分からなかった。
「お前に、竜の加護が現れないのは、誰かがお前の力をせき止める術をかけているからだ、俺の力がお前の中で暴走したのはそのせい。普通なら、取り込んでも簡単に抜ける。酒酔いと同じ」
「どうして、そんなの誰が」
自分で誰かと問いながらも、頭の中では答えが出ていた。
「お前が神官になることを望んでいない人間なんて、どっちかだろ」
「――そう、だね」
「親か、ブラハード家か。ま、この先は、シルヴィーが決めることだ。このまま、なかったことにするか、自分の呪いを返すか」
呪いを返す。自分が受けた呪いが、力を強制的に塞きとめるものだとすれば、それは禁呪の類だ。
かけるのは簡単でも、返すことが出来る人間はこの国でも限られている。
教会に相談して、退術専門の機関に依頼すれば、術を解くことは自体は出来る。
ただ、人間に術をかけることは、この国で犯罪だ。シルヴィーが術を返せば、犯人は法律で罰せられることとなる。
犯人が親なら、ただの身内のいざこざで片付けられるかもしれないが、相手がブラハード家だった場合には、なかったことには出来ない。
ディオは最悪、卒業後に仕事を得られなくなる。
「親は、違う……と思う」
「根拠は?」
「呪う理由がないから。私が、神学クラスで勉強するのを反対している理由がそもそも、力がないからだし。多分、いい顔はしないと思うけど、私がきちんと話せば、認めてくれると思うから」
「なんだ、ちゃんと、親のことわかってるじゃん」
ジェイドは、にっと笑った。両親を不安にさせているのは、シルヴィーが逃げて大事なことから目をそらしているから、自分が面と向かって親に思っていることをはっきりと言わないからだ。
「うん」
それに、父や母が術を使う可能性は、限りなくゼロに近い。いくら術をかけることが簡単といっても、ある程度は術式に関する基礎を学校で学んでいる必要がある。父や母は神学校で学んでいたわけではないし、シルヴィーの夢を諦めさせるために、わざわざ一から勉強するとも思えなかった。両親ならもっと他にやり方があるはずだ。
「シルヴィーは、どうしたいんだ?」
シルヴィーは自分が徴を得られない原因を知っても、不思議と、これで自分の夢が叶うとは思えなかった。
ずっとそれだけが望みだったのに。そのために時間を費やしてきた。努力だってしてきた。
けれど、自分が夢を叶えるために、見てこなかったことがあった。親のこと、家のこと。ディオのこと。
知って、それから考えようと思った。それからでも遅くはないと思う。
「もし、本当に、ディオがそんなことをしたなら、私はその理由を知りたい」
「知ってどうするんだ? 知ったところで、呪いは返すんだろ」
「ジェイド、私に言ったよね、立場が同じなら一緒に怒ってやればいいのにって」
「言ったな」
「何も言わずに私が我慢すれば、それでディオは救われると思ってた。でも、ちゃんと話をしようって思う。どうして? って聞いても答えは返ってこないかもしれないけど」
「いいんじゃねーの、友達なんだろ? でも怪我させるのはダメだからな」
「分かってる、穏便に話し合いする」
ジェイドはシルヴィーの頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
「……ジェイド」
「ん? なんだ」
シルヴィーは、ためらいがちに口を開いた。
「ジェイドは、どうして神官様にならなかったの?」
その力も素質もあると思った。けれどその道を選ばなかった。
薬屋になりたかった。一言そう言ってくれれば、よかったねってシルヴィーは安心できる。
知らないことで、ジェイドを傷つけていたらと思うと、それが怖かった。
「……何でだろうなぁ、多分、欲しいものが、あったからかな」
ジェイドは、どこか遠い昔を見ているようだった。
「欲しいもの」
「まぁ、結果的に手に入ったけど。もう少し、素直になったら、もしかしたら、違った結果になったかもしれない。無い物ねだりってやつだよ」
シルヴィーから見て、ジェイドの目に浮かぶのは少しの後悔だった。
「なぁ、シルヴィー。お前は、もう大丈夫だよ。きっと立派な神官様になれる。応援してるから、頑張ってディオくんと話してこい」
いつも明るく、自分を励ましてくれるジェイドの声が、ひどく寂しそうだったから。シルヴィーは、自分が何か悪いことをしている気がした。
「うん……ありがとう」
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