天使を拾う

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 数年振りに再開した友人とは、わたしの住むマンションから二つ離れた駅のすぐ傍にある喫茶店で落ち合った。わたしも友人も仕事の休みが不定期なので、お互いの予定をすり合わせた結果、平日に会うことになったのだ。友人は既に喫茶店の中にいて、入り口から一番遠い四人掛けの席にもう一人いる連れと座っている。友人が黒髪で素朴な印象なのに対して、ふんわりと顔を覆う白っぽい金髪が目立つ。 《天使を拾ったので相談に乗って下さい》  二日前にそう書いたメールが送られてきたので、意味がわからず電話を掛けてみた。 「何、天使拾ったって」  土曜日の午後、スマホを片手に耐熱透明マグカップにティーバッグを入れて、ポットからお湯をどぼどぼ入れながら、 「そのままの意味です。天使の羽根ってただ真っ白じゃないんですね。光沢で虹色に光ります」 「へーそうなん。まず前提がわかんないんだけど天使って実在してんの?」 「してますねえ。あなたこの間のニュース見てないんですか」 「ニュース嫌いなんだよねーいきなり誰それ死亡とか聞いちゃうとご飯食べれなくなっちゃう」 「ああ……あなたそれで卒業式出られなかったですよね。大地震のとき」 「そうそう覚えてんじゃん。こう見えて繊細なのよ」 「あなたが繊細なのは話していればわかります」  言ってくれるじゃないか恥ずかしげもなく。冗談だろうとわかっているのにこっちが恥ずかしくなって、ティーバッグをゆらゆら泳がせて気を紛らわす。取り出すまであともうちょっと。 「で、ニュースって」 「世界各地で薄明光線……いわゆる〝天使の梯子〟の中に人影を捉えたという話です。SNSで話題になったのが端を発し、その後人影に羽根があることが動画撮影で判明、ネットニュースになりました。その後はとうとう背中に羽根を持つ人が街中や病院、墓地などで確認されたため、今は捕獲しようとする人々が後を絶ちません」 「捕獲って」 「一応殺して捕まえたとは聞かないので生け捕りですね」  生け捕りと聞いて人型の何かが捕まえられる姿を想像してしまい、ぞわっと腕に鳥肌が立った。 「や、でも、それって偽物かもしれないじゃん」 「仮装もあったようですが、数人本物と出会った例もあるようです」 「……捕まえたの?」 「捕まえて羽根をもいだそうですよ。動画がありました」  あっ駄目だ想像してしまう、 「…………見たわけ?」 「いいえ。わたしが検索した時には既に削除されていました」  物騒な話だった。天使といえども人間に紛れた途端、珍獣のような扱いではないか。天使というからには神様からの使いとか、もっと神聖なものとして扱われるのではないのか。友人が「あなたにこういう話は向いていなかったですね」と思い出したように言うので、そういうことにはもっと早く気付いてほしかった。気分が悪い。  お湯が濃く色付いたのを認めてからティーバッグを取り出して、そのまま出涸らしをゴミ箱に捨てる。別の友人に一度淹れただけで捨てるなんてと言われたが、近所のスーパーで買ったお徳用なので一回使うだけで十分だった。シュガースティックの半分を入れて、残りがこぼれないように開け口を捻った。 「まあともかくそういうわけで、天使を拾ってしまったんですよね。食事不要排泄なしで今のところ手間は掛からないんですが、どうにもわたしの手に余ります。そこであなたが思い浮かんだので、巻き込むならあなただと思いまして」 「巻き込まないで欲しかったなー」  というかなぜそこで数年会っていないわたしを選んでしまったのか。同窓会の件などでメールのやりとりは数回したが、それ以外はこれといって特別なことはなかったはずだ。 「そう言わないで。あなたが昔書いたお話を思い出したんですよ」 「えっ」 「見せてもらったあと、わたしにくれたでしょう。雨の日に天使と出会う話。ちょうど拾ったのがそんな天気だったんですよ」  そういうわけでわたしは件の天使と会うことになったのだ。  友人が覚えていたという天使の話を書いたのは大学一年生の頃で、よくそれを覚えていたものだと思う。錆っぽい雨のにおいが入り込んだ講義室で、ぼんやり教授の話を聞きながらレポート用紙に少しだけ書いた話。友人はわたしの後ろの席から覗いて、よければ見せてほしいと言われたのがきっかけで知り合った。本当に一瞬で流れてしまうような短いその話を読んで、素直に他人に見せてしまった羞恥心で赤くなりそうなわたしに「昔知り合いに作家がいたことを思い出しました」と言われたことまで思い出した。話についての感想が一切なかったので、なおのこと覚えている。 「お一人ですか?」  喫茶店に入ってすぐ、店員に声を掛けられた。 「いえ、連れがあそこに、」  わたしの視線に気づくと友人は席へと手招いた。店員はお水をお持ち致しますねとわたしのもとから離れる。  チェーン店ではなく、昭和の頃からあるような、橙色の灯りに革張りの年季の入ったソファが置かれた喫茶店だった。禁煙席と喫煙席が一応分けてはあるようだが仕切りがないので、煙草のにおいが空間全体に漂っている。 「久しぶり」  連れと向かい合って座っていた友人が席を移動したので、わたしは二人の向かいに座ることになった。 「お久しぶりです。飲み物と……食事はどうしますか?」 「飲み物だけでいいよ」  二時に会う約束をしていたので、昼食は家で食べてきたのだ。壁側に置かれたメニューを一通り見たところで水を持ってきてくれた店員に、ミルクティーを注文した。 「えっと……そちらが?」  うっすら察してはいるけれど。言葉で指し示した人物はぼんやりした面持ちで、目の前に置かれたぷくぷくと泡が上るクリームソーダをじっと見つめている。溶けたアイスクリームが氷の上で層を作り、半球の形がまだなんとなく残っている。ストローが袋に入ったままなので、おそらく手を付けていないのだろう。 「ええ。こちらが例の天使です」  ひっそりと友人は口にした。店内にはちらほら常連客と思しき客がいるだけで静かな音楽が流れている。どこかで聞いたことがあるような洋楽。 「羽根がないけど」 「自分で仕舞いました。雨の中連れ帰って、ドライヤーで乾かしてよしと言ったらすうっと消えたんですよ」 「意思の疎通はできるんだ……」  そこにミルクティーが運ばれてきた。一緒に運ばれたシュガーポットから、ざらざらと詰まった透き通った小石のような砂糖をスプーンで一掬い入れた。かき混ぜているとすっと天使が顔をティーカップに向ける。動くものに反応しているようで、見た目は人間そっくりなのに、行動が動物っぽいなあと思った。 「それ飲まないの?」  試しに話しかけてみると、天使はわたしを見、上に載ったアイスクリームが溶けるままのクリームソーダを見、もう一度わたしを見た。 「飲む?」  ああ飲み方がわからないんですね、と友人がストローを袋から出し、クリームソーダの中に差し込んだ。 「どうぞ」 「……」 「昨日水を飲んだでしょう。あれと同じ飲み物です」  食事はしないのではなかったのだろうか?  二人の様子を見守りつ、自分の飲み物に口を付けた。おいしいと言うほどでもなく、不味くもなく、ごくごく普通の味。  天使はストローを咥えて、数秒じっとした後、少しクリームソーダの嵩が減った。そして一拍遅れて噎せ出す。 「……なんでクリームソーダにしたの? 自分で選んだの?」 「メニューの写真をじっと見つめていたので、試みに。昨日初めて水を少し飲んだのですが、ちょっとハードルが高かったでしょうか」  友人が天使の背中をさすりながら答えた。昨日初めて水を飲んでからのソーダは、人によるけれどハードルが高いのではないか。人ではないけれど。 「大丈夫?」  天使はわたしの顔をちらっと見上げた。見上げただけで特にそれ以外の反応はない。よくわからない。噎せるのが落ち着いたところで、友人が水の入ったグラスをすすめた。天使はおそるおそるグラスを持ち上げて、一口飲んでほっとした顔になる。 「それで、相談したいってのは何? 育てる方法なんて知らないけど」 「それはわたしも知りませんね。なのでどう暮らせば良いかを一緒に考えてくれるとありがたいです」 「今後も一緒に住むつもりなの?」 「そうですね。とりあえずものの使い方などは言えば理解するようなので」 「ふうん……」  それから友人と天使の出会いについて詳しく聞く。三日前の会社からの帰宅時に、人通りのない住宅街で天使はぼうっと立っていたそうだ。友人の住むマンションに帰るには最短のルートで、遠回りするのも面倒くさい。雨の日ですっかり暗くなってしまった夕方、道の端で濡れそぼった天使に、友人は傘を差しかけた。翼があって人の形をしてぼんやり発光していたため、興味を引かれてしまったのだという。 「着いてくるかと聞いたら着いてきたので、そのままうちに住まわせています」  何か食べるかと聞いても無言、寝る場所を用意したら横にはなっていた、何かしたいことはあるのかと聞いて無言、等々。  友人は話を締め括ると、カップのココアを飲み干す。喫茶店やカフェへ行ってもコーヒーも紅茶も苦手なので、学生の頃からだいたいココアを頼んでいた。ついでにこういった場所でなければいつも紅茶以外のお茶を飲んでいる。 「なんで住宅街にいたんだろーね」 「わかりませんね。今日初めて喋ったところを見ましたし」 「今まで会話してなかったの?」 「何を聞いても無言でしたから。この通り、基本的にぼうっとしています」  天使は水を何口か飲んだ後、またひたすらクリームソーダを見つめていた。溶け切ったアイスクリームがグラスの上部にこんもりと浮かんでいて、ぎりぎりのバランスでグラスからこぼれないでいる。ソーダの泡も減ってきて、溶けたアイスが氷の間を縫ってソーダの水色に混ざっていた。 「あなたが聞いてみてくれませんか?」 「わたしが?」 「だってさっきもあなたの言葉には答えたじゃないですか」 「答えたって……一言だけじゃん」 「ものは試しですよ」 「君はさっきからそればっかりじゃない?」 「初めてコンタクトを取ったものに対してすることなすこと全てがそんなものですよ」 「えええ……」  さっきから一緒の席でわたしたち二人の会話が聞こえる距離にいるのだから、何か反応を示しても良いものだけれど、天使は相変わらずクリームソーダを見つめていた。  なんと話しかけるのが最適なのかと考えてはみたが、わたしも友人も天使への会話術なんて知らないのだ。天使と聞くと次いで思いつくものがキリスト教で、そこから何か導かれるものがあるかといえばない。わたしの実家は仏教だし。……さっきも適当に話しかけたのだからそれでいこう。 「あのさ」  とうとう一筋溢れたクリームソーダから、天使は顔を上げて目を合わせた。目の色が真珠みたいだな、と思う。 「君は天使だって聞いたんだけど」 「天使」  天使は自身を指さした。 「その……何か目的とかあるの?」  天使は指を下ろす。 「目的はあなたを見つけることだった」  わたしを?  声こそ出なかったが驚いて目を見開いた。そして今まで一言しか喋らなかったのが嘘のように天使は語り出した。 「神は世界をもう一度作り直すと言った。いつまで経っても争いがなくならない。神には持て余すほどの時間があるがその中で世界の様子を見て争いを繰り返し続けることに飽きてしまった。面白くない。飽きてしまった。だからまた作り直してみて次はどんな世界ができるのか試してみようと言った。神は何度かそういうことをしている。今回は元々存在した世界の人間や動物を抽出して生かしてみようということになった。そのためにわたしたち天使は無作為に選んだ人間を神のもとへ連れて行った」  天使の視線はブレずにわたしを見つめて、 「覚えていない?」 「……何を?」  胸がざわついているのはなぜだろう。わたしはこの天使との面識はない。言っていることも、言葉の意味は理解できても現実のことを聞いているという気がしない。宗教の勧誘に近いものがある。 「一応聞くんだけどさあ、これって君とこの天使が口裏合わせて、久しぶりに会う人間を何かハメようとしてるとかじゃあないよね?」  友人の方を向いて尋ねた。 「おや」  友人が目を丸くする。天使が話している間、友人は空になったカップを弄んでいた。まるで天使の話を真面目に聞く気がないかのように。そこに天使がもう一度言う。 「覚えていない?」  わたしが何を忘れていると言うのだろうか。そもそも世界を何度も作り直すとはなんだ。そんなに何度もほいほい作り直せるものなのか。自宅から今いる喫茶店にまで来るのだってちょっと遠いなと思ってしまったくらいなのに、世界なんてこんなことよりもっとずっと大きいのだろうに、飽きたから作り直すってよくも簡単に言えたものだ。それでわたしのことを探していたとはなんなんだ。わたしには神様の知り合いも天使の知り合いも一切いないというのに。というかそんな人間いるのだろうか。  何を覚えていないのだか思い出してみようと試みているわたしを余所に、友人は天使が一口しか飲まなかったクリームソーダを手元に引き寄せて「ああもったいない」と、もうあまりおいしそうには見えないそれをちまちま飲み出した。それがなんだか苛立ちに繋がってしまい、わたしは思わず首の後ろに手をやって、首の付け根の辺りに埋まる琥珀に手をやり―― 「……あ?」  と、  視界が、歪んで、  琥珀、  どうして、わたしは、知って、  君は、  前から、 「……、」  ……  …………  ふっ、と、風に吹き消されたようにまたあなたは消えたのだ。いつもそうだ。 「駄目だったじゃないですか」  隣に座る天使を詰るが何も言わない。相変わらずわたしと会話をするのを拒否していた。何年も何十年も何百年経ってもこの天使の態度に変化は現れない。こうも嫌われているのにいつもあれを探すのにはこの天使がやって来るのだ。代わりの天使はいないのかと尋ねたところで答えがないのはずっと前に聞き続けることをして諦めたので、今回改めてまた質問する気も起きない。 「わたしもあれの片割れだというのに、どうしてそうも嫌いますかね」  天使は無言のままである。もう何度目になるのかわからないこの天使に対する溜め息を吐くと、わたしはあれの残したティーカップを引き寄せた。ほとんど残っていない。幾筋もだらだらと伝う溶けたアイスクリームのせいでグラスがべたべたになったクリームソーダは、少しだけ飲んでみてやめた。ココアのあとにこれは良くなかった。カップ二つとグラス一つをテーブルの端にまとめて、わたしは席を立ち上がって伝票を手にする。 「出ますよ」  一声かけると天使は一切こちらに視線もくれずに通路に出た。会計は飲み物を持ってきたのとは別の店員が行ったので、二人で店を出るのに飲み物が三つあることに一瞬不思議そうな顔をしたが、特に何か言われることもなく釣りを受け取ると店を出た。  店の外はよく晴れていて、少し暑いくらいである。 「この間の雨が嘘のように晴れましたね」  隣に立つ天使が自分のもとへ訪れたときはそれはひどい雨だった。せめて背中に付いている羽根で身体を覆うなりすれば良いのに、そういう器用なことができないのか羽根にも服にもたっぷりと雨を含ませていた。あの人を連れに何度も人の世に来ているのだから、いい加減身を守るとか傘を差すとか工夫を見せたら良いのにと思う。 「さ、帰りましょうか。また何年後でしょうね、あれが姿を現すのは」  天使は首肯すらしないが、歩き出すわたしの後ろを着いてくる。来るときは勝手に姿を現すくせに、帰るときはこちらがいいと言うまで帰らない。天使にはあれが本当に完膚なきまでに姿を消したことの見極めができないからだ。だからあれが再び世に表れても自力で見つけることができないし、見つけるためにもわたしのところへ赴くしか手段がない。なぜならわたしがあれの――世界を作り直すことができる神の片割れであり、二つに分かれたわたしたちがどうあってもお互い引き寄せられることになるからだ。天使を抜きにして出会った時点で一つになろうにも、意思決定はあれにあるので、とにかく見つけたら天使が来るまで手の届くところで見張っているしかないのだ。面倒なことをしてくれたものだ。 「それにしても何が面白くてこんなことをしようなんて……」  そう言いかけて、そうだあれはあれ自身が同じことを繰り返すのに飽きたからこんな事態にしたのだったと思い直した。自分が異なる生を送り続けられるのであればそれで良いのだ。わたしとあれが二つに分かたれた日を思い出す。 「いいかい、君はこれからわたしを探して、君と私をもとの一つにするのが役目だ」  そう言って最初は見た目が瓜二つだった片割れの神は背中を見せた。真っ白な肌にぼこっと浮き出た茶色い石。なぜそんなものを埋め込んだのかと思ったら、 「見つかったわたしがこの琥珀に触れると事態はリセット。君は一からわたしを探すことになる。わたしは自分が神であることを覚えていないけれど、防衛本能としてこれを触るのを君は防がなければならない。だがわたしも抵抗もするよ。頑張って」  あれは愉快だと言わんばかりに笑った。 「楽しみだなあ。いつ君は役目を果たせるだろうね。それまでわたしは人の世で何度も新しく生まれて人として生きるんだ。時代や環境によって異なる生を歩めるんだから飽きないよね。頗る面白いことだよね」  何度も何度も飽きたと言っては世界を作り直した神は言った。  最後に作り直した世界は前回の世界とほぼ似たような出来に最終的にはなってしまい、それでいっそのこと自分が世界に紛れてみてはどうかと考えたそうだ。自分がいない間暇になる天使たちには、天使や神の居場所を守ることのほか、わたしの役目を手伝うなり好きにするよう言いつけたと言う。  あれは「さあ始めようか」と首の後ろに手を回す。 「待って」 「何?」 「あなたとわたしを一つにするにはどうしたらいいんですか?」 「簡単だよ」  世界を見ることに飽きて、世界に交わることを選んだ神は、 「わたしにできなくて人にできることをすればいいんだ」  最後にそれだけ告げて、ふっと視界から消えた。  神にできなくて人にできるものなんてなかろうに、何を言っているんだとわたしは混乱するしかなかった。  それから何度もあれに会う度にただの人間として暮らしているのを見て、本当に人でいることしかできないのに何ができるのかと不思議でしょうがない。特筆できるようなものでも秘めているのかと探ってみても、神なら簡単に叶えることができることばかりだった。今回のあれは物語を作ることができるという一点だけが突出していたが、結局以前の人生とは違い仕事として活きるわけではなく、しかし数年前に後ろを歩く天使のような登場人物を著したのは面白かった。  そういえばあの話の天使はここにいる天使と違って、なんだか殊勝なことを言っていた気がする。なんだったろうか。確かまだ捨ててはいないはずだ。  あれこれ考えているうちに、いつの間にか自宅のマンションの前まで来ていた。 「さて、あなたは自分の仕事に戻ってください」  天使は道の左右を見て一目がないのを確認すると、ばさりと今まで隠していた羽根を広げた。出したり仕舞ったり便利なものである。 「そういえばあなたたち、最近よく人の前に姿を現すようになりましたね。何か意味でもあるんですか?」  天使はやはり口を開かず、ただ真っ直ぐにわたしの目を見つめている。 「羽根がもがれる動画がありましたが……あれは偽物でしたけど、あんなことにならないように気を付けてくださいね。あなたとはいつまで経っても友好的な関係になれそうにありませんが、それでももしものときには後味が悪い思いをするでしょうし」  ばさりと羽根を震わせて、こちらを強い風で扇ぐ。恐れというより心外だと言わんばかりだった。 「わたしに心配されるのが嫌ですか? それなら失礼しました。あなたがたは自分できちんと自分の身を守れますものね。でも死ぬ人間の前に早々に姿を現すのは逆効果ではありませんか? それとも天使を見てこれから死ぬのを悟ると、魂を迎えられる安心感でも得るのでしょうか?」  またも強い風が顔に当たる。  もう何も口にしないでおこうと背を向けると――初めて天使がわたしに対して言葉を発した。 「あなたはわたしたちの役目を知っていてなおわからないでいたのか」  真珠色に輝く目から伸びる視線が突き刺すようだ。 「そのためにわたしがいる」  どういうことかと問いかける前に、天使は空へと飛び立った。あとには呆然とするわたしが残される。あの口ぶりは、まさか天使はわたしとあれが一つになるための方法を知っていたのだろうか。知っていながらずっと黙っていたのだろうか。  背後でマンションの扉が開かれる音がしたので、我に返って自分の住む部屋へ向かった。三階の一番端。途中ですれ違った住人にはお辞儀で済ませて通り過ぎた。いつものことだ。玄関に入るとまたあれが大学生の頃に書いた話が頭を過ったので、わたしは部屋の中を探す。机の引き出しに入れた気がしたが見当たらなかった。どこにやったのだろうか。それからほかの引き出しやこまごまとしたものを入れた箱の中を探し、本棚の書物の間に挟まっているのを見つけた。シャープペンで書かれた文字が少し擦れてぼやけている。講義の合間に書いていた、短い短い話。その中の一文。 《わたしはあなたを迎えに来ました》  講義が終わってわたしは尋ねた。 「あそこで話が終わっていましたが、続きは書くのですか」  あれはわたしに自分の書いたものを見せたのが余程恥ずかしかったらしく、小さな声で答えてくれた。 「あー……ないわけじゃないんだけど、実はあれ、夢の話で」 「夢の?」 「そ。今日見たの。起きたらほとんど覚えてなかったんだけどさ、わたしに向かって天使があなたを迎えに来ましたって。そう言ったのをなんだかすごく覚えてて」 「死ぬ予定でもあるんですか」 「うわ物騒だな。ないよ」 「天使というものは人の魂を天国へ導くというのが仕事でしょう」 「そうだとしても予知夢でもあるまいし」 「瞳が真珠色なのですね、天使」 「うん。それも印象的だった。きれいだなって」  あれとの会話がよみがえり、あながち予知夢でもないなと思ってふと気づく。  あれとわたしが一つになるのに、迎えに来たと言っていたのは天使なのだと言っていたこと。いつも見つけられるのはわたしであって、天使は添え物のようにあとから出てきて再会するだけなのに。そして先ほど天使が口にしたこと。天使の役目。死んだ人間を導くのが天使である。  わたしは半信半疑になる。今まで考えそうにはなったが、そもそも神に限ってにそんなことはありえないだろうと否定してきたこと。あれが今の世で人間として生きているならば、可能なのだろうか。  本当に?  自分の思い付きが信じられない。  天使の視線がまだ強く脳裏に残っている。  そうしてもう一つ、ある可能性に気づいた。  神がもし、 「もう一度やろう」  と、 「…………はい?」  わたしは努めて顔には出さないようにして神を見た。世界を作り直すことに飽いた神が次に思いついたのは、自分が人間の一人となって世の中で生きることだった。 「今し方もとに戻ったばかりでしょう」  わたしが嗜めたところで聞きはしないだろうけれど、わたしにはわたしの仕事がある。死んだ人間の魂を導き、次の生へ送り出さなければならない。それは神が決めたことでもあるはずなのに。 「なかなか面白かった。自分のことを忘れて一から人の世に馴染み暮らすというのは。もとに戻ればその記憶を全て開くこともできるし、俯瞰して見るのと己が体感するのとはまた違った趣があっていい」 「ではわたし以外の天使にこの役目を命じてはいかがでしょうか」  神の暇潰しのために、わたしは神の作り出した片割れが神を見つけたのを見計らって、その場に赴かなくてはならなかった。しかもその片割れへの具体的な口出しは禁じられているので、さっさと役目を終えようにも片割れ次第で、失敗する度に神は姿を消してしまう。自分の役目がわかっている分、そばで何もできないのにやきもきする。 「いや君で一貫しよう。その方が話が早い」  それでまた神は自身の片割れを作り出した。片割れといっても神自身の能力まで持ち得ているわけではないので、ただ神を見つけるために長く生きる人間のようなものが一人生まれただけである。そして神もまた人間の皮を被る。 「わたしにできなくて人にできることをすればいいんだ」  神にできないことはただ一つ。  それは人間のように死ぬということ。  だから片割れがさっさと神を見つけて殺せばすぐに終わるのだが、これがなかなか気づかない。神を知り天使の役割を知り、わたしが傍らに訪れるのを鑑みれば自ずとわかりそうなものなのに。  こうして生まれた神の片割れとわたしは、再び人の世に赴く。  願わくば一日でも早く、神がこの暇潰しに飽きてくれますように。
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