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大学生の中野美弥子(なかの みやこ)は誰にも言えない秘密を抱えている。
日々大きくなっていく腹。
日々内側から感じる胎動。
祝福すべき生命の息吹に、美弥子は恐怖し、戦慄する。
「……あなたは誰の子どもなの?」
肉体関係を持った相手に心当たりはない。
念のために検査キットを試したが、結果は陰性。妊娠していない。
ーーママ、ママ、ママ……。
美弥子を『ママ』と呼ぶ幼な子の声が内側から聞こえる。幻聴という言葉で片付けられないほど鮮明な子どもの声。
「私にどうしてほしいの?」
美弥子は腹の子に語りかける。ぶくぶくと膨れ上がり、手足がくっきりと浮かび上がるほどに美弥子の腹は大きくなっていた。
美弥子はベッドに横たわり、寝返りすら打てない身体になった。田舎を出て都内で一人暮らしをしている美弥子は、ふと憎くてたまらない母の顔を思い出した。
美弥子の母・登志子(としこ)も同じような苦悩を味わったのだろうか。腹を痛めて産んだ我が子を、登志子は可愛く思わなかったのだろうか。
ーーママ、ママ、おなかすいた。
「ああ……そうだ」
ーーママはミヤコのことキライなの?
幼い美弥子が登志子に訊くと、登志子は決まってこう答えた。
『あんたを待っている人は他にいる。どうしてあたしのところに生まれてきたの?』
必要とされていない。
事あるごとに返される答えの意味を理解するころには、美弥子は登志子を憎んでいた。
そうだ。登志子は私を必要としていない。
でも、この子は……?
美弥子は歪に膨れた腹をさする。今にもはち切れそうな様は、空気を入れ過ぎた風船のようだ。些細な刺激で破裂してしまう。
この腹の中にもうひとつの命が宿っている。検査キットはあてにならない。美弥子はたしかに受胎しているのだから。
「……あなたは、私を待っているのね?」
美弥子が声をかけると、大きく腹が揺れる。
「あなたは私の赤ちゃん……」
ーーママ……ママはどうして……?
「どうしてってーー?」
自己陶酔から醒めた美弥子は目を見開く。
己の手が赤く染まる。
痛みもなくがっぽりと開いた腹。
垣間見える内臓。
素人目にもからっぽな子宮。
「…………嫌」
美弥子の子宮には何も入っていなかった。
「嫌……嘘よ、だって、私の赤ちゃん……。私のこと待っていたんじゃないの……?」
ーー必要とされていない。
「違うわ! この子には私が必要なの……私が母親になって愛してあげないといけないの!」
ーー思い上がりも甚だしい。
実家を出るときにかけられた言葉。
これが母・登志子との最期の言葉になった。
ーーママ、わたしをまっているひとはどこにいるの……?
「ああ……嫌、嫌よ嫌よ嫌よそんな……っ」
腹の裂け目は広がり、美弥子の身体を縦横無尽に切り開いていく。ベッドを染めていく赤い血。脳に酸素が回らなくなり、呼吸も危うくなっていく。
「……この子は……この子は私を必要としてくれる」
ーー必要とされていない。
ーーママ……ママはミヤコのことキライなの?
ーーミヤコをまってるひとはどこにいるの?
「…………美弥子を待っていた人は」
◇
異臭がするとの通報で警察とアパートの大家が駆けつけたとき、中野美弥子はベッドに仰向けに横たわった姿で発見された。死因は多数の裂傷による失血死である。
美弥子は死後二週間ほど経過しており、彼女のベッドは大量の血で黒く変色していた。
なお、美弥子の下腹部からは妊娠初期と思われる胎児の遺体も発見されたが、検視の結果、美弥子との血縁関係はなかった。
了
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