桐の箱

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桐の箱

 落ち着きさえすれば連絡があるだろうと思っていた健介からは、一切の音沙汰がないままに日が過ぎていった。  こちらから連絡はとっていない。緊急の事態でない限りそうする日常の決まりごとを美織は守った。  パパはいつ帰ってくるのかと、子供たちはそればかりを言い募る。空を塞いでいく黒雲のように、不安だけが降り積もっていく。  端末が鳴った。胸を高鳴らせて手にしたが、健介からではなかった。美織はそれを耳にあてた。 「はい、窪田です」 「わたくし、久我山と申します」 「あ、はい。お世話になっております」  会ったことはないが名前は聞かされている。しかし、健介ではなくなぜ上官なのだ。めまいのような揺れが襲ってきた。 「いえ、こちらこそ。奥さま四谷の隊舎はおわかりでしょうか」 「はい。お伺いしたことはありませんが」 「これからお越しいただくことはできますか?」  なぜ夫ではない。なぜ健介の声じゃないのだ。端末を握る手が震えを隠せない。 「はい」 「お子さまもご一緒で構いません。お待ちしております」 「はい」  なぜ訊けない。主人はどうしたのかとなぜに問えないのだ。 「ママ……ママ」  英斗にゆすられて我に返った。膝には美毬を抱いている。  ここは──。見回すと車の中だった。いつの間にふたりを連れて乗ったのだ。  そうだ久我山に車を回すからと言われたのだった。運転手とあいさつを交わした記憶がうっすらと蘇るが、はたして誰だったろう。 「パパは元気だったの?」  パッパ、パッパ、美毬が手を叩いて再会できることを喜んでいる。 「ごめんね英斗、パパの声は聞いてないの」  車窓を流れる街並みがモノトーンに沈んでいく。  車は滑り込むように隊舎に到着した。  案内を受けて一室に通された。  ドアの隙間から漂ってきた白檀(びゃくだん)の香りに美織の胸騒ぎは大きくなった。  デスクの向こうで立ち上がった男が頭を下げた。この大柄な人が久我山なのだろう。すぐに目を引いたのは、デスク横にある台に置かれた木箱。落ち着いたダークブラウンの室内には不似合いな白木の箱と、一筋煙をのぼらせるお線香。 9a25b63e-6d1a-44ae-b91f-c589b2280db2  引き剝がそうとしても、視線が釘で打たれたように動かせない。あんな小さな箱に収まってしまったのか。  口を引き結び、桐であろう箱の木目を美織は見つめた。  息が、できない。  ─fin─  〇〇前夜。『政府に尋問の筋これあり』へ続く。  https://estar.jp/novels/25886115
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