小説「石」

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 夜。寒空だけが澄んでいた。  私は大阪を発ち、東京の吉祥寺で「鈴木常吉」と待ち合わせをしていた。  ――鈴木常吉。決して有名ではない、古きシンガーソングライターだ。 「この店も変わっちまったな。昔は常連しかいない汚ねえ店だったのによ」  昭和の色を残した瓦屋根の古い居酒屋は、町のはずれにあった。少し前にドラマで取り上げられた影響らしく、外に人が並ぶほど繁盛していた。  ここに来たのは久しぶりだというその声からは、悲しみとも優しさともいえぬ感情が滲み出ていた。 「常吉さんのお住まいは、この辺りなんですか」 「ちげぇよ。三鷹の方だよ」  私が初めて彼の歌を聞いたのは、深夜のテレビドラマだった。メディアからは殆んど流れない彼の歌が、孤独な部屋に響き渡った。主題歌ではなく挿入歌として。歌声は低く優しく、寂しかった。メロディが哀愁を感じさせ、私の心にゆらりと溶け込んだ。 「俺は、歌で人様になにかを伝えたいなんて思っちゃいねぇよ」  淡々と。だがそこには、確かに伝わる熱いものがあった。 「ここの店にはいつも必ず同じ顔の連中が飲んでいてな、飯は不味いがまあいい店だったよ。最近は見かけないが、もう死んじまったのかもな」  飄々と。けれど声は表情と同じく悲しみと優しさを湛えていた。  歳は聞かなかったが六十歳あたりであろうか。妻子もおり息子は大学生だという。 「家族には迷惑をかけたが、しょうがねーよな。家族なんだからよ」  目尻の皺が温かみを感じさせる。 「自営業みたいな無職」と本人は笑っている。安定も社会性もないが、全国で歌っている。流れのままに、ただ歌う。 「俺は運がよかった」音楽だけやってこられたことに対して、彼はそう言った。自由に対する才能、駄々をこねている子供のようにまっすぐな強さ。蓋のしまった、どこまで深く底が見えない人間の魂が、ちらと反射して見えた気がした。  私は当時、定職もなく、小説家という夢に怯えて、恐怖を酒で紛らわし、過去に隠れていた。気がつくと、いつの間にか心の中に小さな石が転がっていた。それは固くて冷たく、叩き割ろうとするも破片が血管を傷つける。石は割れない。心は泣いている。顔は飾りか、涙も出やしない。そして雨が降る。降り続く。もうその雨でゆっくりとヒビが入るのを待つしかなかったのだが、人の一生はあまりにも短い。私は悲しかった。もう空が晴れないことに。それに甘えている自分に。  鈴木常吉の歌に惹かれたのは、彼も石を抱えているのではと感じたからかも知れない。ただ、彼の雨には冷たさを感じない。私はそれに触れてみたいと思った。  ある星も見えやしない夜。倉庫を改造した秘密基地のような空間で、麩菓子のような音質が冷えた空気に噛みついていた。客は十人いるかいないかだろう。そんな中、焼酎臭い老けたおっさんが、のそのそとギターを持って現れた。口ではなく、ケツの穴から呻るようにおっさんは歌いだした。  その瞬間、雨が止んだ。   ――思い通りにはならねえな 近づいてるとも思えない     ここが一体どこなのか 目の前を車が通り過ぎる     あの日 流れ星が流れて     我が心に落ちて石となる     きっと いつか俺も     自由になるのだろうな     満ち足りたことなど一度もないと つぶやいたアイツが忘れられない     駅前の道がどこに続くとも 釜戸の中では火が燃える     月の光は風の中で ニオイのように漂ってる     俺の頭に手を乗せて 此処にいるよって言ってくれ     あの日 流れ星が流れて     我が心に落ちて石となる     きっと いつか俺も     自由になるのだろうな――  ああ、雲が流れていく。空ってこんなに高いんだ。久しぶりに、足元に目をやると、地面には無数の石が光を浴びて輝いていた。雨が止むと、こんなにも美しく光るものなのか。  鈴木常吉。彼の石には苔がびっしりと生えていた。石は生きている。それは誰もが持っているものだった。彼の心にはいったい、どんな流れ星が落ちたのだろうか。 「お前、俺の話なんか何の意味もねえぞ」  悠々と。優しい人だ。本当の優しさは悲しいものかも知れない。  彼は決してメジャーな歌手ではない。だが、そんなことはどうだっていいんだ。ただ歌が歌えれば、それでいいんだ。  ああ、なんだ、目の前にあったんだ。ふと、そう頭によぎった。 「俺は好き勝手やってきたけどよ、絶対に曲げちゃいけねえ所もあるんだわ。まあ別に、どうだっていいよ。生きているんだから」  私は心に石を持っている。生き方なんて、ただの飾りみたいなものだ。  心の石は、決して壊しようがない。壊す必要がない。磨いたり、蹴飛ばしたり、静かに眺めたり、忘れたり、好きにすればいいんだ。  さあ、帰ろう。私の石が寂しそうに大阪で待っているから。  夜。空気が澄んでいる。空には星が見えた。 「お前は優しすぎるよ」  彼は最後にそう言った。  その瞬間、私の心に流れ星が落ちた気がした。
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